世界が、朱に塗りつぶされる。

 生徒も大半が下校しすっかり静かになった学校、教室の机に残されたカバン。
 そこは衛宮士郎の席。

 こんな時アイツの心に在るのは彼女だ。
 真っ直ぐで律儀で、頑固で恥ずかしがりやで。
 その身に宿した力と決意で聖杯戦争を戦い抜き、そして不器用に、でもやっぱり真っ直ぐに恋をした。

 セイバー。
 貴女は永遠。
 いつまでも彼の中に疼き続ける美しい痛み。
 それは色を成し彼の空を染める。

 星の空。仄かに照らす氷輪。
 運命と呼べる出会いと、剣林の中にあって寄り添い重ねた心の象徴。

 稜線から滲みだす光。夜の支配が解かれるとき。
 別れ際に伝えられた真心の象徴。

 だから彼が想いを馳せるのは決まって少しだけ空に近い場所――





――歩み始める、その隣に――





 屋上へのドアを開ける。
 差し込んでくる圧倒的な朱。
 そこに彼は士郎はいた。
 何をするでも無くただ見上げて。
 沈み行く夕日が彼の輪郭線を曖昧に溶かしているよう。

 駄目よ、まだ連れて行かないで――

 何処かが締め付けられ不意にその背中に声を掛けてしまう。

「そろそろ寒くなって来たわ。帰りましょう?」

「ん。ああ、遠坂。カバン持ってきてくれたのか」

 逆光に振り返った笑顔が眩しくて切なくて、それから――。

「今日は夕飯どうする?うちで食べていくか?」

「うん。そうしようかな」

「じゃあちょっと商店街に寄って買い足していくか」

「なら私が食材選ぶから士郎は荷物持ちね」

「了解だ」


 校舎内に響く2人の足音。
 士郎が私の前を歩く。――違うか。私が、士郎の後ろを歩く。
 聖杯戦争が終わってからの私は何となくそうしている。
 先んじて行く事も、まして隣に並ぶ事もしない。
 たまに私から誘って出かける時でもそう。
 彼の隣には今だに美しい幻影の少女。ひょっとして引きずってるのは私の方なのかな。
 士郎は不思議そうな顔をしながら振り返っては、あわてて歩幅を合わせてくれる。

 そんなやり取りを、何度も繰り返している。
 募るのは苛立ちばかり。士郎へ。私へ。


 今日もまた、そのループに流されると思っていたのだけど。
 きっかけは意外だけど案外簡単で見つかり易いところにあったりするから笑っちゃう。



「いらっしゃい遠坂」

「お邪魔します」

 招かれるまま入った玄関には靴が3足揃えられていた。

 「おかえりー」居間から顔だけで藤村先生。
 「おかえりなさい」しっかり出迎えてくれる桜。
 「お帰り士郎ー!!」 「ぐは」毎回士郎に鬼タックルをかますイリヤ。
 「ついでにリンもおかえりー」ついでかい。

 小さめのテーブルにこの人数だから文字通り膝と膝をつきあわせて座るのだけど、結構嫌いじゃない。
 士郎が買い換えるか、と言ったこともあったが私が反対してそのまま。

 正直、私は弱くなったのかも知れない。
 広い家、無駄に立派なテーブルに並べたのは私独り分の食事だけ。
 おかわりをお願い出来る相手も、おいしいねと言ってくれる人もいなかった。どんなに調理しても、それは温度が高いだけの冷たい料理。
 でもここには暖かい全てがある。くれたのは士郎、そして皆。
 桜に藤村先生にイリヤに士郎がいる、そしてセイバーのいた衛宮家。
 触れた温もりは甘美で残酷で。
 全てが終わっても曖昧さをもたらし、でも同じだけ安らぎをくれる。

「リン?何ぼーっとしてるのよ」

 テーブルに腕をついて考え事をする私に気を遣ったのか小声のイリヤ。士郎は着替え、桜は台所でお茶の用意、藤村先生はテレビに噛り付いているので気付かない。

「ん…別に大した事じゃないけど。…貴女いつも私にもおかえり、って言うわよね」

「ええ。こっちも別に大した事じゃないわ。おかえりって言いたいからそう言ってるだけ」

「そう」

「そうよ」

 イリヤって案外いい子なのかな。少なくとも私よりはずっと素直でしかも思慮深いような気がする。

「ありがとう、イリヤ」

「な、何よいきなり」

「ありがとうって言いたくなったから言ってみただけ」

「むむ。ふ、ふーんだ。たまには士郎の前でも素直になってみたらいいのに」

 ――ええ、全くだわ。でもねイリヤ。飛び込んだ先には果たして居場所はあるのかしら。
 絶対に勝てない存在がそこにはいるのよ?

