千葉県沖ノ島
 

 海抜0(カイバツゼロ) 梗概

 三億六千万年前、誕生した生物は、多様な形態で生き、行動し、今を生き、そして、死ぬ。誰も自ら望んで生まれてきた訳ではないのに、何代にも渡って繰り返される。生は、長い時間を掛けて、連綿と繋がって生きてきた、細くて長い糸である。
 大学生の遠藤雅子は、毎日、水泳の記録更新に向けて泳いでいた。
 ビジネスマンの大川真一は、仕事を終えると、スポーツ・ジムで水泳をした。
 ある時、二人は、スポーツジムのプールで出会う。そこで、二人は泳ぐ仲間という共通項で惹かれ合う。
 ある日、彼らは二人で泳ぎながら、ずっと待ち望んでいた相手であることを感じた。
 この時代から一〇年前の二〇一七年、天文学の権威、田所平八郎は、電波望遠鏡で存在を知るM七八星群のα星が、三五億年前に、爆発しており、その爆発の衝撃波、隕石が地球に飛来することを計算により時期を導き出す。それが、二〇二七年。隕石の落下は、地球上に大津波を起こし、各地に地震を誘発させる。やがて、隕石の熱は北極の氷を溶かし、水位を上昇させていくことを予測した。
 その年、田所の研究は学術会議の場で公表され、世界の科学者は騒然となる。その隕石衝突の計算の正当性をめぐって、意見は分かれた。衝突を取るか、取らないかは、各国政府の対応により割れた。
 日本政府は田所の意見を元に、一億一千万人を収容する地下シェルターを多摩地区の地下一千メートルに建造し、避難する方法を提案した。津波による水没に耐えられる施設である。機密性、耐久性、強度を高める研究がなされた。そして、人類存続のため、施設建造に向け、国民は一丸となる。
 しかし、地下シェルターも隕石の直撃を受ければ機能しない。そこで、もう一つの方法として、巨大宇宙船を建造するという案であった。衝突の時期が近づくにつれ、日本国民一億人の入れる施設ができる訳がないことを、国民は知ることになる。施設には入れるのはごく限られた人間のみという噂が広まる。自暴自棄になった人々で日本国内の治安は混沌としていく。
 二〇二七年、隕石衝突の危機がやがて訪れる。田所の研究により、隕石の規模、衝突日時の詳細が割り出された。二〇二七年八月八日、午後6時。
 建造中の施設は二つとも建設半ばであった。隕石の衝突が始まった。地球上のすべてが大津波により破壊されていき、北極圏の氷は隕石の熱により溶解する。水位は上昇し大陸は水没する。大津波や地震により、多数の人間が水死、圧死していく。
 しかし、その絶体絶命の環境に生き延びた新生物がいた。それは、泳がないといられない遠藤や大川だった。彼らは新しい環境に適応できる身体に進化していた。生き延びた二人は、新しい環境で、新しい身体で生きていく決意をする。それは、人類に代わる新しい生物の誕生だった。

 

海抜0(かいばつゼロ) 本編

 

  三億六千万年前、誕生した生物は、多様な形態で生き、行動し、今を生き、そして、死ぬ。誰も自ら望んで生まれてきた訳ではないのに、何代にも渡って繰り返される。生は、長い時間を掛けて、連綿と繋がって生きてきた、細くて長い糸である。
  *
 二〇二七年八月六日 スポーツジム
 大川真一は仕事を終えると、例のごとく、隣のスポーツジムに向かった。エントランスから受付カウンターを見ると、顔なじみの職員・田島が接客している。そこから二十メートルほど離れたロビーに、二十人ほどの人だかりができている。カウンターまで行くと、大川は、田島に声を掛けた。
「ねえ、あの若い女の子って、誰かに似てるよね」
 下を向いてPC端末を操作していた田島は、大川に素早く顔を向けてから、ゆっくり人だかりのほうへ顔を向けた。
「ああ、あの子ですよね? 大川さん、見たことないんですか? オリンピック候補の遠藤雅子さん。日本記録保持者でバリバリの二十一歳、もちろん、独身、女子大生、今、期待されている若手スイマー、恋人にしたい女性ランキング一位、まあ、こんなところですかね」
「へえ、やっぱり、そうなんだー」
「もう、有名人もいい所ですよね」
「いいなあ……」
 大川は毎日泳いでいる遠藤雅子を、羨ましく思って出た言葉だった。それを田島は勘違いして「いいですよね? ルックスいいし、可愛いっし」と、大川が遠藤に好意を寄せたと勘違いした。
 しかし、そう言われた大川は。彼女を改めて見たが、彼女の姿は人に紛れて良く見えない。雑誌に載った写真を見たりし、何となく容姿は記憶していた。注目されている彼女を遠い存在のスターと感じていた。田島は、さらに言葉を重ねる。
「僕ね、遠藤と大学の水泳部で一緒だったんです。僕が三年上の先輩ですが、記録はぜんぜん出ませんでしたので、先輩なんて余り言えませんけど。もう直ぐ、インタビューが終わりそうですから紹介しますね」
 大川は遠目で遠藤の姿を見守る。時々、マスコミからの質問に笑みを見せながら、若い女性らしく答えている姿は、好感が持てた。二分ほど経って、遠藤は腰を深く曲げて、記者たちに礼を言っている。記者はそれぞれにメモやボイスレコーダーをポケットにしまうと、玄関を出ていった。遠藤だけが一人ロビーに取り残された形になった。誰もいなくなると、遠藤もカウンターの前に立つ大川の存在に、気が付いた様子だった。それを見た田島が、右手を上げて手を振った。
「マーちゃん、終わったー?、ちょっとこっちへおいでよ」
 その田島の声に反応して、丸い目を、更に丸くして笑った。健康そうな白い歯が、輝いて見えた。小走りで、こちらへ近づいてきた。
「田島さん、今日は出勤日ですか?」
「おお、働かず者、食うべからずってな、きみみたいに、援助してくれる人、いませんから」
「やだ、援助って、人聞きの悪いこと、言わないで下さいよ」
 そう言ってから、大川を見て言った。
「知らない人が聞いたら、誤解するではないですか? 違いますから」
 必死に顔の前で手を振っている。笑っている顔を大川は見入ってしまった。そこへ田島が、「マーちゃんに紹介するよ。こちらの方は大川さんって言うんだ、」
 田島は彼女に声を掛けてから、大川のほうを見た。大川は少し慌てた。心構えができていなかった。突然、駆け寄って来た遠藤を間近に見ると、スターらしく眩しいほど輝いて見えた。オーラと言うのだろうか。
「こんにちは、遠藤です。遠藤雅子って言います。どうぞ、よろしく」
 雅子ははきはきとした言葉で、大川に顔を向けて話してきた。大川は雅子の明るい屈託のない顔に、言葉を失った。大川は、つい、彼女を見つめてしまっていた。
「あ、大川です。大川、真一って言います。どうも」
 仕事での接客は、そつなくこなしていた自分が、信じられなかった。こんなに心が動揺して、言葉も出ないなんて。そこに田島が割って入る。
「大川さんって、ここのお得意様。常連客ってところで、ほぼ毎日通ってくれているんだ。すごいでしょ? それもここへ来るとずっと泳いでるんだ」
 雅子が目を丸くした。
「あら、あたしと同じ。あたしもほぼ毎日、泳いでますから。大川さんって、彼女、いないでしょ? 」
 大川は、突然、初対面の若い女の子に明け透けにそんな事を言われて驚いた。
「あ、僕、プロのスイマーですから、彼女は必要ないです」
「プロのスイマーですか?」
 そんなやり取りをしている間、田島は別の来客の対応に当たっていた。
「つまり、君はアマのスイマー、僕はプロのスイマーってことです。働きながら泳いでますので」
 雅子は良く分らないという表情をした。
「毎日、ここで泳いでるんですか? 一年中、欠かさずですか?」
「そうです、僕はプロですから」
「わーすごい、私と同じですね。私も毎日泳いでますから、今度、そのプロの泳ぎを見せてください。すごく関心ありますから」
「いやあ、関心がある、なんて、君にはかなわないと思うけど、まあ、一応、プロですから」
 プロという言葉に、雅子はおかしくて噴き出した。
「あたし、また、明日、来ますから、泳ぐの、ご一緒していいですか?」
「もちろんです。ここはスポーツジムですから、僕に断らずとも泳げます」
「あ、そうですよね、ハハ」
 また、雅子は笑った。大川は雅子との会話が、しどろもどろになっていることを自覚していたが、頭が回らないのである。いつもの自分ではなかった。
 突然、「雅子」と呼ぶ声で、彼女は声のするほうを向いた。同じ年格好の女子が、三人立っていた。雅子は片手を上げて合図した。
 三人のうち、背の高い体のがっしりした一人が「お話し中、すみません。時間よ、もう行くわよ」と声を掛けてきた。
 腕時計を高く上げ、もう一方の手で、時計を指差している。雅子は、大川に申し訳なさそうに会釈した。
「分かったわー」
 控えめな声で叫ぶ雅子は、大川に体を向けて「では、また」と、言葉少なに、大川の顔を見上げて言った。大川も彼女の顔を見つめた。
「では、また」
 雅子は後ずさりしながら少しずつ離れると、両手を高く上げて、大きく左右に振った。
「では、また、あした。田島さんもまた」
 その言葉を残して、走り去っていった。田島が雅子を見送る大川のそばに、寄って来て耳元でささやいた。
「いい子でしょ? 誰にでも明るい、これが天然に明るいんです」
 そう言われて大川も納得する。彼女と話していたら、自分も明るい気持ちになった。不思議な子だった。遠藤の後ろ姿が視界から消えると、大川は田島の方を向いた。田島が顔を寄せてきた。
