欅(けやき)の向こうに

 

 「懐かしいなあ。引っ越してから何十年経つかなあ…」

 杖をついて腰の曲がった白髪の老人秋葉幸太が、アパートの中庭にある欅の木の前に立っていた。幹周り二メートルの欅は、ロの字形の五階建てアパートに囲まれていた。

 あれは、幸太が中学二年の暑い夏の日だった。

   *

「幸太、きょうは母さん、お父さんの仕事の手伝いでいないから」

 母は昼飯代の千円札を幸太に差し出すと、玄関から足早に出ていった。

「いってらっしゃい」

 窓際へ歩いていき、欅の木を眺めた。欅を見ると心が落ち着いた。欅の向こうに、三階のベランダに立つ白いワンピースを着た女の子が見えた。このアパ−トでは初めて見る子だ。髪に真っ赤なリボンをつけ、歳は幸太と同じ中学二年生くらいだろうか。

 幸太は中庭に出て、欅の根元に座ると、幹に寄り掛かって、読み掛けの「夏の扉」の本を読み始めた。幸太の開いていたペ−ジの上に、何かが落ちてきた。

「わあ」

 体長二〇センチほどの緑色のいも虫だった。

 びっくりした幸太は、本を前に放り出し、かん高い声を発した。まわりを見回すと、何匹もの緑色のいも虫が、はいずっている。

 幸太は、虫がはい上がって来れないように、跳びはねた。跳ねるたびに、靴の底に変な感触があった。鈍いはじける音が、足下から聞こえた。いも虫がつぶれる音だった。

 そのとき、誰かが幸太に話し掛けてきた。

「気を付けて、足に這い上がって来ているわ」

 女の子の声だった。幸太はそんなはずはないと、足元を見た。足の甲からすねに掛けて、一センチほどの数匹のいも虫が、いつのまにかまとわり付いていた。

「上よ。欅の木よ」

 何処からか、また、女の子の声が聞こえてきた。幸太はゆっくりと顔を上げた。欅の枝に二〇センチくらいの長さのいも虫が、ゆっくりした動きではいずっていた。一センチくらいの小さないも虫が、そのいも虫の尻から吐き出されるように、次々と産み落とされていた。すねにまとわり付いていたのは、こいつの幼虫だったのである。恥ずかしげもなく幸太は叫んだ。足をバタバタさせて、まとわり付いた虫を懸命に払い落とそうとした。

「おーい、坊主どけどけ」

 幸太がバタバタしているところへ、数人の男たちがやって来た。欅の木に向けて何か白い煙を発射した。白い霧とともに鼻をつく薬品の匂いがたちこめた。

 彼らは害虫駆除会社の男たちだった。たちまち、あの忌まわしいいも虫たちが、音を立てて欅の木から落ちた。今まで脇で見ていた男が、落ちて苦しがっているいも虫を、ほうきで素早く掃き取っていく。いつの間に用意したのか、焼却炉が置かれていた。

 男が焼却炉の蓋を開けると、風にあおられた炎が、生き物のように四方に向かって吹き出し踊った。男はちり取りに集めたいも虫を、焼却炉へ放り込む。いも虫が火炎の熱で膨らんではじける音が、釜の中から聞こえてくる。プシュウ、プシュ。炉の周辺に鼻を突く悪臭が立ちこめた。薬剤とは別の匂いが、あたりにまた充満する。その瞬間、幸太は吐いていた。

 見たくはないはずなのに、幸太はじっとその場に立っていた。いも虫にまみれてしまった欅のそばについていてあげたかったのだ。男たちは作業を終え、道具を片付け去っていった。

 また、いつもの静かな中庭に戻っていた。幸太は放り出していた本を拾った。欅を見上げると、欅の木はすがすがしそうに、風に葉を揺らしていた。

 いつの間にか、時間は正午を回っていた。アパートのどこかで、秋刀魚を焼いているのか、いい臭いがしてきた。腹が空いた。

 両親は仕事へ出掛けて留守だった。幸太は中庭を出た。

 一回だけ父に連れて行ってもらったことのあるラーメン屋の前に来ていた。昼飯代として、母からもらっていた千円札が、ズボンのポケットにあることを確認した。

 ラーメン屋ののれんをくぐりガラス戸をあけた。

「えい、らっしゃい」

 ラーメン屋の親父の威勢のいい声が響いた。昼時なのに、店の中はガランとしていた。一人だけしか客がいない。客は、ベランダにいた赤いリボンの女の子だった。彼女もラーメンを食べるのか。

 幸太の胸が、どうしょうもなくドクンドクンと高鳴った。彼女が幸太に挨拶をよこした。

「ラーメンって、どれがおいしいのかしら?」

 入り口に立っていたら、さっき、欅のところで聞こえた女の子の声が、また幸太に話し掛けてきた。この声は、だれの声だろう。幸太はカウンターの前に座っていた彼女を見た。彼女も幸太を見ていた。彼女が笑って白い歯が輝いた。

