プラットフォームの女

   

 午前八時三十一分発、中野行き上り電車を待つ。転勤になって、この駅で電車を待つようになって、かれこれ一年になる。ホームに立って、電車に乗って仕事に行く。働く場所は変わっても、毎日同じ朝の繰り返し。

 自転車でこの駅の自転車置き場に着くのが、八時ちょうど。ぴったり八時五分、僕はホームのいつものベンチに腰掛けて、二十六分というわずかな時間、好きな小説を読む。

 四月に入り、少しずつ温かさが増してきたときだった。いつものように、ホームのベンチに腰掛けて、本を読んでいたときである。僕のすぐそばに誰かが立っているのに気が付いた。二本の足が、僕の視界に入った。青と赤のラインが入った黒のハイヒールだった。その足はじっと動かずに立ち止まっていた。僕はその二本の足をなめるように、下から上へ視線を上げていった。膝上十cmほどのミニスカートを履いた紺のツーピースで身を包んだ二十才くらいの美しい女性が立っていた。彼女は、ストレートの髪を、肩のちょっと下まで垂らしていた。僕はつい彼女の顔を見つめてしまった。彼女は遠くをぼんやりと眺めるように、立っていた。

 ゴオオオー、急に騒がしくなる。上り電車が入線してきた。周りにいた人たちが、潮が引くように消えて、僕と彼女の二人だけがホームに残っていた。立っている彼女は、両手を前にそろえて合わせ、その手の先にはかわいらしい黒いショルダーバックが握られていた。

 僕は十五分の間、じっと彼女を見ていた。その間、彼女は、そこにただ立っていた。

 八時三十一分の電車がやってきて、僕と彼女は同じドアから電車の中に入った。混んでいたので、僕と彼女はほとんどくっつくくらいの距離に立っていた。彼女の視線は、僕の後ろを見ているようだった。途中の駅から入ってきた乗客に押され、僕たちはそれぞれ別の方向へ押されていった。そして、僕は彼女の姿を見失った。

 次の朝、午前八時五分、僕はホームのベンチに腰掛けると、いつものように読みかけの小説を開いた。電車が発車し、静かになったホーム。自分だけが取り残され、自分だけが逆流している感覚になる。

 カツカツカツ、ハイヒールの音が徐々に大きくなり、僕のすぐ脇で止まった。カツカツカツ、さらに近づいてきた。僕の視角の中に、真っ赤なハイヒールが入ってきた。そのハイヒールからは、二つのすらりとした綺麗な足が伸びていた。僕はなめるように、下から上に視線をあげた。やはり、きのうの彼女だった。彼女の視線は、遠くを見ていた。そして、僕のほうに近づいてくると、僕の隣のベンチにゆっくりと腰掛けた。

「ふう、」

 彼女は座ると同時にため息みたいな言葉を出した。相変わらず、ぼんやりと前を見ている。僕はすぐ隣にいる彼女の顔をじっと見ていた。僕が見ていることに気がついたのか、彼女は僕のほうを見た。目と目が合った。十秒ほど、見詰め合って、彼女のほうから、視線を前に移した。だからといって、僕は話し掛けることはしなかったし、彼女も話し掛けては来なかった。

 ゴオオオー、八時三十一分の電車がきて、僕たちは揃ってベンチから立ちあがると、いつものドアから乗り込んだ。きょうは特に混んでいて、僕と彼女は胸を合わせながら、電車に乗っていた。彼女の髪の毛がぼくの鼻先をくすぐった。さわやかな香りがした。しばらくして、いつもの同じ駅で、乗客がどっと乗り込んで来て、僕たちは離れ離れになった。そして、僕は、彼女の姿を探したが、見つけることは出来なかった。

 次の日も、僕が午前八時五分にベンチに腰掛けると、決まって彼女がやってきて、僕の右隣に座った。あいている席は他にもあるのに。そして、僕は、ときどき本を読むのを止めて、隣の彼女を見たりするようになった。どうして、隣に座るんだろう。彼女は、ただぼんやり前を見ているだけだった。そして、八時三十一分、同じ電車のドアから、僕と彼女は揃って入る。僕と彼女は、ぎゅうぎゅうの電車にくっつきながら乗って、また、いつもの駅で乗客が入ってきて、僕らは押されて離れる。

 僕は、仕事中も彼女がどんな人なんだろう、と考えることがある。だからといって、彼女と交際したいわけではなかった。僕には妻も子もいるし。ただ、どんな女性なのだろうかと、それだけが気になった。どんな性格の人で、何処の駅で降りて、どんな仕事をして、どんな生活をして、何時ころ帰るのだろうか。そんなことを考えながら、毎日彼女に会えることが楽しみになった。

 こんな繰り返しが三年くらい毎日欠かさず続いた。まあ、二,三日会わないときもあるけど、きっと友だちと旅行かなあ、と思ったりもした。もちろん、僕が休日のときは会えなかったが。

 四月に入ったばかりのことだった。僕はあまり出かけるのが好きなほうではなかったが、久しぶりに家族揃ってデパートへ出かけた。買い物を妻に付き合わされたのである。

 どうしたことか、その日を境に、ぱったりと、朝の彼女に会わなくなった。仕事先が変わったのだろうか。結婚して引っ越したのか。いろいろ考えてみたけれど、僕には、その理由が分かるわけはなかった。