「援助っていうのは、彼女は、うちの会社がスポンサーになってるんです。社長がファンなんです。というより、彼女が小さいころからここの水泳教室に来ていたせいもあるんですけどね、それが縁でスポンサーになっているって訳です。ここの宣伝にもなりますから社長も抜け目ないです」
 そう言ってから、田島は辺りを見回した。いるはずのない社長の目を心配したんだろう。
「そうなんだ。すると、彼女ってこの近所に住んでるわけ」
「実家がこの近所で、高校生頃までは時々ここで泳いでいたんです。大学へ行ってからは有名になったし、全国的な規模で監督が付いているし、ここへは足が遠くなっちゃいました。今、住んでるとこは、水泳協会の合宿所とか言ってましたね」
「明日もここへ来るようなことを言ってたけど、そんな子が練習にここへ来るの?」
「嫌だなあ、大川さん、ここのジム、見くびってませんか? まあ、これでも設備はピカイチでしてね、水温、水質、衛生度、施設設備、観客席等、大阪でもトップクラスですから、国際競技もバンバンできますからね。まあ、場末ですけど、こうやって、有名選手が泳ぎに来てくださるんです。明日から、ここのプール半分は彼女たちの貸し切りって訳ですね」
「そうなんだ、ごめん、ここって、そんなにすごかったの、知らなかった」
「はい、残念ながら、すごいんです」
 そのやりとりをしながら二人は笑った。
 ほとんど仕事が終わってからしか泳ぎに来ない大川は、昼間、泳ぎに来ている遠藤という女性を初めて知った。
「今更なんですけど、大川さんって、ほんと、すごいですよね。ほぼ、毎日、来てますから。大川さんのタイムは知らないですけど、なんか速そうですよね。大川さんって。学生のとき、水泳選手だったんですか?」
 時々、大川が泳いでいるのを見たことのある田島が、興味を持っていたことだろう。そんなことを人から初めて聞かれた。言われてみれば、大川は力を出して泳いだことが今まであっただろうか、と自問した。今まで泳げれば満足で、速く泳ぐ、など気にしたことはなかった。人と競って人より速く泳ぐことなど、大川には意味はなかった。
 遠藤という子は、常に誰よりも速く泳ぐことを意識し、ここまで生きてきたのであろう。大川はマスコミに囲まれて受け答えしている姿を見て、異次元の人間、自分とは全く価値観、考え方の違う人間では、と思いながらロッカールームに足を向けた。
 翌朝、自宅で大川は居間に置いた水槽の金魚を見る。出目金、和金が二匹ずつ泳いでいて、一匹ずつ、指で摘まんだ餌をあげるのが日課である。ところが、四匹いるはずの金魚が一匹足りない。綺麗な赤をした和金である。水槽に隠れる場所などない。不思議に思いながら、水槽の周囲を見回すと、少し離れた床に和金が横たわっていた。大川は真っ赤な和金を見つめた。金魚はすっかり水気をなくし干からびていた。
「水槽に蓋をしてあげれば良かったか」
 大川はポケットからハンカチを取り出し、金魚をハンカチに乗せくるんだ。彼はハンカチにくるんだ金魚をポケットにしまう。他の金魚はいつもどおり、いなくなった仲間を気にすることなく泳いでいる。
「僕はこの飛び出した金魚と同じか?」
 水がなくなり、泳げなければ、息が詰り窒息する。これからも泳がなければならない。どう考えても異常な体質である。
 午後六時、退勤時刻になれば、残業する同僚たちの視線を受けながら、事務室を飛び出し、速攻、隣のスポーツジムに駆け込む。同僚と飲みに行くことは、かつて一度もない。周囲から「さかな君」と嘲笑を含んで揶揄された。この異常なまでの性癖のせいで、社内では変人扱いされていたが、仕事は誰よりも迅速、かつ正確で、成績は優秀だから誰も仕事に関しては、文句を付ける者はいなかった。大川の行動は、すべて泳ぐために合理化され、すべての行動が、研ぎ澄まされていた。
  *
 遠藤雅子は体育大学4年生、就職活動に明け暮れる毎日を送っているクラスメートを尻目にひたすら水泳をしていた。彼女は大学の水泳部に身を置く。毎日、授業のない合間を縫ってはプールで泳ぐ。日本国内の水泳競技では、国体で優勝をするまでになった。
 高校一年の時、ただ、泳ぎたいと言うことで入った水泳部であったが、めきめき実力を付けて、高校一年生になってから、突然、水泳の才能が開花し、大学内では敵なしという実力に成長した。そして、初めて出場した日本選手権水泳競技大会ではすべての単独泳法で優勝を果たした。全種目の日本記録更新も近い、と期待されている。
 地元のスポーツジムでの強化合宿も今日で終わり、マスコミのインタビューに答えている。明日は、公開模範演技の日である。今、インタビューに答える彼女は次の目標を宣言した。
「オリンピックで金メダルを持ち帰ります」
 それに対し、集まった新聞記者が質問する。
「ずばり、いくつ、取るつもりですか?」
 考えていると見え、間が空いた。
「できるだけ、多く」
 みんな歓声を上げた。それも決して夢ではない実力を既に身に付けていた。主だった世界大会には、まだ出場していないが、それだけの記録を持っていた。こぞってマスコミは彼女を彗星のように現れた期待の星として報道した。ルックスのいい彼女は話題性十分の存在だった。誰が彼女を射止めるか、という下世話な話しも週刊誌では良く取り上げられた。そうして、彼女がいる所には必ずマスコミが付いて移動した。彼女は速く泳げるだけでなく、人を引き付けるオーラを持っていた。
「でも、わたしの泳ぐ目的は、金メダル? なんか、なんか、違うような。もっと、別で、わたしはただ、単純に、速く泳ぎたいのかも。速く泳ぐことだけで。気が付いたら、私がトップを泳いでいた。私にとって、金メダルはその結果のご褒美で。よく、頑張りましたね、っていうご褒美です」
 丁寧な言葉で受け答えする雅子は、インタビューが終了して、一人になると、頭の中は別の人格が出現して自分に問う。きみは速く泳ぐために泳いでいる訳ではないだろう? ただ、泳ぎたいから泳いでいるそこらの平凡な女だ。無性に泳ぎたいから泳いでいる。泳がないと、息が詰る。正直に言ってみろ。面白いぞ。目標なんてありません。泳ぎたいのです。もう一人の雅子が囁く。そのたびに、これでいいのか、と思う。その苦しさは何で起こるのか。雅子は時々その衝動を抑えるために泳いでいるような気がする。泳ぐことが自然。安らぐ。競争することが目的ではない。絶対、違う。何かものすごい力が、泳ぐという行動を取らしている気がしてならなかった。速く泳ぐことは、本能である。何か遠くへ、逃げるための本能がそうさせる。そのエネルギーは、一体何でやってくるのか、雅子自身も分からない。その答えを出すために、毎日、無心に泳ぐしかなかった。
 何かを感じて、視線を周囲に向けると、1人の男性が雅子を見つめているのを感じた。その男性のそばで、顔なじみの田島が手を振っているのが見えた。田島が大きな声で呼んでいる。
「マーちゃん、終わったー?、ちょっとこっちへおいでよ」
  *
  二〇一七年夏 M大学天文学部研究室
 教授の田所平八郎と大学院生の兵藤一郎が並んでパソコンのモニターを見ていた。
「神は地上に増えた人々の堕落を見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノアに告げ、ノアに箱舟の建設を命じた。
 箱舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていた。箱舟の内と外は木のタールで塗られた。ノアは箱舟を完成させると、妻と、三人の息子とそれぞれの妻、そしてすべての動物のつがいを箱舟に乗せた。洪水は四十日、四十夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は百五十日の間、地上で勢いを失わなかった。その後、箱舟はアララト山の上にとまった。
 四十日のあと、ノアは鴉を放ったが、とまるところがなく帰ってきた。さらに鳩を放したが、同じように戻ってきた。七日後、もう一度鳩を放すと、鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきた。さらに七日たって鳩を放すと、鳩はもう戻ってこなかった。
 ノアは水が引いたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出た。そこに祭壇を築いて、焼き尽くす献げ物を神に捧げた。神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全ての生きとし生ける物を絶滅させてしまうような大洪水は、決して起こさない事を契約した。神はその契約の証として、空に虹をかけた。と、ウイッキペディアに書いてある」
 田所は助手の兵藤に、モニターの記事を読んで聞かせていた。
「先生はこれを予言とおっしゃるのですか?」
 これは旧約聖書によると過去に起こったこととされているが、そうではないとわしは思う。この先、未来のことを予言していると思う。このような大災害は過去に記録されていないからだ。そりゃ、国ごとに地域的な災害は常に起きているが、この予言は、地球的だと思わないか?」
「うーん、そうおっしゃられるとそんな気もします。それが、今回、観測しているM七八星群の星の明滅と関係しているというのですね」
 モニターを見つめていた兵藤は立ち上がると腕を組んで唸った。
 田所はM大学天文学部教授で今までに新星を八個、発見している。そして、兵藤は田所の書いた星の本を小学生から愛読していた天文オタクであった。それが、今では田所の助手として研究室に籍を置いている。田所もゆくゆくは兵藤に研究を託したいと考えていた。
