理想の女(ひと)

理想の女(ひと)

 

 前田吾郎、22歳、東京大学3年生。頭脳明晰。品行方正。非の打ち所がない青年だった。しかし、彼にも生れつきの病気があった。

 

大学の中庭を歩いている吾郎の視界に、言語学専攻4年生の大田原瞳が校舎から出てくる姿を見つけた。

「ああああ! 」

 吾郎の心臓は高鳴って体は火照ってきた。しかし、積極人間の彼らしくない正反対の行動を取らした。回れ右をして、元来た道を戻り始めた。

「ゴロちゃん、待って! 」

 吾郎は瞳が好きだった。清楚でそれでいて快活、容姿端麗、吾郎には眩しい存在で彼女を前にするとどうしたことか何も話せなかった。彼がかつてあったことがないタイプの女性だった。

「ゴロちゃんさ、今度の日曜、暇かな? 」

「うん、まあね、何故? 」

「これ」

 瞳がショルダーバックからチケットを取り出した。

「東京フィルオーケストラの公演があるの。一緒にどう? 」

「いいけど、でも…… 」

 と言いかけて、吾郎は語尾を飲み込んだ。俺より誘うのにふさわしいいい男がもっといるだろう。そう言い掛けたのを止めた。

「じゃ、決まり。はい、チケット渡しておくよ」

 彼女はそう言って、吾郎から遠ざかっていった。

 

 吾郎は瞳が遠ざかっていくのをうっとりした顔をして眺めていた。そして、握り締めたチケットを見る。しかし、手には何もなかった。また白昼夢を見ていた。彼は頭を左右に振った。現実には、吾郎はまだ瞳と一言も声を交わしたことはない。いつも吾郎の妄想だった。吾郎は一人正門に向かって歩く。門の前に瞳が寄り掛かっていた。

「誰かと待ち合わせかい? 」

「ええ…… 」

 瞳ははにかみながらショルダーバックから封筒を取り出した。

「後でこれ読んでください」

「え、何なの?? 」

「読んでくださるだけでいいんです。それだけで…… 」

 瞳は顔を赤らめて封筒を吾郎の前に差し出した。吾郎が受け取ると、走り去って行ってしまった。吾郎は封筒から手紙を取り出し、便箋を広げた。ほのかな花の香りがした。

 あなたをお慕い申しております。

 これは、ラブレターだ。吾郎は心臓が爆発しそうだった。次の文を読もうと目を手元に戻すと、今まで握り締めていた便箋はどこにもなかった。

「あ、またか」

 

 吾郎がアパートに戻りドアを握り締めた。鍵が掛かっていない。不思議に思ってドアをそっと開ける。部屋の中からおいしそうな料理の匂いが漂ってきた。炬燵の上で、鍋がグツグツと音を出し、湯気を立ち上らせている。誰が作ったのだろう。彼は不思議に思いながら炬燵に足を入れる。しばらくしてドアが開いた。

「あ、ゴロさん、帰っていたの? ちょっと材料が足りなくて買いに行っていたの」

 瞳がそう言いながら買い物袋を抱えて部屋へ入ってきた。これも妄想か。吾郎はぼんやりと瞳を見ていた。

「ねえ、今日は大学早かったのね」

「うん、」

「明日の試験、がんばろうね。今日は栄養つけようと思って奮発しちゃった」

「悪いな」

「どうしたの? 体、調子悪いの? 」

「いや、なんかこれも現実じゃないのかと思ってね」

「へんな、ゴロさん、試験勉強のしすぎかな。そんなこと言ってないで食べよ」

「そうだね」

 吾郎と瞳は鍋料理を仲良く摘んだ。

「おいしかったね。ねえ、また例の妄想が出たの? 」

「うん」

「いつもどんな妄想を見ているの? 」

「今、瞳と鍋を食べているんだ。きっと、この鍋も君も数分後には消えてなくなるのさ」

「はは、ゴロさんって、冗談うまいね」

「そうかい? 」

 気が付くと、吾郎は廊下にいて部屋へ入るドアのノブを握っていた。

「やっぱり、妄想か」

 吾郎がドアのノブを回す。鍵が掛かっていた。

「やっぱりな」

 鍵を開けて部屋に入り、明かりをつける。

「お帰りなさい」

 甲高い声とともに笑みを浮かべた瞳が吾郎に抱きついてきた。そして、唇を重ねてきた。

「君はいつもかわいいね」

「そうよ、あたしはゴロウのイメージの世界に住んでるんですもの。いつも一緒よ。でも、決してこの世界では会うことはできない。分かっていたはずでしょ? 」

「そうだったね」

 次の日、蒲団から出ると、吾郎はパンティーとブラジャーを付け始めた。鏡台の前に座り、リップをつけて微笑んだ。

「瞳、現実の世界で、やっと会えたね」

 

 

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