  *

「お母さんたら、嫌になっちゃう。新人のうちは、早く会社にいって、お湯を沸かしたり、机の上拭いたりするのよって。それにしても、私はデパートづとめで、売り子なんだから机に座ってることなんてないんだけどなあ。まあ、拭いてもショウウインドウくらいか。もう、十時開店なのに、こんな朝早く行ってどうすんのよ」

 私はこの三月に短大を卒業して、都心のデパートに勤めることになりました。

「まだ、八時よう。いくらなんでも早過ぎ」

 私はぶつぶつ言いながら、ホームを歩いていました。ここから、デパートの最寄駅まで、三十分あれば着いてしまいます。

 どうしようかなあ、とホームを見ていたら、なんと、こんなあわただしい時間に、ホームのベンチに腰掛けて、本を優雅に読んでいる人がいる。あらあ、電車が来ても、乗らないで、読んでる。変な人。

 私も暇だから、遠くからその男の人を見ていたら、八時三十一分の電車が来て、やっと乗っていった。へえ、いろんな人がいるんだ。一週間ぐらい、その人の様子を見ていたら、八時五分に決まって、ベンチに腰掛け、本を開き、八時三十一分の電車に、規則的に乗っているの。いつもぱりっとしたワイシャツ着て、ダンディね。ちょっと、かっこいい感じの人だけど、変わってるわ。でも、感じからして、性格はよさそう。

 きょうもいる。ようし。反応をみてやろうかな。

 私は彼氏の座っているベンチまで近づいて、すぐ傍で立ち止まって、そして、読書の邪魔をしてやるつもりでした。だれだって、すぐ傍に立っていられたら、気になるもの。私って、まるで、悪魔ね。私って好きな人には意地悪したくなるタチなの。それに、きょうは、ミニも履いて来たし。嫌がうえにも私の綺麗な足が目に入るわ。

 何、この人。私が十分もここに立ってるのに、気がつかないなんて、神経どうかしちゃってんじゃないのお。

 ああ、やっと気がついた。ふふふ。見てる見てる。わあ、下からあからさまに私を見てる。やだあ。はずかしい。でも、うれしい。この視線がたまらないわ。あらあ、もう八時三十一分なのお。この人、立ち上がっちゃった。行っちゃう。私も行こう。電車の中はちょっぴり混んでるけれど、この人の傍に来れたから、よしよし。

 何よう、この駅。そんな押しながら乗り込んで来ないでよう。きゃー。あらあ?あの人、どっか行っちゃたわ。

 次の日も、お母さんには、新人は早く行かねば、などと思ってもないことを、言って出てきちゃったあ。きょうは、買ったばかりの赤いハイヒールよ。見てくれるかなあ。うん、きょうも彼氏は、おおっ、いるいる。相変わらず朝の読書してますねえ。よし、きょうは思いきって隣に座っちゃうの。わたしって、ものすごく、だいたんよねえ。だって、あいてる席はいっぱいあるのにわざわざ隣に座ったら、誰だって気になるわよ。ふふふ。わたしって、あ、く、ま……。

 彼氏の隣に座ったの。緊張してたから、思わず「ふう、」なんて、ため息みたいな言葉が出ちゃったあ。ちょっとまずかったなあ。やだあ、私のこと、見てる。ちょっとだけ見てみようか。あっ、彼氏と目が合っちゃった。よし、知らん顔知らん顔。ふふふ。あっ、読書、止めちゃったみたい。そうよね。こんなうら若き乙女が隣に座っちゃったんですものね。気になって読書なんか出来るわけないわ。なんか、わたしって、この人をからかってるのかしら。罪深き女。ふふふ。あらあ、もう八時三十一分なのお。ねえ、さっさと、一人で行かないでよ。もう。

 きょうも電車の中は、ちょっと混んでいるから、彼氏に超接近。ふふふ。

 でも、この駅何とかならないのお。いつもここで、どっと人が入ってくるのよねえ。ああ、また彼氏と別れちゃったあ。

 もう、この人、どうなちゃってるのお。三年も隣に座ってるのに、話しかけもしないで。でも、なんか、この人の隣にいると、すごく幸せだわ。し、あ、わ、せ。

 デパートも三年生ともなれば大分なれて、パリバリ、売りまくってるの。まあ、冷やかしのお客様が多いけどね。でも、くじけないの。さあ、きょうもバリバリ売りまくるぞう。

「あらあ、向こうから歩いてくる人。なに、いやだあ。彼氏よう。えええ、そばにいるのひょっとして奥さん! あんな大きな子がいるのお。ああ、笑ってるよう。しあわせそう。いいなあ。奥さんいいなあ……」

 私は、彼が結婚してることを知って、出勤時間を変えました。ずっと、このままでも、いいけれど。でも、私には未来があるんだ。今、私には同じデパートで働く彼氏がいます。なんとなく気が合っています。私にとってこの三年間、朝の通勤時間はちょぴり幸せでした。私の長い長い淡い恋は終わりです。  

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