「先生はこのM七八星群はすでに三十五億年前に爆発している。その爆発する以前の光がずっとこの地球に届いている。そして、今、最後の爆発のエネルギーが到達するというのですか?」
「まあ、あくまでわしの理論だからね。そうあって欲しくない気持ちが大きいが。何度、計算しても、そのエネルギーがこちらに向かっているという結果になる」
「だとしたら、これは大変な騒ぎですよね。このことは公表するのですか?」
「余り気が進まないが、学会に発表する。それから、この理論にどれだけの研究者が賛同し、政府を動かす力となるか、だ。すべて、今度の学会が勝負だ。これでそっぽを向かれたら、もう、わしらにはどうすることもできない」
「しかし、先生。その未曾有のエネルギーが地球に到達した時、地球はそのエネルギーに対処できるのでしょうか?」
 田所はしばらく押し黙った。下を向いたまま、田所は低い声で言った。
「我々に残された対処は神に祈るだけだよ。そして、このノアの箱舟のように、対処する力を神が与えてくれるだろう。どんな形でか、私には考えが及ばんが……人類の英知を信じたい」
 田所はその年の秋、日本の京都で開催された学術会議でM七八星群のα星の地球衝突についての学説を発表した。会議中、賛否が分かれて、議長も収拾を付けられない状態になった。もし、この学説が正論であるなら、世界はパニックになることは予想できる。だから、会議を聞いていたマスコミもこれを報道していいものか判断に迷った。検証してから発表するという事で審議保留となった。この学説は当然政府の危機管理センターに情報が流れた。
 1週間後、田所は内閣総理大臣の執務室にいた。ソファーに座る総理大臣・高橋幸夫と対面して田所が座っている。
「田所教授、地球は終わるって、仰ってるようですが、困りますね。そんなことが国民に伝わってみなさい。パニックです。治安が保てなくなる。地球が隕石で破壊される前に、暴動で終わってしまいますよ。だいたい、そんな、未来の終末を知って、誰が喜ぶのですか?」
 高橋総理は一気に田所に憤慨を伝えた。田所はしばらく黙って、天井を見ていた。
「総理、この部屋の天井は古いですか? もし、明日、天井が落ちる、と知ったらどうしますか?」
 高橋総理も天井を見て、しばらく考えてから答えた。
「それは困る? 今日中に、この部屋から出るよ。そして、修理を頼む」
 そう答えてから、はっとした顔をした。言葉を更に続けた。
「天井を落ちないようにするのも手だな、考えれば、他にもいろいろいい案が出るかもしれない。公表は必要なことかも知れませんな」
 高橋総理はそう言って、天井から田所に目を向けた。田所は総理の顔を直視して言った。
「そのとおりです、総理。人類の英知は計り知れません。人類は不可能であると思われた科学を着実に現実にしてきました。それは時間が掛かるかも知れません。しかし、時間は掛かってもやらねばなりません。間に合わないかも知れませんが、諦めてはいけません。築いてきたすべての歴史を、自分たちの代で終わらせることはできません」
 かくして、田所の助言により、高橋総理を総指揮官として、プロジェクトが進められる事になった。高橋総理の召集により、各界の知識人・三十名がこのプロジェクトに集められた。その集まった知識人を前にし、高橋総理はこう繰り出した。
「人類の存続はあなた方の手にゆだねられました。田所教授が積算した地球最後の日は二〇二七年です。これより後かも知れません、先かも知れません。田所教授は今後の研究で誤差を修正されるでしょう。隕石落下によってどのような壊滅的な状態になるかも知れません。衝突は起きないかも知れません。全くの未知数です。
 しかし、衝突しない可能性はゼロということではないということです。ここが重要です。衝突の可能性はゼロではない。ここまで繋げてくださった過去の偉人たちの英知を、達観し放置し、万が一、落下が現実となったとき、我々は絶滅するしかない。
 これから十年という歳月を無駄にすることはできません。衝突までの期間が短すぎると言って手をこまねいて待つか、一人ひとり、全力を尽くすか、人類の英知を結集する時です。さあ、手を合わせ、前に進みましょう」
 *
 二〇二七年八月
 田所は、研究の合間を縫っては、大学から車で二十分ほどの黒部川へ行って泳ぐのが日課である。川と言っても、人工のプールが川の脇に隣接して造られた所である。学会へ隕石衝突を発表してから十年の歳月が経過した。
 十年前、幾つかの対策が提案され、それぞれを進めることになった。隕石衝突の規模も分からない、すべてが予測不可能だったあの時、可能なアイデアを絞り、実現可能と思われるアイデアを全力で進めることになった。選択肢は二つに絞られた。一つは地球に残り衝突後の対策を取り存続を図る方法。二つ目は地球を離れ、宇宙に新天地を求める方法。十年前、どちらも対策が現実に可能かどうか、未知数だった。どちらも実現できそうで、できない課題であった。しかし、実現可能かどうか、そんなことを考えて何もしなければ、古代の恐竜と同じ道を歩むことになることは間違いない。生き残るにはやるしかない。誰もが一致した意見であった。
 現実的なプロジェクトが考えられた。一つは東京の多摩地区に、地下一千メートルにシェルターを建設する。機密性のあるシェルターで地球の環境が戻るまでシェルターの中で生活する。ただし、隕石のサイズ、落下点によっては、シェルターを直撃し、全くの徒労になる。そんな環境を維持できる施設を建設できるかどうかも分からない。一か八かの掛けである。
 二つ目は宇宙空間に巨大宇宙船を建設する。物資はすべて宇宙エレベーターで運ぶ。この宇宙エレベーターの建設がこのプロジェクトの要である。大気圏と地上をケーブルで繋ぐ。長いケーブルをどうやって掛けるか。部品の運搬の道ができれば、巨大宇宙船は可能であった。いずれも、構想が提案されて、それを現実にする技術が研究されることになった。
 田所はスポーツバックに夕食の握り飯を入れながら考えていた。
「先生、水泳ですか。精が出ますね」
 パソコンを睨んでいた兵藤が、田所に顔を向けて声を掛けた。
「ああ、これをしないと研究に身が入らないからしょうがない。どうだね、君もたまには付き合わないか?」
 兵藤は手を振って笑いながら「僕はジョギング派ですから。毎朝、このキャンパスを十周してますので、十分です」と丁重に断る。毎度の会話であるが、田所は気にすることなく一人、水着、タオルの入ったバッグを持って研究室を出ようとしたとき、兵藤が呼び止めた。
「先生、今度、入った野中君はダイビングが趣味みたいですから、誘ってやってください」
 野中は4月から大学院の研究室に席を置くことになった新人である。田所は了解したと合図を兵藤にすると、ドアを開けて研究室を出た。駐車場に止めた愛車に乗り込む。エンジンを駆けながら思う。
「この期に及んでも水泳を欠かさず続けている。このまま、続けられるまで続けるのか」
 田所は黒部川のプール場で一時間は泳ぐ。小さい頃から泳ぎが得意という訳ではなかった。別に人より速く泳げた訳では決してなかった。それでも、泳ぎたかった。山、川に囲まれたこの自然のプールは、泳いでいて最高に気持ち良かった。自ら顔を出して水面に寝そべると、プカプカしたこの空間で空を眺める。昼は何処までも青い空が広がり、そこへ白い雲が漂う。その雲の流れをじっと目で追う。
 この泳ぐこと以外は、昔から空を眺めていた。泳いでさっぱりしてから空を眺めるのが日課だった。夜、白い雲が漂う青空は一変し、宝石のように光る星が浮かぶ、漆黒の空を見詰める。ぷかぷか漂いながら、その星々を一つずつ数えていく。途中で直ぐに分からなくなる。その星が動物を形作っていると言うことを星座の本で知った。それからはその星を数えることができるようになった。数えられないあの星は何か、と考える、父親に頼んで天体望遠鏡を買って貰った。倍率は決して高いものではなかったが、好きな星を肉眼より大きく見られることは幸せだった。彼がM七八星群を発見する切掛けになったのは、このプール通いのお陰もある。田所は水面上に浮かびながら太陽の光を浴びる。近所の小学生が五人ほど泳ぎに来て、ビーチボールを使って遊んでいる。泳ぐにはあまりにも無秩序なプールである。それでも二コースだけ、水泳をしたい利用者向けに水泳専用コースを作ってある。泳ぎ疲れたらこうして自由に浮かんでいるのもいいものである。
 十年前、隕石落下を予測してから月日が流れた。その間、コンピューター、天体望遠鏡も発達し、α星の観測データも確実、正確に収集し、衝突時期の精密な割り出しも可能なレベルまで近づいてきた。
 田所はまた、十年前を思い出していた。過去を思い出すことなど、ついなかったことである。がむしゃらに前に進むしかなかった。全人類が人類存続の目標に進んだ。政府は隕石の落下を公表した。ただ、小規模な隕石が落下すると言うことにして公表した。そうしないと、表だって、対策が立てられないだろうという見解だった。あの頃、α星の破片のサイズを全く予測できなかったし、その衝突のエネルギーもどのくらいのものか計り知れなかった。数年後の観測で、周辺の惑星が光を消していることを確認できていた。位置を変える惑星まで出たことも確認できた。α星の影響であることが予測できた。その情報は何処からか漏れ、噂となって、広まっていった。それからというもの、地球のいたる場所で、大混乱を起こし始めた。宗教グループが幾つも結成されて、人生の終末を心安らかに迎えようという思想を説く人間が出現した。それに入信するものは良かったが、自暴自棄になる人種は、略奪、暴行を繰り返すようになって、社会の治安が乱れ始めた。都市の営みが混沌を極めてきた。そういう中でも、日本政府は人類存続の目標を御旗に、進んだ。御旗に対する妨害は、日毎、増えるばかりで、それらに力を使って排除することは、シェルター、宇宙船の建造するためのエネルギーを削ぐことになった。多摩地区のシェルターには選ばれた一部の人間しか入れない、と国民に伝わった。死への恐怖が人々に重くのしかかり、人類の英知を結集することは不可能になった。
