派遣さんがやってきた

「この計算書、頼みますね」
 カズオは建築構造の計算表が書き込まれた書類を、上司の北上から手渡された。まだ、何がなんだか分からない。書類を受け取ったカズオは、きょとんとして椅子に座っていた。カズオに書類を渡しただけで、自分の作業をしだした北上の横顔を見つめていた。北上はそれに気がついたみたいで、
「あ、いくらカズオさんだって、やり方を言わないと、できないよね。大川君に聞いてやってね」
 北上はあたりを見回す。パソコンの前に座っていた男に顔を向けると、
「おーい、大川君、カズオさんに仕事教えてやってくれ」
 パソコンの前で背中を見せて座っていた男が、右手を上げて何かしゃべったようだった。彼が大川らしい。忙しくて振り向くことすらできないのだろうか、ひたすらキーボードをたたいている。仕方なく、カズオは一センチほどの厚さの書類の束を手に握り締めたまま、所在なげに事務所内を見回した。だれもが黙々と机に向かっている。十分くらい経ったときだった。
「カズオさん、それじゃ…」
 大川が振り向いて、お互いは顔を見合った。なんと、大川は中学時代の同級生に似ていた。
(誰だったか、名前は忘れてしまった。誰だったろう)
 カズオは考えた。大川はカズオにニコニコしながら近づいてきた。大川はカズオが握り締めていた計算書を手に取り、やり方を教えてくれた。大川は忙しいと見えて、カズオにやり方を一通りしゃべると、パソコンのほうに向かって歩いていった。カズオは建物の構造計算なんて、見たことも触ったこともなかった。それにあんな速い一回きりの説明では理解できない。もっと優しく教えてほしいと思った。それでも、カズオは机に向かって一応計算書を開いてみた。鉛筆を持ったら、ひとりでに指が動く。
(なんだ、できるよ。不思議だなあ)
 モーメント計算?荷重計算?はじめて聞くような言葉だが、スラスラこなせた。がむしゃらに数値を書き込んでいった。一通り計算が終わって、事務所にあった壁時計を見ると、時刻は十一時。時計を見る前から十一時になっていることは、カズオには分かっていた。それを確認するために壁時計を見ただけだった。何故、時間が分かったのだろう。カズオは不思議だった。
「カズオさん、できた?」
 大川がいつのまにかそばに立っていた。
「カズオさん、現場へ計算書を届けに行きますので一緒に来てください」
 大川の後にカズオは黙ってついていく。玄関の自動ドアが開くと、ものすごい勢いで風が吹き込んできた。外は台風二十八号の影響で、風が吹き荒れていた。前かがみになって歩く。一分くらい進むと、コンクリートの堤防が見えてきた。
「ボートで行くから」
 つたが絡まったコンクリートの堤防に、錆びた鉄の梯子があった。ぎしぎし音を立てて上ると、水面に全長五メートルほどのボートが風の影響で上下に大きく揺れ動きながら浮いていた。
「遠いんですか?でも、なんで、車は使わないのですか?」
「うちの社長、車嫌いなんですよ。車恐怖症なの」
 ボートに乗り込むと、大川はエンジンをかけた。ゆっくりスタートする。ポツポツと雨が降ってきた。カズオは雨が嫌いだった。とにかく濡れたくないと思った。
 三分ほど走ると、ボートに水が入ってきた。
「大川さん、水が漏ってるみたい」
 カズオは慌てて大川に訴えた。カズオは水にものすごい恐怖を感じた。どんどん、船は沈んでいく。おまけに風が強いので、波が高い。三角の波が至る所でできていて、ボートに向かって押し寄せてくる。
「ねえ、あの波かぶったら、やばいんじゃないですか?」
 カズオは早く船を降りたかった。体に水が掛かると、大変なことになりそうな予感があった。頭の中で、ピーピーと何か音がしているような気がした。大川はきょろきょろして何かを探しているようだった。
「桟橋があります。あそこに止めましょうか?」
 大川は桟橋のそばにボートを寄せていくと、接岸した。ボートが桟橋の板にこすれてズズズと音を立てている。二人は船から飛び降りて、階段を駆け上がった。堤防からボートを見ると、ボートの縁に波頭が当たって砕け、船の中に水がガバガバ入っていった。やがて、ボートはあっけなく沈んでいった。
「危なかったですねえ」