 突然、店の中がざわざわと騒がしくなった。周りを見回すと、空いていたはずの席には、いつの間にか、大勢の客が座っていた。

「ひとり?」

 ラーメン屋の親父が、幸太の顔を見て聞いてきた。幸太は首を縦に振った。

「こっちの席があいてるから」

 親父は、リボンの女の子の隣の席へ、幸太を促した。

 赤いリボンの女の子の左隣の席が、一つだけ空いていた。幸太はそこへ座ると、水の入ったコップが置かれた。

「一階の方ですよね」

 隣の彼女が、幸太に話し掛けてきた。狭い店なので彼女の細い腕が、幸太の腕に触れそうになった。

「ええ…」

「いつも見えるのよ、あなたのお部屋が。あなたのことは、よく知ってるの。ごめんなさい。のぞくつもりじゃなかったの…」

 彼女のほおが赤くなったように見えた。

「いや、ぼくも欅を見ている君を見掛けたよ」

 幸太は口ごもった。彼女が欅を見ているように思ったのだ。

「あの欅、江戸時代からあそこに植えられていたんだ。あの集合住宅を建てるときに、わざわざよけて建てたらしいんだ」

「そうだったの?でも、あんな高い建物…建てないでほしかったわ。すごく息苦しいの」

「都会のアパートはあんなものさ。きみは田舎から越してきたのかい?」

「うーん。とても近くよ」

「そう…。ぼく、植物は好きなんだ。あの欅は特にね。いつも見てるんだ。きみもよく見てるよね。好きなの?」

「そうなの。植物が好きな人って、わたしも好きよ。だから、あなたも好きだわ」

 幸太の心臓が、ドキンドキンと速くなった。そんなことを言われたのは、初めてだった。

「わたし、流響子。よろしく」

「あ、ぼく、秋葉幸太。よろしく」

「ねえ、わたし、ラーメン食べるの初めてなの。おかしいでしょ?」

 響子はそう言うと、右手を唇に持っていき、クスッと笑った。

「え、今まで一度も食べたことないの?」

 幸太は、つまらないことを言ってしまった、と後悔した。

「変よね」

 響子はうつむいてしまった。はじめての人もいるだろう。

「いいや、ぼくもフカヒレスープ、ぺキンダックだって、見たこともないし、当然、食べたことなんてないし。だから、ラ−メンだからって、おかしいことなんてないさ」

 でも、やっぱりおかしい。よくよく考えると、この店に来るまでおかしな事だらけだった。この店に入ったときだって、おかしかった。

「どのラーメンがおいしいか、順番に食べてみるといいんじゃないの?ぼくはネギ味噌ラーメンが大好きなんだ」

 その時突然、

「ヘーイ、ネギ味噌ラーメン、お待ち!」

 店の親父から差し出されたネギ味噌ラーメンを幸太は見つめた。ラ−メンを出した親父も首を傾げた。

「あれ、まだ注文取ってなかったよね」

 ラ−メン屋の親父は、自分でラ−メンを作っておきながら不思議がった。

「おじさん、私もこれ下さい」

 響子は幸太に差し出されたラ−メンをのぞき込んでいた。幸太よりずっと先に店にいたのに響子は、まだ注文していなかったのである。

「どうぞ、先に召し上がって」

 響子は幸太の食べるのをじっと横で見ていた。幸太は調味料の置いたトレーからラ−油を取ると、麺の上に振りかけた。

「何、それ?」

「ラ−油さ」

 幸太は麺をすくうと、ふっと息を吹き掛け、勢いよく、ズルズル音を立ててほお張った。

「まあ、おいしそう。音をたてて食べるとおいしそうね」

 響子は今までラーメンを見たことがないのだろうか。

「へい、お待ちどうさん」

 親父が、響子の前にねぎ味噌ラーメンを差し出した。響子は割りばしを取り、パリンと割った。響子の口元に、麺が運ばれた。ツルツルというかわいらしい音がした。

「おいしい」

 響子は満足そうだった。食べ終わると、幸太と響子は並んで店を出た。何を話せばいいのか言葉が見つからず、黙って歩いた。そのうちアパートの前に着いてしまった。

「秋葉君にラーメン屋さんで会えてよかったわ。わたし、ラーメン屋さんに入ってから何を頼めばよいか分からなくて困っちゃった。きょうはありがとう」

「そんなお礼なんて……」

 幸太の言葉に、響子はにっこり笑った。

「さよなら」

 響子はあいさつをして去ろうとした。そのとき、幸太はとっさに声をかけていた。

「ああ、あの〜」

 響子は振り返った。

「くずもち食べたことあるかい?」

 響子はほほ笑みながら首を横に振った。

「じゃ、今度行こうよ」

 響子はうなずくと微笑んで、小走りに階段まで駆けていった。そして、踊り場に差し掛かったところで、ずっと響子の姿を追っていた幸太に気が付くと、可愛らしい笑顔で手を振った。