 田所は、二つの選択肢は、多分、どちらも間に合わない、と予測していた。宇宙エレベーターは完成したばかりである。宇宙空間に巨大宇宙船を建設するには、まだ数年掛かるだろう。人類の英知は時間というエネルギーに勝てなかった。人類誕生から今日までの時間など、生命誕生の歴史から見れば、一%以下である。
「神は、地球が誕生した時から、この日を決めていたのだ。人類は淘汰された」
 田所は水面に漂い、星空を眺めながら思った。
「その時代の環境に合った静物が生き残る。淘汰の歴史だ。生き残った者がその勝者を知ることになる」
 そう結論づけた田所は、水中に自らの身体を、勢いよく沈めた。
  *
 出版社の事務室で、机のパソコンに向かっていた大川は、報告書の見直しを終えると、大きく息を吐いた。「よし」と、最後の気合いを入れると、上司の田中に報告書のファイルを送信した。退勤時間を一五分過ぎていた。
「終わったー、さあ、泳ぐぞ」
 事務室を飛びだし、ロッカールームに行き、水着の入ったバックを掴むと、隣のジムへと走った。
 ジムに入ると、ロビーが混んでいた。十メートル先に見える受付の田島は、接客中で忙しそうにしていた。カウンターの前まで来て、接客中の田島の様子を見ていた。田島も接客に肩が付くと、大川に気が付いて歩み寄って来た。
「大川さん、水泳協会ご一行様が泳ぎに来てますから、コースが少し狭いけど我慢してくださいね。公開模擬演技があるんで、マスコミがいっぱいですけど、気にしないでくださいね」
 昨日の雅子の言葉を思い出した。
「また明日、って、このことだったんだ」
 気のない返事をしながらも、大川は気持ちがそわそわした。雅子を見てから大川の心が揺れ出した。この気持ちは何だろう。同じ泳ぐ物同士の連帯感というものであろうか。着替えを済ませた大川は、訳の分らない逸る気持ちを抑えながら、プールサイドに足早に近づいた。観客席には、雅子の調子を取材するマスコミが、数十名陣取っていた。十コースあるプールの五コース分が、雅子たち水泳協会の仲間のためにフロートで仕切られている。ほぼ、半分である。特別待遇というのであろう。遠藤を見るため、観客席にはマスコミ以外の人間もいた。大川は遠藤の泳ぎをしばらく眺めた。百メートルの距離を折り返すだけの繰り返しである。この子は一体、何でこんなにも無心に泳いでいるのであろう。そんなことを考えながら見つめていた。その隣のコースでは、仕事が終わった解放感に浸りながら泳いでいる人たちがいる。自分はこちらの側の人間なんだろう。彼女とは所詮世界が違う、生きる世界が違う。大川はプールサイドに近づくと、腰をかがめ、いつものように、徐々にプールの水に漬かりながら頭を沈めた。プールに響く喧騒が一瞬無音になる。水の音しか聞こえない。頭を水面下まで沈め、それから鼻の下までゆっくり頭を出した。いつもの喧騒が聞こえてくる。この喧騒から逃れるために僕は泳ぐのか。身体を一気に水に沈めると、彼はプールの壁を両足で勢いよく蹴った。水に溶け込む一瞬である。僕が胎児になる時間だ。泳ぎ始めると、大川の頭は空っぽになった。
  *
 プールの観客席には、K新聞社のカメラマン・橋本が、遠藤雅子を望遠カメラで追っていた。遠藤が泳ぎ始めてから三十分ほどが経つ。橋本には、何か彼女の泳ぎを望遠カメラのファインダーを通して見ていて、違和感を感じた。しばらく考えていて、ふと、思い当たった。
「あ、向こうで誰かが並んで泳いでいるからだ」
 橋本はそれに気が付いて突然、勢いよく立ち上がった。隣に座っていた他社の新聞記者が何事かと、橋本を見上げたが、そのまま、また前を見た。橋本は我が目を疑った。仮にも日本で最速のスイマーが泳いでいる。その泳ぎに並んで泳げる一般人など、日本では皆無のはずである。橋本は確認するためにファインダーを改めて覗く。どう見ても並んで泳いでいるようにしか見えない。手や足の動きが全く同じ。同じ呼吸をしているかのように綺麗にストロークを合わせているとしか思えない。シンクロスイミングでは意識して動きを合わせたりしているが、これはそんなものではない。美しい。これは、波の立ち方から飛沫の飛び方、すべてが同化していると言うのだろうか。ちょうど、遠藤の泳ぐ姿が二重にブレているように見える。同じ力で、同じ位置に手を出したり、水から抜いたりしている。足のバタ足にしても、ダブって見えるかのように、水しぶきが同じである。
「信じられない。何て美しいんだ」
 橋本はファインダーの中で興奮した。その二人の動きに、我を忘れて見入っていた。ファインダーをはずすと、一般コースで誰かが泳いでいるのが見える。あれは一般人? 橋本はまたファインダーを覗く。影などではない。光っている。遠藤と重なるように泳ぐ一般人って何者? 橋本はその影の正体を見極めようと、席を立つ。観客席の階段を早足で駆け下りていく。
「これはすごいものが待ち受けている。正体を見届けてやるぞ」
 プールサイドに駆け下りてきた橋本は、一般人のコースで泳ぐ人間を順に目で追っていく。どれも普通だ。一体、どいつだ。あの早い奴は何処へ行った。それらしい人間は何処にも泳いでいなかった。
  *
 雅子はいつになく呼吸が楽であった。呼吸が楽なのは何故か。この安らぎは一体何処からくるのか。水の存在、抵抗を感じない。何か暖かなものに包まれながら、身体を動かしているようだ。それは心臓が鼓動するように、自然に身体が漂う。重力がなくなったかのように、身体がなくなった感覚に近い。何度目かのターンを繰り返した。ターンを繰り返す度、自分の身体が、抵抗のない暖かな光に、また包まれる。その光の向こうに、何かが写っている。周囲よりひときわ光り輝いているようにも見える。その光はまるで自分に寄り添うかのごとく。雅子はその光に声を掛けた。
「貴方はずっとあたしと並んでいていいの? 何処かへ行ったりするの?」
 光は無言のまま並んで泳いでいる。
「そう、あたしと一緒でいてくれるのね、あなたは」
 雅子は光と同じストロークで泳ぐ。
  *
 大川は更衣室から出るとカウンターへ来た。気が付いた田島が大川に声を掛けた。
「あれ? きょうは早い上がりですね」
「ああ、何か不思議だけど、きょうはすごく泳いだ気分になったんだ。なんか、心が満たされたって、感じなんだ」
「身体ではなく心がですか?」
 穏やかな表情をする大川を見た田島は、意味は分からなかったが納得した。
「そういう大川さんを見てると、こちらも心が寛げます。雅子さんには会えましたか?」
「ああ、彼女は隣のレーンで泳いでいた。あれは無心の境地だな。彼女は、人より速く泳ぐとか、そういう時限を超えていたよ。なんか、水を通して伝わるのかな、水を通して伝わってきた。一緒に泳いだ気持ちになれたよ」
 その言葉に、理解できなかったような顔をした田島に、大川は片手を上げて、別れを告げると、スポーツジムを後にした。
  *
 田所は黒部川水泳場に到着してから一時間ほど泳いでいた。自然の川を利用して作られたプールである。二十四時間泳ぐことが可能である。ソーラー照明でプールだけがくっきりと暗黒の川辺に浮かび上がる。
 研究が忙しい彼は、毎日一時間だけ泳ぐが、講義がない日は、丸一日泳ぐこともあった。泳いでいると、新しい発見をしたりすることもあり、日課のように続けていた。泳ぎ疲れたら、力を抜いて水の上に漂う。何からも力を受けない空間に漂う。宇宙に行ったことのない田所ではあったが、宇宙にいると、こういうような気持ちかな、と思うのだった。
 魂の浄化が済んだ田所は、清々しい気持ちで、プールサイドに上がった。用意していた握り飯をバッグから出して、テーブルに置いた時、携帯電話が鳴った。着信は助手の兵藤からである。通話ボタンを押して繋がるなり、兵藤が大きな興奮した声で話してきた。
「先生、例のM七八星群のα星の輝度が今までと比べようもない増加をしています。地球に接近したという現象でしょうか?」
 田所はα星の動向には注意をするように、何か小さな異変でもあれば、時間を気にせず連絡するよう、前々から兵藤たちに指示を出していた。それがつい一ヶ月ほど前から微量ではあるが、輝度の増加を観測していた。微量な増加の原因を特定することに全力をあげることで、兵藤と見解が一致していた矢先である。α星の直径は、太陽の十倍である。遠くとは言え、これほどの星が爆発したとしたら周囲への影響は大きい。星の破片の拡散は元より、爆発の衝撃波は計り知れない。α星と地球は三十五億光年も離れているが、重力のない空間では拡散が弱まることはない。何処までも影響は継続され、何処かのそれ以上の巨大な星にぶつからない限り、衝撃波は止まらない。つまり、ビリヤードで玉は何処までも進みやがてポケットに落ちる。ポケットはブラックホールである。ブラックホールはそのエネルギーを蓄え、別の出口で放出する。宇宙空間では爆発の無限連鎖反応が行われている。それが宇宙空間だ。三十五億年、何処からも爆発の巻き沿いを食らわなかったラッキーな地球も、最後の時を迎えるのだろうか。ノアの箱舟の話を思い出す。やはり、理論は正しかったのであろうか。照りつける夕日が当たる田所のはげ上がった額に、汗が噴き出して顎から垂れた。
