変身

 

 N博士の研究室に小林助手が息せき切って入ってきた。

「博士、新薬が完成しました」

「ほお、どんな薬かね? 」

「はい、人間に変身する薬です」

「…… 」

N博士は首をかしげた。

「君の話は良く分からんなあ。それでは何も変わらんではないかね」

「先生はカフカの変身をお読みになったことはございますか」

「ああ、若いころに読んだ。ある日目が覚めたら、大きな虫に変身していたという奴だろう。若いころに読んだから、衝撃的だったなあ」

「あれはカフカの自伝と言われています。彼はこの作品を最後に絶筆しています。たぶん彼は虫になって、虫の世界の住人となったのです」

「ほお、きみの新説だな」

「ある日突然蒸発してしまう。これもそうです。殺人事件も何件か含まれているとは思いますが、僕の考えでは、多くの人が一瞬のうちに変身を遂げ、別の生き物と化した。身も心も別の人格になって隠れて生活してしまう。事件にはなりません」

 N博士は静かに聞いていたが、突然小林助手に向かって拍手した。

「ブラボー、きみの新説はいつも奇抜で面白い。私も鼻が高いよ。ぜひ、その研究をしてみたまえ」

 小林助手はN博士に黙礼すると、部屋を辞した。研究所の駐車場に止めてある愛車ブルーバードに乗り込む。ハンドルに手を掛けると、すっかり手のひらは黒い光沢のある鎧のような光を発していた。無数の黒い毛がとげのように覆っていた。バックミラーに映る自分の顔を見た。そこには黒光りする2本の触覚をもった黒い固まりが映っていた。慌てていた彼は、助手席に置いていた新薬の入った瓶を長くて黒い前足に挟み込むと、押しつぶしてしまった。

 

 その夜、仕事を終えたN博士が駐車場に来ると、小林助手のブルーバードが置かれていた。

「おや、小林くん、愛車を置いていったのかあ」

 車の中をのぞき込むと、シートのうえはガラスの破片が散乱していた。

「明日会ったら、車の中は綺麗に掃除しろ、と言っておくかな。ごきぶりがいたぞ」

 12日後、ゴキブリホイホイの中で必死にもがいている小林助手の姿があったが、変身した彼に気が付くこともなく可燃ゴミ箱へ捨てられたのだった。

 

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