 するとイリヤはこちらの思う所を見透かしたように――

「…リン。セイバーと張り合おうとするのがそもそも間違いなのよ。私には私にしか、リンにはリンにしか出来ないことだってあるんじゃない?私たち、士郎と触れ合える所に居るんだから」

 でも――
 言おうとした私を遮ってイリヤが続ける。

「思い出は思い出でしかないわ。夢に見ることは朝が来たらおしまいにしなきゃ。ずっと寝ぼけたままの奴がいるなら、誰かがひっぱたいて起こしてあげないと駄目でしょ?」

 そこで少し俯いたかと思ったら、とびきりの笑顔が私に真っ直ぐ向けられた。

「でもひっぱたくには私はちょっと背が足りないからね、その役目はリンに譲ったげる」

 うわ。この子って凄い。ちょっと尊敬しそう。
 ふふん、感謝しなさい、と胸を張って言う小さなお姉さん。

「ええ。もう1度言うわ。ありがとう、イリヤ」

 そう言いつつ思わず抱きしめてしまった。小さい肩、体。でもこの中には私なんかより何十倍も大人の精神が、愛情や友愛とそれを行使できる強さがギッシリ詰まっている。断言。

「な、別にリンのためじゃないんだから――士郎のためなんだから」

 でも、ありがとう。どうやらこの借りは大き過ぎて返せそうにないから、せめて抱きしめさせて。

「今日は遠坂先輩が作って下さるんです…って、え?どうしたんですか?」

 あう。桜に発見された。
 桜の声に反応して、ん?と首だけ捻った藤村先生にも見られてるし。
 士郎に見つかってないだけマシか。

「えーと、あのその」

「…まあ、もう大丈夫、ってことよ2人とも」

 ぽんぽん、と私の背中を叩いてイリヤが離れた。

 そんなイマイチ的を得ないイリヤの答えに桜はまた、え?え?と首を傾げていたが、視線をテレビに戻した藤村先生は

「そっか、もう大丈夫なんだ」

 と呟いた。声だけで笑顔なのが解る。実は全部聞いてたんじゃないだろうか。

「ええ。だから夕飯の支度お願いねリン。…取り合えず顔洗ってからね」

 え?あれ?あわわわわわわわ。なんで私――泣いてるんだろ。
 頭の上にはてなマーク満載の桜が何か声を掛けてきたが、ダッシュで洗面所へ。
 おまけに途中廊下ですれ違った士郎がとんでもない表情で見てくれやがったけど、これも無視。

 壁付けの鏡に映る自分を見る。もう何かかつてないくらいぐしゃぐしゃだ。
 あーでもここ最近の顔よりはマシかも。
 奥でチリチリしていたものをイリヤが取ってくれたのかな。

 ぱんっ、と両の頬を叩き、涙腺と一緒に緩んだ顔に気合。
 明日からは多分ちゃんと歩ける。いや絶対大丈夫。
 ついでにねぼすけを叩き起こして引きずり回してあげるくらいは出来そうだ。
 引き伸ばすのも面倒だし、もう、明日から遠坂凛復活祭よ、覚悟しなさい衛宮士郎。
 そんな決意に鐘は鳴る。

「遠坂さーん、お腹空いたよー」


 その夜はいつもより1杯多くご飯を食べた。






 決意とかそういったものはともかく日々の責務、学生の本分は嫌でもこなさなきゃならない訳で。
 士郎には放課後屋上に来て、と伝えた。
 伝えた時、真面目な顔の私にちょっと怯えるような取って食われるとでもいいたげな顔してたな。
 ふふ、衛宮君半分正解です。