「すぐ戻る」
 田所はそれだけ、兵藤に言うと、握り飯をテーブルに残したまま、車に飛び乗った。
  *
 黒部川水泳場から車を走らせていた田所は、車内ラジオのスイッチを入れた。夕方軽音楽の番組が流れていた。そこへ突然、緊急放送が入った。
「たった今、入った情報です。ハワイの電波天文台の発表によりますと、直径一千キロの彗星が地球の軌道上を超光速で通過するという計算結果が出ているという事です。あくまで軌道上ですので、衝突する確率は大変低いという予測です。地球の直径の一二分の一ほどの彗星ですので、かなりの大きさになります。接近すれば、肉眼で確認できる大きさです。情報が入り次第、緊急放送でお伝えいたします」
 いよいよ大爆発の前哨戦が始まったようだ。α星の細かな欠片が地球に向けて飛び散っている。田所はこれから怒るであろう恐怖で、思考が追いつけなくなってしまった。ニュースに内容に気を取られていた田所は、センターラインを大きく外れた。気が付いて慌ててハンドルを戻しすぎて、側道の茂みに突っ込んで止まった。樹木にぶつかった衝撃で、セーフティーバッグが膨らんだ。車から降りた田所は、外へ出て車の状態を見た。ボンネットが跳ね上がり、閉まらなくなった。それに、前輪タイヤが両方ともパンクした。
「よりによって、こんなときにへまをやっちまったな」
 本来であるなら警察に連絡をするところだが、兵藤から連絡されたα星の動きが気になる。無線タクシーを呼んで直ぐにでも大学へ向かったほうがいいだろう。そう考えていた直後、けたたましいクラクションを突然、鳴らされた。音のする方向へ振り向くと、白塗りのセダンの窓から、上半身を乗り出した若者三人が、気勢を上げている。
「よ、おっさん、こんな山道でエンコでっか?」
 立ち止まった田所は、若者の顔を見て青ざめた。完全に剃り上げた頭部に、鷲が羽を広げている絵の入れ墨をしていた。まともな人間の格好ではない。それがゆっくりと、田所の立っている場所に向かって車を走らせてくる。
「おっさんよー、俺たちさ、これから町へ遊ぶにいく所なんだけどさ、軍資金がないんだー。ちょっと寄付してくれる?」
 隕石衝突の公表からこういう暴力集団が、あらゆる場所に出没するようになった。いわゆる自暴自棄の集団である。こんな地方の郊外にも出現するようになってしまった。田所はその声から遠ざかるように、徐々に走り始めた。相手は車に乗っている。山中へ逃げるしか道はない。何をされるか分からない、という恐怖を感じた。田所は道路から脇の草むらに入った。
「あらら、おっさん、何処行くの? 繁みでおしっこ?」
 田所は駆け出す速度を上げると、右膝に激痛が走った。さっきの衝突で膝をひねったらしい。その場で、バランスを崩し、前につんのめって倒れた。慌てて起き上がると、体勢を立て直し、右足を引きずりながら、森の奥へと進んだ。
「へへ、おっさん、俺たちから逃げるつもりなの? おーい、待ってよー、置いてかないでえー」
 声の聞こえない所へ向かって、田所は痛みをこらえながら全力で走った。
「おっさん、手を焼かすんじゃねえよー、俺たちを怒らすと怖いぞー」
 走っても走っても、男達は執拗に追って来た。痛む片足をかばうように、飛び跳ねて逃げた。飛んではバランスを崩し倒れた。
「くそ、おっさん、この辺で遊びはおしまいにしようぜ、俺たちはそんな暇じゃねえんだよ」
 走っていた男の一人が立ち止まると、胸の中へ手を入れた。胸から出したのは拳銃だった。それを知らない田所は、男達からひたすら走って逃げていた。拳銃を手にした男は、身構えると、目の前を走る田所に照準を合わせ、引き金を引いた。数発ほど撃ったが当たらない。何発目かが田所の右足に当たり、田所はひっくり返った。倒れてから右足を引きずりながら、近くの大木に身を隠した。田所は大木に背を当てて、息を整え気配を消す。
「おっさん、鬼ごっこ、終わりにしたら、今度は隠れん坊かい? いいねえ、楽しもうよ」
 そんな声が聞こえてきた。田所は願った。もう、こんな年寄りなんか諦めろ。額から汗が噴き出している。目に汗が流れ込む。目をつぶり、震えながら祈った。
「悪夢であってくれ、すべて嘘だ」
 田所が繁みに隠れてから五分は経っただろうか。目を開けてみた。目の前に男が笑いながらしゃがんでこちらを見ていた。
「おっさん、見っけた。はい、ゲームセット」
 にたにた笑いながら男は田所の額に銃口をゆっくり当てた。冷たい銃口がほてった田所の額に当てられた。
「おっさん、これ、罰ゲーム。玉が残ってたら、オッサンの最後だから」
 笑っていた男は、真剣な顔になった。目の前の男の右腕の指が、引き金を動かそうとしているのが見える。カチ、鈍い音が出て、銃弾は発射されなかった。
「あら、弾切れ?」
 男は拳銃の弾倉を取り出して確認した。
「やっぱり、弾切れか、おっさん、ついてると思ったー? 足、大丈夫? 血が一杯出ちゃってるけど、止めないとやばいよねー」
 男は田所のジャケットに手を掛けると、内ポケットから財布を見つけた。財布には五万円ほど入っていた。
「おっさん、しけてるな、もてないぞ、ま、いいか? もう、死ぬんだし」
 別の男が追いついてきた。その男に現金を見せると、男はにやにや笑った。そして、元来た道を二人は揃って引き返していった。後から来た男が、拳銃の男に話し掛けている。
「兄貴、あのおっさん、俺たちの顔、見てるけど、やばくない?」
「ばーか、お前、あの足の出血だぞ、ほっといても時期、死ぬさ。それとも、てめえが、仕留めるか?」
 そう言いながら、男は空になった弾倉を外し、新しい弾倉をベストから引っ張り出して充填した。
「ほれ、撃たしてやるよ」
 男は後から来た舎弟の腹に銃口を突きつけた。
「いや、いいよ」
 銃口を突きつけられて前のめりになった舎弟は、首を上げて男を見つめると、無言のまま、首を大きく左右に振る。
「だいたい、てめえは撃つ度胸もねえくせに大きな口をたたきすぎるぞ」
 二人が立ち去るのを見た田所は安堵した。身体を折り曲げようとしたが、全く、反応しない。かろうじて動く右手を使って上着の内ポケットを探り、携帯電話をひねり出した。震える指で登録してある兵藤へ向けて通信ボタンを押した。
  *
 兵藤は田所に電話連絡してから、田所が戻ったら分析結果を報告しようと、研究室の野中達と落ち着かない気持ちを抑え、待っていた。兵藤たちは帰りの遅い田所を心配し、何度も腕時計を見ていた。そこへ田所からの携帯電話が鳴った。兵藤は急いで携帯の通信ボタンを押した。
「先生ですか? 今、どちらに」
 苦しそうな低い声の田所からの電話である。
「よ、良く、聞いて、くれ、兵藤君。もう、君に、伝えられんかも、し、知れんから、今、言うことを、め、メモしてくれ」
 兵藤は何かいつもと違う声の田所に危機感を感じながら、メモ帳のあるデスクに飛びつくと、ペンを掴んだ。
「先生、どうぞ」
 言われた言葉は、田所のパソコンのパスワードだった。
「き、君に、話していた、と、お、思うが、わ、わしが、ど、独自に、ぶ、分析し、予測して、つ、作らせた、あ、アプリを、い、インストール、してある。あ、後は、で、データを、いい、入れれば、……か、かなり、精度の、た、高い、しょう、衝突日が、よ、予測できる。で、データ、入力は、き、君に任せる。そ、その後の、た、対応も、君に、お、お願い、する。……わ、わしは、もう、長くない。……せ、世話に、なったな、……あ、あ、ありがとう……」
 それを最後に田所の言葉は聞こえなかった。
「先生、どうされたのですか? いらっしゃる場所を仰ってください」
 何かとんでもないことが起きたことは間違いなかった。兵藤は地元の警察署で懇意にしている富山県警の山田に電話を入れた。
「あ、兵藤君か? 先生はお元気かな?」
 警備課長の山田とは、天文イベントの警備依頼のため、田所に付いていって顔見知りになっていた。大学で夏休みに実施している、地域主催の星を見る、町興しのイベントであった。
 兵藤は、田所からの切羽詰まった電話と、今までの経過を、かいつまんで伝えた。
「よし、携帯からいる場所を特定しよう。安心したまえ」
 山田はいい報せをするから心配しないで待っていろ、と言って電話を切った。
  *
 富山県警黒部警察署地域課・鈴木はパトカーで県警本部から帰るところだった。車道から外れて脇の茂みに車が止まっているのを発見する。路上駐車にしては斜めに繁みに前部を入れ、後部は道路にはみ出した、乱暴な止め方である。近づくにつれ、ボンネットが追突の衝撃だろうか、上がって変形している。
「あの車の手前で止めてくれ」
 鈴木は運転席に座る後輩・飯岡に指示を出す。飯岡はスピードを減速させ、事故車の手前二十メートルでパトカーを静かに停止させた。車から出ると辺りを見た。上り下りとも車の往来は少ない。おまけに車道から外れているだけに気が付く車もいなかったようだ。鈴木は携帯を取り出すと、署に事故車発見の報告をした。後ろから追い掛けてきた飯岡に振り返って言った。
「運転手が車の中にいないから、何処かに倒れているかも知れん。命に関わると大変だ、先の車道を至急見て来てくれ。俺は車の中をもう少し調べる」
