壁を歩く男

 



   壁を歩く男

 

 俺は何が楽しくて歩いているのだろう。別に理由なんてない。何となく歩いている。これは俺が生きている証である。ごく普通に生きている。ただ、人と違うところは、道を歩かず、壁を歩いている、と言うことだろう。このせいで、20年連れ添った妻に、愛想をつかれ離婚され、一人娘も俺から離れていった。

 そもそも、何故、壁を歩くようになったのか。のぞき? そんな願望などない。いたって生真面目に人生を送ってきたありきたりの男だった。それが一転した。

 

  ☆

 

1ヶ月前、博多のビジネスホテルに泊まったときだ。外はどんたくが練り歩いていた。幾つ目かのどんたくが通り過ぎるのをホテルの部屋の窓越しに見ていた。5月初旬のことだった。

窓からはいる爽やかな風を頬に受け、俺はどんたくを眺めていた。上から見下ろすより、通りに出てみたほうがいいのだろうな。人出の多さは目を見張る。そんなことを思いながら更に下を見ようとしたときだった。支えていた手が滑り、俺は窓からするりと、いとも簡単に落下した。事故死とはこんな一瞬のきっかけなのだろうな。

 そのとき、あっ、と僅かな声を上げた。ここは8階、とても助からないな。死に直面したとき、そんな悠長なことを考えるのかな、と思いながら足が床を離れた。そして、体が転がった。宙を舞うという感じも落下していくという感覚もなかった。何度も転がった。何回転目かで体の回転が止まった。相変わらず、どんたくに集まった聴衆のざわめきが聞こえてきていた。

 しばらくして、自分が一命を取り留めたことを実感した。閉じていた目をやっと開けてみた。仰向けになった体で、天を見た。ビルの壁が見えた。上を見ているのに、ビルの窓が見えた。俺と同じように、窓から体を出して祭りを見ている。そのうちの何人かは俺を見ていた。

「おーい、大丈夫か? 」

 大丈夫なわけがない。頭の中が混乱している。仰向けの体に力を入れて、上半身を起こした。そして、周りを見回す。自分の視野に入る映像が信じられなかった。目の前に青空が広がっている。後ろを見ると、どんたくの流れがあった。集まった群衆が全て横になっていた。そう、横になっていた。

俺は頭を押さえた。俺のいるところを確かめて驚いた。そこは、ビジネスホテルの壁だった。足下に、窓が口を開けていた。その窓に、40代くらいの女の顔があった。すごい形相をして俺を見つめていた。女は寝ていた。いや、寝ているように見えるだけで、どう見ても、起きている。自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。俺は立ち上がり、一歩踏み出した。そして、さっきから、俺を見ている足元の女に、俺は言った。

「あんたがおかしいのかな? 俺がおかしいのかな? 」

「何よ? こんなこと、あるわけないのよ」

そんな訳の分からないことを黄色い声で絶叫した女は、窓を勢いよく閉めると、カーテンまで閉めてしまった。

「ねえ」

 俺のすがるような声も空しく、取り残された。

 

  ☆

 

 その後、どうしたのか、よく覚えていなかった。あまりの混乱で、ホテルをどうチェックアウトしたのか、自宅にどう、帰宅したのか、覚えていない。だって、俺は地面を歩けなくなったのだから。

俺にとって、壁が地面になっていた。きょうは東京タワーを歩いている。明日は新宿の都庁舎を歩くつもりでいる。それをニュースにするため、俺の後を報道陣が追いかけてきている。騒がれなくなったら、何をして暮らしたらいいのだろう、などと考えることもあるが、あまり考えないことにしている。まあ、窓ガラスの清掃などなんか、向いているんじゃないかな。ふふふ…

 

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