「よし…そろそろ行こうかな」

 校内にほぼ人気が無くなるのを待って席を立つ。

 がらがらっ

 勢いをつけて教室を出ようとした所で危うく正面衝突しそうになった。

「わっ。あれ?遠坂まだ残ってたのか」

「あら綾子。ちょっと用事があってね」

「――ほう。それは中々色っぽそうだな」

 途端腕を組んでニヤニヤ。っていうかジャマよ。ドアの前に立たないで頂戴。

「なあ遠坂。アンタって最近衛宮と仲いいよね。街とかで2人を見かけた奴も結構いるみたいだし」

「士郎と?ええそうね。いいじゃない、別に」

「む、否定しないんだ。しかも名前呼び捨てなんだな。やっぱり付き合ってるのか」

 くす。親愛なる友人の問いには最高の笑顔と攻撃力で答えてあげるわ。

「――いいえまだよ。でももうすぐそうなるから宜しく。因みにこれから私屋上で士郎に会うけど間違っても邪魔したり聞き耳立てたりしないでね?」

 どてーん。綾子が年頃の乙女らしからぬ音を立ててひっくり返った。


「そそそそうかっまあせいぜい頑張ってくれっ。あ、あたしは何しに来たんだっけ…そうだっ辞書だ辞書取りに来たんだッじゃあな遠坂っ」

 わたわたと辞書を探り、うねうね蛇行しならが廊下の角を消えていった。おーい、同じ側の手と足を同時に出さない方がいい思うけどー。
 …うん、いい調子だ。校内いちの女傑からあっさり1本。


 さて行こう。





 いつもの様に彼は彫像のように立ち尽くし空を見上げている。

「…首痛くならないのかしら」

「む。遅いぞ遠坂。放課後中待たすなよ」

 いいのよ、わざとなんだから。刑執行前の猶予時間みたいなものよ。
 丁度士郎から伸びた影の分だけ離れて立つ。

「で…どうしたんだ?」

「どうもしないわ。大事な話があるだけ」

 思いのほか冷たい風のせいもあってか2人とも顔が引き締まる。

「何だよ話って」

「わざわざこんな所で2人きりでする話、ちょっとくらい思いつかないの?」

「え?うーん…。――――だっ、いやこれは無いよなでも他に思いつかないなあうう…」

 なんかぶつぶつ言ってる。ダメだ、この男。やっぱり野放しには出来ない。
 さぁお腹に力を入れろ。撃鉄を起こせ…ってこれは私じゃないわね。

 ふー、と一息して。

「士郎」

「あ、ああ悪い。ちょっと…思いつかない」

「そ。じゃあ教えてあげる。貴方、卒業したら私と一緒にロンドンに来なさい」

 う。いざ言葉にするとこれって――

「え?お前何言って…」

「傍に置いておかないと不安で堪らないから付いて来いって言ってるのよ」

 これって告白してるのと同じなんじゃないだろうか。耐えろ赤くなるな私の顔。

「気持ちは嬉しいけどさ。その…色々大変だし、遠坂にも迷惑じゃないか?」

「はあ。もう。私が良いんだからいいのよ。アンタだってこの先具体的にどう進むべきかなんて分からないでしょ?それに私が向こうへ独りで行って、誰か好きになってもいいのかな?」

 これは卑怯かな。自意識過剰っぽいし。

「む…祝福したい所だけど――何かちょっと嫌だ」

 ちょっとどうかとも思うけど、浅ましい独占欲を突付く事に成功。
 見詰めるその顔には夕日以外の赤も浮き出ているみたいだ。
 うん、そうよ。
 貴方はもう少し、自分のために我侭になってもいい。
 正直な馬鹿が馬鹿を見るだけなんてそれこそ馬鹿げてるし私には許せない。

「じゃあいいでしょ?貴方は私に悪い虫が付かないように見張ってくれればそれでいいし」

 貴方の我侭には私が付き合ってあげるから、ね。

「…何だか元の調子戻ってきたみたいだな」

 ふん。それはお互い様でしょ。ま、折角だからもう少し調子に乗ろうかな。

「あー、追加。炊事洗濯掃除とかもしてくれると嬉しいかな」

「…それ主夫って言うんじゃないか?」

「私みたいないい女と一緒に居られるんだからそのくらいして貰わなきゃ」

「何か立場が逆転してるし」

 うるさい。さっさと頷け。


「俺、馬鹿だし鈍感だぞ」

「知ってる。その分私が賢いから大丈夫」


「お前の事きっといっぱい怒らせるぞ?」

「いいわよそんなの。上手く付き合ってくる士郎なんて気色悪いわ。遠慮しないで怒られときなさい」


「――俺多分、セイバーのこと一生忘れられないぞ」

「それも解ってる。むしろ忘れたり何とも思わなくなったりしたら本気で殴るからね」

 うん。貴方がセイバーと出会い、通じ合い、そして離れた。
 その先の今だからこそ貴方と私がこうして存在出来ているんだもの。
 それに彼女を想う気持ちを含めて、何処までも真摯な貴方が、私は好きだから。