 鈴木はゆっくり車の周囲を回りながら内部に不審な物がないことを確認してから運転席を開けた。リアトランクを開けてみた。何も見当たらない。運転手は何処へ消えたのか? しばらくしてから飯岡が鈴木の所へ戻ってきた。
「百メートルほど、車道両側の繁みを見ましたが、倒れている様子はありません」と飯岡は報告をして来た。
 鈴木はこの状況に頭をひねった。負傷した人間なら大抵車の中にいるか、軽傷なら車のそばで通りかかる車を待つのが常套手段だろう。携帯電話は誰でも持つ時代だ。連絡すれば署で直ぐに対応する。何故、乗員が見当たらないか? 鈴木には嫌な予感がした。パトカーに戻ると、無線で署に報告を入れる。乗員の行方が不明であることを伝えた。すると、直ぐに返答があった。
「ナンバーから捜索願の出されている田所教授だと思われます。今朝、そちらの方面に出掛けたまま、消息を絶っています。今、携帯のGPSから所在が判明し、そちらに職員と救急車を向かわせていますが、場所の地図をそちらのパソコンに送信しますので、至急救援に向かってください」
 鈴木が車載モニターの表示を出した。周辺地図が表示され位置関係を確認するため、モニターを外した。GPSの発信場所に向かって走った。鈴木は走りながら、教授は事故を起こしてから何でこんな山の中へ入り込んだのだろう、という疑念が湧いた。五分ほど走った所で、GPSの発信場所に到達した。切り株の影から横たわった人影が見えた。走り寄った鈴木は、倒れている田所の鼻に顔を近づけた。息をしていなかったが、体温がある。しかし、心肺は停止している。右足からは大量の出血がある。足を背後から撃たれた跡だ。こんな山の中に入った訳が鈴木には容易に予測できた。誰かから逃げてきたんだ、と鈴木は直感した。鈴木は携帯で飯岡に、救急隊が到着したら発信場所に誘導するよう伝える。直ぐに、署に電話し、県道の先に非常配備を敷くよう、事件の要点を伝えた。
「時間はそう経っていない。逃げられると思うなよ」
 そう言いながら田所の大腿の脇に膝を下ろすと、鈴木は田所のズボンのベルトを外すと田所の大腿をベルトで縛り上げて止血を施した。
「これで出血は止まるが、これからが本番だぞ」
 鈴木は仰向けに横たえた田所の胸に両手を添えると、体重を掛けて心臓マッサージを開始した。
「イチ、ニ、サン、イチ、ニ、サン、戻ってくれよ」
 遠くのほうでサイレンの音が聞こえてきた。
  *
 兵藤は田所から聞いたパスワードのメモを持って、田所のデスクのPC端末の前に座った。PCの電源を入れると、プログラムが進み、パスワードを入れる画面が表示された。兵藤はパスワードを入れた。
 PCの画面は、隕石シュミレーションソフトを立ち上げますか、と聞いてきた。田所が一年前にソフト開発会社に依頼していたものらしい。兵藤は過去のM七八星に関するデータを兵藤の端末から転送した。過去10年分のデータ送信が完了すると、端末は分析を開始した。解析結果終了までの経過時間が、画面に表示されている。カウントダウンする時間を見て、兵藤は心臓の鼓動が速まるのを感じた。数分してその画面が表示された。兵藤は自分の目を疑った。衝突日時は、今日で、その時間まで数時間である。兵藤は頭を抱えた。
「先生、この結果にどう対応したらいいのでしょうか?」
 田所が不在の今、この結果を誰に伝えるべきか、判断できないでいた。そこへ野中の兵藤を呼ぶ声がした。兵藤が声のほうへ顔を向けると、野中が携帯電話を持ち、笑いながら駆け寄ってきた。
「兵藤さん、先生が見つかりました。発見当初は心臓が止まっていたようですが、回復し、今、病院へ搬送されている最中のようです。先生が話したいそうです」
 野中から電話を受け取った兵藤は、何から話したらいいのか困った。
「先生、ご無事で何よりでした」
「兵藤君、心配掛けてすまんな。わしはもう元気だ。死なんよ。ところで、わしのPCのアプリにデータは入れてくれたか?」
 田所の声は幾分かすれていたが、いつもの田所の話し方だった。
「先生、解析結果が出でいます。しかし、電話でお話できる内容ではないと思いますが」
 田所の反応が鈍かった。田所も予想していた事なのであろう。結果を話すよう言われた兵藤は、ありのままを話した。
「そうか。予想通りだったな。しかし、人類は神に見捨てられなかった」
「それはどういうことでしょうか?」
「以前、君にノアの箱舟の話をしただろう。衝突の衝撃波と熱は、極地の氷を溶かし、地球は水で覆い尽くされるだろう。人類は水に吞まれて死ぬ。溺れて死ぬのだよ。しかし、必ず助かる生物がいる。その生物が新しい時代を作る。神はその生物に助かる道を与えていたのだよ。そうだ、また、運良く会えたら、一緒に泳ぎにいくか?」
 田所の口調には深刻さがなかった。田所には地球の危機などないのでは、と兵藤には思えた。
「そうですね。今度は何処へ行っても水浸しで泳ぐしかないようです。ご一緒しましょう」
 兵藤も軽いジョークを言える自分が不思議だった。これから深刻な状況になるというのに。
 電話を切った田所は、付き添ってくれていた鈴木巡査部長に携帯電話を手渡した。それを受け取った鈴木が、田所に言った。
「先生はお年の割に、強靭な身体をお持ちのようですね、驚きました。心臓マッサージをしていて分りました。撃たれた拳銃の後もすごい回復力で消えてしまった。まるで人間じゃないみたいです。人間じゃない、そんなわけ、ないですよね」
 鈴木は真顔で話していて、自分の言っている事が、途中で馬鹿らしいと思えたのか、大笑いして話を終えた。そう言われた田所は、電話を持つ自分の手を見た。電話が掴みにくいと思ったら、指の間に薄い皮が出来ていた。
「何じゃろうね。本当に人間じゃないみたいだ」
  *
 セダン後部座席に座っている太田邦夫は、隣に座る安住恵子の耳に付けたピアスをいじりながら、外の景色を目を細めて眺めている。そして、おもむろに、
「大輔、今度、手頃なレストランを見つけたら突撃するからな、通り過ぎるんじゃねえぞ」
 左足を助手席の背もたれに掛けていた太田は、運転している野口大輔の後頭部に、その足のつま先を右に移動し小突いた。
「てめえ、俺が言ってるのに、しかとしてるんじゃねえよ」
「あ、やめてくださいよー、髪が汚れちゃいますよ」
 野口は金髪に染めた長髪を右手で撫でた。
「あ、まじい、さっき、ウンコ踏んだんだっけ」
「ひえー、まじっすか?」
 野口は、右手で後頭部全体を、恐る恐る撫で始めた。
「おめえはホントに糞野郎だな、なわけ、ねえだろ」
「いやー、冗談っすか? 兄貴、勘弁してくださいっすよー」
「ほんと、おめえの脳みそは、糞だな」
「ヒャー、それほど上等なものでないっすよ」
 そのやりとりを聞いていた恵子は、腹を抱えて笑い転げた。
「兄貴、あそこにレストランが見えてきやしたぜ、ちょっと高そうなので、次にしやすか?」
「ほんと、おめえは糞だな。突撃するんだから、高級レストランがいいに決まってるだろうが」
「はあ? 兄貴、お金は大事に使わないと、すぐ、なくなっちゃいますぜ」
「ばーか、突撃ってのはだなー、あそこのお宝を頂くってことだ」
「へえ? 兄貴、何ですか、おタカラって、うまいんすか?」
「お前、ほんまもんの糞だな、まあ、てめえはここで待ってろ、客全員の金を巻き上げてくるから」
「へえ? それ、まずいっすよ、レストランの中で、お金を蒔いちゃったら、お客さん、困りやすよ」
「ああ、面倒くせえな、おめえは、さっきのオヤジ、どうなったか、見当、付いてるだろ?」
 野口大輔は、田所をただ置き去りにして来た、と思っていた。
「あのオヤジはな、俺が天国に送ってやった、分かったか? いや、今頃、苦しんでるから地獄かもな、フヘエヘヘヘ」
 そう言って、太田が苦笑いしているのを聞いて、また、野口も良く分からないなりに笑うのだった。
「もう、いいから、おめえは、ここにいて、俺たちが戻ったら、直ぐ発車させるんだ、いいな」
 太田兄弟は二人揃ってセダンから下りた。
 下りるとセダンのリヤナゲッジの黒のボストンバッグを開ける。拳銃を数丁取り出すと、ズボンのベルトにねじ入れた。
 片手に一丁ずつ持つと内ポケットへ忍ばせた。二人はサングラス、マスクを掛ける。
「達夫、行くぞ」
 大田兄弟はレストランのエントランスの自動ドアを通る。受付担当の品のよさそうな男性店員が二人の姿を見て、不信そうにゆっくり近づいて来た。
「あのう、お食事でございますか?」
 二人は、店員の前で立ち止まってから、店員の言葉には答えず、店内を見回した。
「何なんだよ、夕飯どきだってえのに、客が誰もいねえじゃねえか? くそ、どうなってるんだ」
 店員はどう答えていいか、考えあぐねたが、笑って答えた。
「隕石衝突報道からぱったり観光客が減ってしまってまして……」
 店員が答え終わらないうちに、邦夫は店員に向かって内ポケットに隠していた拳銃を取り出して言った。
「とっとと、金を出せ」
 店員は口を大きく開け、後ずさりした。邦夫は拳銃の銃口を店員に向けた。
「てめえ、死にてえのか? 」
 店員はカウンターに素早く移動すると、レジスターからつり銭の小銭三万円を掴んで差し出した。
「てめえ、なめてんのか? こんなはした金。てめえのを出せ」
 店員は泣きそうな顔になりながら、震える手で内ポケットから財布を引っ張り出して差し出した。それを達夫が、後ろから出てきてひったくると、中身を見た。紙幣が束になって入っていた。
「お、こいつ、金持ちじゃん」
 邦夫がその札束を見ると、にんまり笑った。
「命拾いしたな、おっさん」
