幻想の中で

 

近藤啓介は、いつものように部屋で寝ていると、電話で事件現場へ直行するように連絡を受けた。白の真新しいワイシャツをすばやく着込んだ。近藤は45歳になる。警官になって27年。7年前、交番勤務から警視庁捜査2課の刑事になった。勤務はさらに不規則になり、週休2日制などないようなものだった。

高校を卒業し、警察学校に入校し、卒業を機に、親元から独立しアパートを借りた。最初は6畳一間。いくつかアパートを転々とし、今の住吉町に落ち着いた。40過ぎの年になり、独り身を心配して上司が見合いを幾つか持ちかけてきた。見合いをしたが、どの女性も愛せなかった。初恋の人とつい比較してしまった。近藤は40を過ぎたとき、一羽のセキセイインコをペットショップで買ってきた。名前は雅子と付けた。初恋の人と同じ名前だった。

 籠の戸を開けると、雅子は籠から飛び出し、狭い6畳間を3周ほど旋回し、近藤の肩の上に止まった。肩から首へ近づいてくるのが重みで分かる。

「雅子、行ってくるよ。キスをしておくれ」

 近藤は首を曲げて肩のインコに口を近づける。インコが近藤の唇をつついた。近藤はにっこり笑うと、インコを籠に戻し、現場へ向かうのが常だった。

  *

まだ人通りの少ない道路で、運良く来たタクシーに乗り込んだ。

「諏訪神社までお願いします」

それだけ運転手へ告げた。諏訪神社は近藤のアパートから20分ほどの場所にあった。

「あらら、パトカーだらけですわ。なんか事件でもあったんですかねえ」

 黙っていた運転手が突然つぶやいた。

「このへんでいいです」

「ひょっとしてお客さん警察の方ですか」

「まあ、そんなもんだよ」

タクシーから近藤が降り立つと、青々とした樹齢五百年といわれる諏訪神社の大木が、遠くからでも目に入った。辺りは住宅街で高層ビルが建っていない。ひときわ巨木に見えた。近藤は小走りに急ぐと、ズポンのポケットから出した白手袋をはめた。すでに、所轄の警察官が交通規制をしていた。

諏訪署刑事課の数人が目に付いた。

「ご苦労様です」

所轄の誰もが近藤に挨拶してくる。捜査課の後輩、佐々木が近藤に近づいてきた。

「害者は中沢良江、年齢30歳女……」

しゃべってくる佐々木と並びながら歩いた。近藤は遺体の側に歩み寄った。女が樹齢500年の大木にただ寄りかかって居眠りをしているように見えた。長い髪が前に垂れ、顔を隠していた。その女の首からロープが巻き付いていた。「遺書がありました。こりゃ、自殺です。それに殺しをやっています」

佐々木の言葉に近藤は驚いた。佐々木が差し出した遺書に近藤は目を注いだ。

  *     

今まで彼とは仲良くやってきました。ところが、魚釣りから帰るなり、突然、彼は私のことを気違いよばわりするのです。そして突然出ていくと言い出したのです。私は訳が分からず、引き留めようとしました。それなのに私を押し倒し、気違い女と叫ぶのです。私は本当に何がどうなったのか分かりませんでした。

気が付くと、彼は血まみれになって倒れていました。彼がいなくなった今、どうしたらよいか分かりません。彼の遺体の前に何時間座っていたことでしょう。もうどうしたらよいのか本当に分からなくなってしまいました。

 *

女の持っていた運転免許証の住所にすでに別部隊が急行していた。解決は時間の問題だった。

 *

殺された男の身元は所持品から東京都台東区堤町に住む田中健治三十歳。電話番号を照会した。電話すると、電話口には妻が出た。近藤は美恵に簡単に状況を説明した。田中美恵は諏訪署に駆けつけてきた。

「あの人に愛人がいたなんて」

それだけ言うと、夫の遺体の前で美恵は泣き崩れた。細表で鼻筋が通った奇麗な顔だちがクシャクシャになった。

翌日、近藤は良江の自宅を訪れた。二人で生活していたわりに、家の中は整然として家具は少なかった。ガランとした部屋にある書架が目を引いた。近藤は一冊づつ本を手に取っていった。本と並んでアルバムがあった。小学校、中学校、高校の卒業アルバムだった。それからのアルバムは何処にも見あたらなかった。写真を嫌う人間というものはいるが、一枚もないというのも不思議だった。健治と並んだ写真すらなかった。

