江戸を切る

昔、一心太助という魚売りがいた。
まだ、23歳という若者だったが、なかなか世話好きな男で、町内でも評判のいい男だった。
その太助のうちの隣に、諸山平八郎という浪人が住んでいた。
平八郎は3年前まで常陸仲山藩家老を勤めていた切れ者だったが、派閥争いの末、失脚させられ、今はしがない浪人となり、太助と同じ四畳半の長屋に流れてきた。それに、追っ手がいて平八郎の命を狙っているようだからくれぐれも注意してやってほしい、と太助は大家さんから聞かされていた。
日々、平八郎は蛇の目傘を作り、1本3文になるかならないかの収入で細々と生計を立てていた。
いつものように太助が残り物の秋刀魚を平八郎におすそ分けしょうと、玄関の木戸から声を掛けた。
「おい、平さん、いるかい? 」
うめき声がするだけで、返事がない。胸騒ぎを覚えた太助が奥に駆け込むと、平八郎が血だらけで倒れていた。
「しっかりしなせえ、平さん! 今、医者を呼んでくるから」
その場を慌てて去ろうとする太助の腕をつかんで、平八郎はやっとの思いで口を開いた。
「太助さん、きょうも秋刀魚が余ったんだね……
太助はこくりと首を縦に振った。
「ああ、太助さんから買った魚を食ってみたかったよ」
そう言うと、平八郎は握り締めていた手を太助に差し出し、そこで息絶えてしまった。

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