 邦夫は持っていた拳銃で店員の腹を突いた。店員が腰を追って体を丸めたところで、更に後頭部を拳銃で殴ると、店員はそのままくの字になって倒れた。倒れた店員の腹に邦夫は銃口を当て引き金を引こうとした。
「兄貴、何もそこまでしなくても」
「通報されたらまずいだろ?」
 銃声が鳴り響いた。
「さあ、引き上げるぞ」
 二人はマスクとサングラスをはずすと、意気揚揚とセダンに乗り込んだ。乗り込んできた邦夫を見るなり大輔が言った。
「兄貴、花火の音がしたけど、お祭り?」
「何もない、大輔、直ぐに出せ」
  *
 県警を総動員した検問態勢が県道終端を重点的に敷かれていた。指揮者の中で警備課長の山田が苛立ちながらモニターを見つめていた。へリ二号が凶悪犯の乗るセダンのモニターの映像を送信していた。そこへ本部から入った音声が、スピーカーから流れた。
「現在逃走中のセダンは富山県スパーどんどこに駐車中、四名のグループに強奪された事が、セダンの運転手の証言により判明した。なお、襲われた運転手は軽症である。運転手の証言から犯人は拳銃を所持している可能性がある」
 その知らせを受ける前から、山田は全隊員に防弾チョッキの着用、拳銃を携帯させ、必要とあれば発砲を許可していた。山田は田所教授を襲ったグループが拳銃を所持していると推測していた。
 県道の終端で上下のラインをすき間なく二重に装甲車で塞いだ。装甲車の屋根の上に選りすぐりの狙撃手4名が待機した。
 やがてヘリの報告が指揮者のスピーカーから流れた。
「蛇行運転を執拗に繰り返しております。時速三十キロメートル、バリケード地点までの到達距離二キロメートル」
 蛇行運転するセダンの映像がモニターで確認することができた。ヘリ二号から報告を受けた山田が全員に指令を出す。
「ネズミがやってきたぞ、総員、配置に付け」
 山田は指揮車に付けられたはしごを登り、屋根の上に上がった。県道は山道のため、カーブはうねっている。所々、県道が見え隠れしている。
 山田は双眼鏡を目元に上げて覗く。犯人が乗ったセダンが見えてきた。山田は無線マイクを口元に運ぶと指令を出した。
「全員、拳銃を構えて待機しろ」
  *
 運転する野口は、フロントガラス越しに覗いて、ヘリコプターを見ようとするので、蛇行運転を繰り返していた。
「大輔、てめえはしっかり運転してればいいんだ。分かったか?」
「あい、分かりやした、兄貴」
「しっかし、おめえ、よくそんなんで運転免許、取れたよなあ」
「へえ? 運転免許ですか? よく分からないけど、何なんですかね、それ?」
「おめえ、運転できるって言ってたじゃねえか?」
「へい、ガキのころから父ちゃんの車を運転してやした」
「おめえ、話し、分かってねえな、冗談じゃ、ねえぞ、止めろ、止めろ」
 そんなやり取りをしているうちに、セダンの先に機動隊の装甲車が現れた。
「やっべ、ポリ公だ」
 後部座席の邦夫は、運転する野口の脇から前を覗いた。
「へえ、たくさん、いやす、豪勢でやすね、誰かパクルんすかね、兄貴」
 野口は口を大きく開けて笑って喜んでいる。
「馬鹿野郎、近づくんじゃねえ、大輔、バックしろ、バックだ」
 山田が、狙撃手にセダンのタイヤを狙って打つように、既に指示を出していた。セダンが、急ブレーキをして転回しようと横になったところで、前後のタイヤを全て完璧に狙撃手の銃弾が打ち抜いた。立ち往生しているところを見届けた山田は、マイクを取った。
「君たち、投降しなさい、抵抗をやめなさい」
 邦夫は窓ガラスを空けると、持っていた拳銃を窓から出して、四方八方に向けて、連続発射した。止まっていた装甲車の側面に数発が当たった。
「くそ、おい、銃を取れ、戦うぞ」
 邦夫が三人に声を掛ける。
「あたし、やだー、死にたくない」
 恵子が絶叫してセダンの後部座席からドアを勢いよく開けると、外に飛び出した。慌てて走るが、足がもつれて転がった。邦夫はそれを見た。
「恵子、裏切るのか? 許さん」
 邦夫は恵子の背中に向けて拳銃を発射した。恵子の背中から血しぶきが飛んだ。
「馬鹿、痛いよー、やだよー」
 転がった恵子は泣き叫んだ。しかし、その声も五秒も経つと、小さな声になっていって、いつしか無言になった。それを見ていた山田が、マイクを更に力強く握った。
「お前たち、仲間を殺すのか? やめるんだ」
 邦夫が腰に差し込んでいた拳銃を引っ張り出すと、窓から顔を出し、スピーカーに向けて、数発、拳銃を連続して発射した。先ほどから運転席のハンドルを抱いて震えていた野口が急に顔を上げた。
「あー、兄貴の馬鹿、恵ちゃんが死んじゃうよー」
 野口は叫びながらアクセルを思い切り踏んだ。セダンはガタガタ上下動をさせながら少しずつ道を塞いでいる装甲車に向かって走り出した。それを見た邦夫が叫んだ。
「大輔、てっめえ、何するんだ、気でも違ったのか?」
「気が違ったのは、兄貴だよー、恵ちゃん、撃つなんて、俺、許さないよー」
 セダンは装甲車に当たり、止った衝撃で邦夫たちは、フロントガラスのほうへ弾き飛ばされた。催涙ガスが車内に放り込まれて、全員が咳き込みながら車外へよたよたと逃げ出した。
 警官隊がいっせいに邦夫に覆いかぶさった。
「確保、全員、確保」
 警官隊が一斉に動いた。
「午後五時三十分、容疑者、全て確保しました」
 指揮車内にいた山田に無線連絡が聞こえた。無言のまま握り締めていたマイクを机の上に置くと、そばにあった椅子に座ろうとしてふら付いた。
「おっと、俺も年を取ったか」
 ふらついたと思ったのは、指揮車が動いていたせいだった。揺れが大きくなり、山田はその場に倒れて起き上がれない。
「何だー、大きいぞ」
 太田に覆い被さっていた警官隊は激しい揺れのために押さえつけることができなくなった。誰もが立つことができなくて地面にしゃがんだ。周囲の山が動き出す。やがて、山道にひびが入り始め、亀裂が広がっていく。伏せていた山田は遠くの山道が崩れていくのを模型でも見るかのように見ていた。まるで砂山のようにあっさり崩れていく。山が大きく沈んでいくのが見える。指揮者のスピーカーから音声が流れていた。
「太平洋全域で大津波が発生。計測不能。アルプス山脈を越える大津波です。大津波の原因は巨大隕石の衝突によります。その衝撃波による地震も各地で発生しています。被害は推測不能です。皆さん、残念ですが避難する場所はありません」
 緊急地震速報が何回も同じ放送を流しているのを、山田は倒れながら、振動する大地の上で、聞いていた。
  *
 午後五時、遠藤雅子は地元のプールで開催されていたオリンピック強化合宿に参加していた。その全日程が終了し、数人の女子選手達と梅田の青少年記念センターの大ホール・鳳凰の間に到着した。
「今日お集まりいただきました皆様、彼らをしっかりした安心、大きな支援で送り出しましょう。皆様、よくご存じのあれを、目に見える形で貢献いただければ、と存じます」
 寄付を勧誘する言葉を織り交ぜながらの水泳協会理事長の挨拶が、笑いを誘いながらまずますの滑り出しとなった。
 式次第は順調に進み、司会がオリンピック出場候補三十名の名前を紹介する。名前を挙げられたものが壇上に上がる。ひいきの選手が壇上に上るにつれ、そこかしこから大きな力強い拍手が上がった。
「頑張ってー」「いけいけ」「ピーピー」
 拍手と声援が起こる度、選手は手を振り愛敬を振りまいた。やがて、候補者三十名全員が壇上に整列し、全員が正面を向いて深く一礼をした。ひとしきり拍手が大きくなる。突然、会場のすべて照明が点滅を繰り返した。数十回点滅が繰り返された後、完全に照明が消灯し、卓上に飾られていたキャンドルだけが明るく浮かび上がった。
「おい、余興か?」
「壇上が真っ暗だぞ」
 集まった客の中から不安の声が上がる。スタッフと思われる声が、「今、状況を調べておりますので、皆様、その場から動かないようお願いいたします。これは余興ではございません。今しばらく、そのまま、動かずお待ち願います」
 数人のスタッフがポケットライトをジャケットから取り出すと、大ホールのドアから飛び出していった。
 やがて、会場全体が小刻みに震えだし、テーブルの上の食器がカタカタと音を出す。低い音が遠くから聞こえてくるような、地面からするような、何処からか特定できない低い音が聞こえる。
「おい、これは何の音だ」
 窓の近くにいた数人が窓際に寄った。外は満月が煌々と輝いていた。都心のネオンはない。町全体が息を消してしまった。紐のように見えるのは車の明かりである。車のライトだけが生きていた。その街の遥か先からドーという低い音が、聞こえてくるようだった。聞こえると言うより、振動が建物全体を伝わってくるかのようだ。
「何の振動でしょうね」
 そして、突然、建物全体が大きくバウンドした。身体が僅かに上に浮くほどの衝撃が起きた。その衝撃で建物の窓ガラスが一瞬にして飛び散った。風が室内に吹き込んだ。「キャー」「ワー」誰もが思わず叫び声を上げていた。風に吹かれて窓際のカーテンがパタパタと音を立てている。天井も一部落下した。天井の下敷きになった人が、うめき声を上げていた。薄くらい室内に、窓からの月明かりが照らしていた。外の様子を見ようとして、何人かが窓際に寄って外を眺めた。月明かりに照らされて、遠くの方に黒い大きな水平線のような山が、ほのかに見えた。山鳴りのカーブを描いた綺麗な、巨大な塀のように見える。
「何だ、あの大きな山は?」
「あんな所に山なんてないわ、あっちは東京湾よ」
「まさか、津波か?」
「馬鹿言うな、ここは駒沢で東京の中心だぞ。そんなものがあんな近くに、見える訳がない」