 なんで告白しながら決闘前みたいに対峙してるんだろ。
 私はただ士郎の目をじっと見据えて待つ。
 何度か2人の間を風が凪いでいったが、やがて――


「はあ。全く強情な奴だな。わかったよ、お前に付いていく。確かに自分じゃよく解らないから、遠坂がハッピーにしてくれると助かる」

「よし、契約成立ね。ハンコはこちらにお願いします――」

 傍へ寄り、問答無用に抱きついた両手を彼の首に回し、吐息を感じる距離まで詰め目を閉じる。

「なっ」

「んー」

 ああ、私の馬鹿も相当出来上がってきたな。もう沸騰しそう。

「…ありがとう、気に掛けてくれて。お前やっぱいい奴だ。セイバーへの想いとは別に、俺は遠坂が好きだ」

 のあっ直球っ。やっぱ恥ずかしいわよ、アンタっ。

「ばっ…しろ…んむっ」

 2回目のキスは彼から、強く抱きしめられて。
 あの大混乱の中でしかも成り行きみたいだったファーストキスがとんで行った。
 今日がはじめてです、と心の思い出ノートを書き直しておこう。
 激しくは無いが互いの唇を何度か食むようにした後ゆっくりと離れた。

「…もう1つ忘れてた。これからは私の事を凛、って呼ぶこと」

「む。契約後に条件を追加するのは反則じゃないか?」

「うるさいわね。じゃあ再契約よ」

 ちゅっ。今度は私から不意打ちしてあげた。





 その日の帰りも士郎と夕飯の買い物。
 今日からは彼の隣を、その手を取って。
 商店街で冷やかされたり幾人か見知った顔が通り過ぎたけど、気にしない事にした。
 気にしない割に顔がとても熱かったけど、やっぱり気にしない。

「あー、桜たちに何て説明すればいいのやら。全然説得できる自信ない」

「まあ何を言っても血を見ることは間違いないんじゃない?」

 肩を落として、うう、だろうななんて言ってるけど笑顔みたいで安心。

 そうしているうちに士郎の家に到着。でも彼の手を引いて玄関をくぐるのを引き止めた。

「遠坂?」

 不思議そうな声を出す彼を追い越して、先に玄関に入る。
 靴を脱いでくるっと向き直ったら。

「おかえりなさい、士郎」

「え?あ、ただいま遠坂」

「…微妙な受け答えと顔しないでよね。それに、ちゃんと名前で呼んで頂戴」

 む、そうだったな―と苦笑い。
 そうよ、今日から貴方の帰る家は、わたし。遠慮しないで。
 でもキョロキョロなんかしてたら私も思い切りとっちめてあげるから油断しないでね。
 ――たまには抱きしめて甘えさせてあげるけど。

「うん。ただいま、――凛」


 そう笑って靴を脱ぎかけた彼の胸に、思い切り、飛び込んだ――






 セイバー。
 貴女は永遠。
 いつまでも彼の心に疼き続ける美しい痛み。
 それは色を成し彼の空を染める。

 星の空。仄かに照らす氷輪。
 運命と呼べる出会いと、剣林の中にあって寄り添い重ねた心の象徴。

 稜線から滲みだす光。夜の支配が解かれるとき。
 別れ際に伝えられた真心の象徴。

 なら、私は蒼天に輝く太陽になろう。
 彼が迷わず歩けるようその先を照らし続けるものになろう。

 ね、セイバー。
 これから彼が空を見るときには私が傍にいるわ。
 ごめんなさい、なんて言わないからね。
 その代わりに私も一緒に貴女の事を思い出してあげる。

 そして、一生忘れないから。

 時が経っていつか、貴女の近くにいけたら。
 お話をしましょう。
 同じ人を愛した2人だもの、きっとたくさん話す事はあるわ。



 だから心配しないで。   おやすみなさい、またね――