 大川は顔をしかめながら、ふう、とため息をついた。カズオはあたりを見回すと、工事現場があった。堤防からずっと先まで金網の柵を張って、どこまでも続いている。建物は数えるほどしか建っていない。ところどころ、二十メートルの高さのクレーン車が、突っ立っているのが見える。柵の中は鉄板が敷き詰められている。地下鉄工事なのだろうか。
「じゃ、ここから行きますか?」
 大川が右手で指すところを見ると、地下への階段の出入り口があった。
「どうして、地上の普通の道路を使わないんですか?」
「ああ、ぼくね、広所恐怖症なの。堤防とか、壁や天井に囲まれてないと駄目なの。今、ほとんどの人間がそうなんだ。だから、地下道の建設真っ盛りってわけ」
「じゃ、私が届けましょうか?」
「駄目だよ。君はカズオさんタイプだから、そういう単純作業には使えないの。ねえ、お腹すいたな。食事でもするけど、いいかなあ」
「いいですけど」
「じゃ、この道をまっすぐ行ったとこのフランス料理店にしましょう」
 カズオと大川は階段を降り立った。地下の中は壁と天井に囲まれた狭い空間があった。道をはさんで花屋、八百屋、パン屋など何でもあった。しばらく歩いて、大川は立ち止まった。ちょっとしゃれた黒のガラスでできた玄関の自動ドアの前に立った。入ると、赤い蝶ネクタイをして、黒の上下のスーツで身を包んだ男が立っていて、二人を見ると、深深と頭を下げた。
「いらっしゃいませ?」
 二人は男に導かれ、奥へと進む。部屋の真中に大木が植えられている。高さは二十メートルくらいだろうか。天井は五メートルしかないのに、木は二十メートルに見えるのである。大川が木を見上げて男に聞いた。
「随分立派な木ですねえ。どうして、こんなに大きく見えるんでしょうねえ。何ていう名前の木ですか?」
「これ、本物じゃないんです。これ派遣さんなんです。この派遣さんのすごいところはどんな狭いところでも大きく見えます」
 二人は木のそばのテーブルに案内されて座った。男は二人がテーブルに着くのを見てから、メニューを差し出した。大川はメニューを開く。
「ぼく、これね。こちらの人は派遣さんだから、この専用料理を頼むね」
 大川が注文した。
「へえ、この方が派遣さん?そうですか…人間みたいですねえ」
 ウエイターは物珍しい顔でカズオを一瞥すると、厨房に消えていった。
「派遣さんはいいよね」
「何がです?」
「だって、頭いいものね」
「何のことでしょう?」
 カズオは大川の顔をにらみつけた。大川はそれきり黙って、料理を食べた。カズオもよく分からないが派遣さん専用ランチなるものを食べた。カズオには料理の味が感じられなかった。どうしたんだろう。味が分からないな。カズオは思った。
 カズオと大川は、地下道を一時間ほど歩いて目的の現場に着いた。ここも地下だった。
「じゃ、カズオさん、この計算頼むね」
 図面を見せられたカズオは、一瞬躊躇したが、すらすらと答えが出てきた。
「こことここへは、異形鉄筋の十三を二十八本です」
 きびきびと指示を出していった。自分でも不思議だった。
「さすがカズオさんですね」
 現場監督がカズオの働きを見て驚いて言った。
「カズオさんは次の出番が来るまで、そこの部屋で休んでいてください」
 カズオは現場の隅に造られたガラス張りの部屋に入った。しばらくして、ふと思った。そういえば、昨日までの記憶がまるでない。そういえば、さっき食べた食事もはじめてだった気がする。何から何まですべてが初めてのような気がする。
 カズオはそれから現場監督に出された図面を見て、指示を出していた。午後八時になっていた。
「それじゃ、そろそろおしまいにしますか?」
 現場監督が立っている脇を、数人の作業員たちが談笑しながら、ぞろぞろとすり抜けていく。大川が近づいてきた。
「カズオさん、うちへ来ます?それとも、センターへ戻るのかしら?」
「また、事務所に戻ります」
「あっそう、じゃまた」
 カズオは来た道を戻って歩いた。はじめて歩く道なのに迷いもなく事務所への道が分かる。カズオは事務所の朝いた机の前に来た。カズオさん専用椅子と書かれていた。カズオはその椅子に腰掛けると、ほっと一息ついた。
「本日の業務終了。起動時間2019年5月18日午前9時にセット。全システム稼動終了…」
 カズオは自分の意志とは関係なくしゃべっている自分にびっくりした。そして、目を閉じると、動きを止めた。
 (了)

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