押入からは健治宛のラブレターがダンボール箱の中から大量に見つかった。書いたのに出さなかったのである。これも不可解である。

隣に住む遠藤という主婦に聞いた。

「とても愛想のよい子で、大きな声で笑う声がうちまで聞こえてきましたよ。こんなことになるなんて。良江さんって、愛人だったんですって? でも、一度も旦那にあったことありませんでしたわ… 」

不思議なことに近所でも聞き込みをしたが、健治を見た者はいなかった。

近藤は良江の母校のかつての担任に話を聞いた。小学校の担任は、

「おとなしい子でしたね。友達と遊ばないで本をよく読んでいました」      

中学校の担任も同じ様なことを言う。会うなり、

「刑事さん、新聞で見ましたが、中沢さんと田中君は一緒に暮らしていたそうですね。驚きました。

田中君はとても活発な子で、クラスの人気者でしたね。中沢さんも田中君を好きだったようですね。クラス懇談会で、突然、私の初恋は田中くんですって、告白したことがありました。みんな、釣り合いが取れないのは分かっていたから笑って聞き流していましたが、良江さんはかなり思い詰めていたようです。私も心配しましたが、思いはどうすることもできませんでしたねえ」

高校の担任はよく良江のことを覚えていた。どうして覚えているのか不思議だったが、訳があった。      

「それが、一年生のとき、彼女のご両親が自動車事故を起こし彼女一人になってしまいましてね。親戚が一人もいなかったんです。親御さんもそれを不憫に思ってかなりの額の保険に入っていたようです。保険金が入ったので高校三年間はそれで卒業できたんですが、大学進学は無理だったようですねえ。何処にも行きませんでした。噂によると、初恋の人と同じ大学に行きたかったらしい、などと聞きましたが、どうか分かりません。だから、進路相談で勉強をしないなら何かして働かないといけない、と忠告しました。あまり私にも相談に来ることはありませんでした」

 近藤は、中学の同級生にも当たってみた。クラス委員をやっていた青山という男にあった。

「そう、田中健治と一緒に暮らしていたそうですが、驚きました。彼はテニスで国体まで行きまして、学校中の人気者で、いつも女の子に囲まれていましたので、ちょっと中沢くんと愛人関係にあったなんて以外でしたね…」

近藤は良江のことを調べれば調べるほど、良江と健治の関係に謎が深まって行くのを感じた。二人の接点はたくさんあるが、現実の生活での接点が見い出せなかった。健治はどうやって誰にも見られずに良江のアパートへ行ったのだろうか。健治の妻、美恵の話によれば家庭的な人で不倫をしていたとは思えないと言う。釣が好きで、殺された日も穴場を教えてもらったと喜び勇んで一人で出かけたそうだ。

近藤は今一つこの事件が分からなかった。しかし、良江が健治を殺しての自殺という結末で、捜査本部は解散した。近藤は次の事件の処理に忙殺されていった。事実、健治を殺害した良江が死んでしまった今、どうなることでもなかったが、良江に同じ臭いを感じたのである。自分と同じ。そのことが気になった。

 *

良江の事件から二か月が過ぎたころ、良江の精神科医という男が近藤の前に現われた。

「良江さんは彼女が高校生のときからの患者でして。最近通院してこないので連絡しようとしたのですがなかなか連絡が取れず、今日自宅を訪問して事件を知りました。あのころ、彼女は両親の交通事故が自分のせいだと思い込んでいました。朝、父親と口げんかしてそれきり帰ってこなかったのが原因ではないかと思います。そのとき、死んでしまえばいい、と思ったらしいです。それが現実に起きてしまった。自分のせいだと思いこんだんです。彼女の中で、幻想と現実が交錯し、混乱を起こさせました。元々夢を見ることが多かったようですが、この事故をきっかけに発病したようです。極度に思い込みが激しく、一人の男性が彼女の頭を支配し続けていました」

 近藤は良江の行動が理解できるような気がした。

「彼女の幻想の中へ現実が入り込んだのです。その幻想の中心は、田中さんだった。今までうまく行っていた幻想がうまく行かなくなったのは、幻想の中に現実の田中さんが現れたことです。彼女の戸惑いは大きかったに違いありません。私は釣にやって来た田中さんと彼女が偶然にも会ってしまったことを残念に思っています。彼女は恋焦がれた田中さんと結婚し生活しているという幻想を生きがいにして生きていたのですよ…」

  *

自宅に戻った近藤は、街のネオンを見ながら良江のいじらしいまでの乙女心に涙を流した。良江は健治と暮らすことを夢に抱き、そして、現実という夢の中で架空の健治と生活していたのである。

「雅子、僕らは違うよなあ」

 近藤は手に握りしめたインコにほおずりした。

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