 遠くに、東京タワーが月明かりに照らされて、浮かび上がっていた。それがいとも簡単に、黒い塊に飲み込まれ、東京タワーが傾くのが、遠目にも分かった。高層ビルのシルエットが一つ二つ、少しずつ、黒い壁に飲まれていく。
「そんな、あれが津波だとしたら、東京タワーより遥かに高い津波と言うことになる。考えられない大きさだぞ」
「でも、あなた、今、見えているでしょ?」
 窓際にいた人々は、恐怖におののいた。そして、誰もがこのような未曾有の津波に逃げる場所は、富士山しかないことを直感した。
 しかし、富士山までどう逃げる? 逃げる時間がない。いや、あの壁があとどのくらいの時間でここまで来るのか、全く見当がつかなかった。しかし、あれが途中で消えると言うことは考えられない。四角いシルエットを飲み込みながら、壁が近づいてくるのは確実に分かった。誰の目にも、数秒後に来るような勢いだった。
 会場に居合わせた人々の、それは絶望、諦め、恐怖、共通した意識だった。恐怖が支配し、誰もが危険を承知するが、どうすることもできず、途方に暮れ、誰も動く事が出来ない。誰かが叫んだ。
「祈ろう。神におすがりするのだ」
   *
 周囲は海。熱い太陽が照っている。この島の上にいるのは、雅子一人だけである。測候所に事務用品が残されていたので、雅子はあの災害の日から何日経っているかをノートに記録していた。ノートの表紙にはマジックで栞と書いた。大好きな母の名前である。今日は災害のあった夜から太陽が五回出た。あの天変地異は何が原因だったか、全く分からない。何故、あのような大きな津波が押し寄せてきたのか。測候所に置いてあるラジオは、スイッチを入れても何処のラジオ局も入らなかった。この場所以外の状況は、何一つ分からなかった。世界は津波で破壊されてしまったのだろうか。何故、こんなに海の水位が上がったのか。北極の氷が溶けてしまったのか。気温が上がっていることは間違いない。富士山頂の上だというのに服を着なくてもいられる。雅子はパンティー、ブラジャーだけしか付けていない。全裸でも暑いくらいの気温に上がっている。替えの下着もないが、服を身につけていないことは何とも落ち着かないが、誰にも見られないという安心感もある。そう、ここには雅子以外誰もいない。
「誰か返事をしてぇ−、ねえ、聞いてる?」
 大海原に向かって叫ぶ。既にあれから六日目である。周囲たったの一キロメートルの海岸に漂着物が流れてくる。潮流のラインが違うのかも知れない。時々有益なものが流れ着くこともある。死体も流れ着くこともあった。合唱し、そっと、遺体を押して、さらに沖へ流した。使えそうなものは拾って生活道具に加えたいが、流れ着くものは役に立たないものばかりだった。
 こんな状況でも、食べる物には困らなかった。周囲の海には魚が泳いでいた。測候所にあったモップの棒、千枚通しを使って、魚を捕るための銛を作った。海に潜れば魚の宝庫とはいかなかったが、何とか、この銛を片手に一潜りすれば、三十pほどの長さの魚を捕獲できた。
 雅子は、焼き魚を食べながら、目をつぶると、最後の晩餐を思い出した。
 あの日の水泳協会主催の祝賀会場には、雅子の両親も来てくれた。二人の顔と声を聞いたのは、あれが最後だった。いや、すべての人の声と顔を見た最後だった。すべてを失った今、これからどう生きていけばいいのか、何故、自分は生きながらえてしまったのか、思い出すと胸が苦しくて動悸が速くなった。これからこの訳の分からない世界の中にある、このちっぽけな島の上で、たった一人で生きていくなんて地獄のようだ。両親の顔や声を思い出すことは励みになったが、その両親とはもう会えることはない、と思うと胸が苦しい。
 思い起こすと、一日以上、泳いでここへ辿り着いたことが全く不思議である。あの大津波に飲み込まれてしまってから、ほとんど海中を泳いでいた。全く海面を見なかった。それなのに、不思議に呼吸をすることができた。雅子は脇腹にできた傷口を右手で探ってみた。泳いでいる最中、漂流物にぶつかってできた切り傷でないかとも思っていた。しかし、痛みは丸で無かった。自分で目視することができない脇腹にある傷が、どんな状態なのか把握できていない。ふくよかなバストを内側に押してみるが、乳房が邪魔になって良く見えないのだ。
 突然、雅子は測候所の洗面所に急いで駆けた。洗面所の鏡の前に立つと、鏡の隅を止めているビスを丁寧に鏡から外した。幸い、洗面所が男女用に一個ずつあったので外した鏡を持って男性用洗面所に入った。鏡を脇腹に当て凝視する。呼吸を吸う度に傷口が大きく開くことが分かった。鏡を持つ手も鏡を掴みにくくなっていた。指の間にできた水かきが厚さを増してきたからだ。鏡を見る度に、自分の身体が徐々に変わっているように感じた。目付きが何となくおかしいし、瞼が閉じにくくなってきた。自分の変わり果てていく姿に悲しさがこみ上げてきた。あれほど泣いて過ごした日が嘘のように、今は涙が出てこない。体が少しずつ変化しているような気がする。
「どなたかいませんか?」
 雅子は自分の耳を疑った。人の声である。助かった人がいた。救助船が来たのか。雅子は洗面所から外に飛び出していった。測候所の通用口のドアを開けると、丸裸の男が立っていた。いや、黒色のパンツをはいていた。何処かで見た顔だった。雅子は自分が下着姿で立っていることに気が付いた。何か、身に付けないと、そう思った時、相手の男が雅子を見つけた。
「あ、助かったんですね。良かった」
 二十台くらいの青年は、以前あったことのある大川真一であった。雅子は人がいたことのうれしさ、知ってる顔を見た、といううれしさで、自分が下着姿ということを忘れた。
「あなたも助かったんですね?」
 雅子は大川に声を返すと、大川は微笑みながら雅子を見た。白い歯をした褐色の肌が太陽に照らされて輝いていた。大川は雅子を見つめながら驚いていた。
「すみません、僕、水着を付けていて。たまたま、泳いでいたときにあの災害にあったもので。あの災害にあったら泳ぐために服を脱ぎ捨てるしかありませんものね」
 雅子は何の話をしているのか分からなかったが、暫くして、衣服を身に付けていないことに思い至った。恥ずかしさで顔が赤くなるのが分かった。急いで、片手で二つの乳房を隠し、左手を腹部に当てて隠した。その様子を見て、大川は首を左右に振った。そして、ゆっくり近づいて来た。
「大変でしたね。よく頑張りましたね」
 大川はそういうと、雅子の前まで歩いて来て、立ち止まった。それを待っていたように雅子は口を開いた。
「わたし、ずっとこの数日間一人でしゃべっていました。誰に伝えるでもなく、しゃべっていました」
 雅子は悲しくないのに目から涙がこぼれてきた。大川は雅子の身体をそっと抱きしめた。以前、スポーツジムで感じた同じ暖かさを感じた。雅子も大川の背中に手を当てると、あの水泳で体験した輝く光を思い出すことができた。
「あ、あの時の感覚だわ。あれは大川さんだったんですね」
 雅子が口を開くと、大川はゆっくり話した。
「僕はあの時また貴方と泳げるような気がしていました」
 二人はしばらく肌から感じる暖かさをかみしめていた。生きているという感覚を感じることができた。
  *
 大川は遠く広がる海を見つめながら隣に並ぶ雅子に言った。
「遠藤さん、僕たちは余りにも大きなものを失いました。でも、見てください」
 雅子は大川の言う何を見たらいいのか分からなかった。雅子は大きく広がり何処までも続く海を見た。
「大きなものを失いましたが、それと同じくらい大きなものを得ました」
「一体何のことでしょう。私にはよく……」
 大川は両手を広げた。まるで何かを授かるようにゆっくりした動きだった。
「この何処までも広がる海です。これが僕たちの新しい世界になるのです」
「どういう意味でしょう?」
「僕たちは生き残ったのではありません。自らこの道を選んだのです。この道は僕らの生まれる前から、この環境を予測して、遺伝子として進化を続けていたのだ、と思います。その証拠が、こうして僕らはここで生きています。その証拠がこの姿です」
 大川は広げていた腕を自らの胸に近づけると、手のひらを広げた。雅子は大川の手のひらを見つめた。大川もまた指の間に皮膚ができていた。雅子はそれを見て、自分の手のひらを大川の隣に広げた。
「どうです。今日のこの日、この地球が誕生した時から、延々と積み重ねてきたのだと思います。ぼくらは進化を遂げたのではないでしょうか」
 そのとき、海のほうから声が聞こえてきた。
「雅子、ねえ、聞こえる? あたし達、ここ、生きてるのよ」
 雅子は耳を疑った。波間の間から見える人の顔ははっきり見えないが、聞き覚えのある声であった。
「あ、お母さん。え、助かったの」
 そして、両手を上げて手を振った。彼女は体をジャンプさせながら手を振った。相手も気づいて海の中から手を上げて振っている。それは一人だけではなかった。
「遠藤さん、見えますか? みんな、手を振っています。さあ、我々も新しい世界に進みましょう」
 大川に差し出された手に、雅子は自然に手を重ねてから強く握った。大川も強く握り返してきた。
「そうですね。そう思います。得たもののほうが大きいという気がしてきました。大川さんって、打たれ強いんですね」
 大川は白い歯を見せて笑った。
「僕はプロですから……さあ、行きましょうか?」
  了



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