 次の日、幸太は学校へ行ったが、響子の姿はなかった。

 帰宅すると、窓から欅を眺めた。

「もう少しこのままでいさせてください。友だちができたのです」

 響子の声が聞こえてきた。見ると、響子はベランダに立っていた。だれと話していたのだろう。幸太は自分の家のベランダの柵を跳び越えて、響子のベランダの真下に裸足のまま駆け寄った。顔を上げると、身を乗り出した響子が、幸太を見つけて手を振った。その瞬間、響子は両手でスカ−トの裾を押さえ、顔を赤らめた。

「エッチ」

 響子が幸太の耳元でそっと囁いた気がした。

「ところで、今日、学校休んだのかい?」

 幸太は上を向いていたから思うように声が出なかった。響子はか細く笑って手を振ると、ベランダから消えてしまった。幸太はぼんやりと上を眺めていた。

 次の日も響子の姿を学校で見ることはなかった。幸太は隣のクラスの女生徒にそれとなく聞いてみた。

「流さん、今日も休みかい?」

「誰?そんな子、いないわよ」

 幸太は他のクラスの子にも聞いたけど、そんな子はいないと言う。

 その日、帰宅した幸太は、窓から欅の木を眺めた。欅の向こうにいつものように響子がいた。幸太は窓から手を振りながら声を振り絞って叫んだ。

「響子さーん」

 幸太に気づいた響子は、いつものようににっこり笑った。

「そこへ行ってもいいかい?」

 響子はうなづいた。幸太は欅の木をよじ登った。そして、響子と同じ高さまで来た。

「ねー、今度、この前言っていたくずもちを食べに行きたいわ?」

「うん、行こう」

 幸太はこの欅の木に登ったのは初めてだった。

「へへ、どうやって降りようかな?」

 幸太が笑うと、響子も細い手を口元へ持っていき、いつものように愛らしくクスクス笑った。

 いつまでも幸太たちは笑っていた。幸太が気が付くと、いつのまにか欅の根元にいた。

「あれ、確かに上ったはずなのに」

 ベランダを見ると、笑顔の響子が手を振っていた。

 

 次の日曜日、響子と二人で、森下町のバス停からバスに乗り、亀戸町にある亀戸天満宮へ行った。山門の脇に船橋屋という店がある。お参りをすませた参拝者は、たいていこの店に入った。建物がふるい造りのせいか、店内は薄暗い。年配のおばさんが茶を持ってきた。

「わたし、これも初めてよ」

 響子はうれしそうに言った。響子は本当に生まれてから一体何を食べてきたのだろう。

「変な事言うようだけど……。秋葉君のことは、以前から知っているの。ずっと小さいころからね」

 響子の顔が真面目だった。

「あなたのお母さまは、子守歌が上手だったわ。欅の下であなたをおぶって」

 響子は懐かしそうに話した。

「何言ってんだい?君は引っ越してきたばかりじゃないか」

「わたし、アパ−トができる前からいるの」

「どういうこか分からないな?」

「実は……。わたし、欅なの」

 そういって響子はまたくすくす笑った。幸太はおし黙っていた。

「もう何百年もあそこにいるの。今まで外の景色が見られたのに、私を囲うようにして、建物が建ってしまって。でも、やはり周りが見られないのは寂しいわ。何年も文句を言ってたら、神様がちょっとだけ見せてくださるとおっしゃたの。人間の姿にしてね。でも、人間の姿でいられるのも、きょうでおしまい。秋葉君のおかげで、楽しかったわ。お礼に願い事を一つだけ聞いてあげる。もちろん、私の力でできるものだけよ」

 幸太はからかわれていると思った。それでも乗りの悪くない幸太は話を合わせた。

「すぐには、思い付かないよ。困ったなあ」

「そう、それなら、思い付いたらでいいわ。でも、もう、私は戻らなくちゃ」

「思い付いたら、どうすればいいんだい?」

「欅の根元で眠ること。夢の中で私に会えるわ…」

 響子が幸太の手を握ってきた。幸太の心臓は、爆発しそうだった。響子の握り締めた手の感触が消えたとき、幸太の目の前から、響子は消えていた。

 幸太の心にはいつまでも響子の笑った顔が、残像のように焼き付いていた。その後、響子の姿を二度と見ることはなかった。

   *

 幸太は、ずっと、夢だと思って生きてきた。響子みたいな女が現れることを願いながら、結局、歳をとってみたら、独り身だった。

 欅がサラサラと葉音を鳴らした。欅の下は、あの夏の日と同じさわやかな空気が流れていた。緑の香りをかぎながら、幸太は欅の根元で眠った。

 夢の中に、白い服を着た少女が笑って立っていた。まぎれもなく響子だった。幸太もいつの間にか中学時代の幸太に姿を変えていた。幸太は叫んだ。

「一緒にいたいんだよ」

 響子はにっこりうなずいた。

 そのとき、欅の根元から幸太の姿が、消えていた。杖だけが、欅の根元にいつまでも横たわっていた。

      (了)

注:文中、「いも虫からいも虫の幼虫が生まれる描写」がありますが、現実にはこのようなことはありえません。

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