石仏(せきぶつ)

 

 柴田幸夫はとても誠実で仕事熱心な男だった。実績が買われ、在来線の車掌業務から新幹線の車掌に転属となった。初めての新幹線乗務である。彼はいつものように仕事をこなすべく運転席の脇に立った。

「慌てない。慌てない」

幸夫は心の中で反芻した。緊張したときはいつもこう言うと心が静まった。運転手の田所平八郎は幸夫より一回り年上だった。幸夫にとって、運転業務はあこがれだった。特に新幹線の運転席は特別だった。

「はやく運転してみたいなあ」

 田所の後ろ姿を眺めながら思った。正面を見ていた田所が振り返った。

「柴田くん、発車しますよ」

   *

午後11時30分、幸夫の乗る新幹線ひかり383号は博多駅のホームを静かに発車した。幸夫は肩に提げた携帯端末を覗く。事前に指定席の販売状態のデータが送られて来ている。

博多から終着の東京まで5時間53分の旅である。東京には朝方5時23分の到着だ。空席が目に付く。いつの間にか雨がしとしと降り始めていた。運転席の窓ガラスにまばらに雨粒が当たっていた。

「東京に着いたら晴れてるさ」

 田所が制帽を正した。最高時速270キロ。線路の上を走っているから運転は楽だと思われがちであるが、そんなことはない。行く手を阻むがごとく線路上に障害物があったりする。土砂崩れ、老木の倒壊、はたまた自殺者が寝そべっていることだってある。線路の上に石を置く奴だっている。楽なようで気は抜けない。運転手はそれらの危険を素早く目視で確認しなければならない。

 幸夫はコックピットの扉のロックをはずし、ブリッジに出た。社内改札の他に巡回監視もしなければならない。特に深夜は気を付かう。制帽を改めて正すと、大きく息を吸った。公共の乗り物とはいえ、色々な利用者が乗り合わせている。車掌はその大勢の客を無事目的地へ運ぶため、車内の安全を確認し快適な旅が送れるように注意していく。乗客の中に不穏な動きをする者がいないか監視しなければならない。トレインジャックだって起きる可能性はある。

 深夜の時間帯は一人客が多い。物思いに耽るように車窓から流れる灯りをぼんやり眺めている。車輪とレールの摩擦音だけが客車に響く。先頭車両から5両は指定席である。自動ドアの前に立つ。すーと言う音とともに自動ドアが開く。まもなく奈良にさしかかるころである。

合唱のようにぼそぼそささやく声が聞こえてきた。

「……オコシテクレ、オコシテクレ、オコシテクレ」

この車両は指定席であるが、席の発券はしていない。つまり、人はいない客車のはずである。シートを一通り眺めるが、頭が見えない。

オコシテクレだって、寝ているなら話せないはずだ。おかしな話だ。眠ったふりをする利用者はいても、これだけはっきり声を出しているのだから、どこかに起きて座っているはずである。幸夫は一歩ずつ足を運んだ。中通路を歩きながら、右左を確認していく。車両のほぼ中央にさしかかった。声がさらに大きくなる。間違いない、次のシートだ。幸夫は制帽のつばを右手でつかみ、次のシートを前屈みになって覗いた。声がぱたりととぎれた。

「失礼します」

 そう言ってはっとした。席の足下に石仏が転がっていた。どう見ても石仏である。誰かが置いていったのだろうか。

「……オコシテクレ、オコシテクレ」

そのとき、また次のシートからも声が聞こえてきた。幸夫は慌てて声のするシートを覗いた。やはり石仏だ。念のために次のシートも見た。同じだった。全部で11体。

「誰がこんなものを持ち込んだのだろう」

 幸夫は倒れている石仏を起こした。安らかに目をつむり座禅を組んでいた。幸夫は合唱し石仏を拝んだ。そして石仏を抱きかかえると、シートに座らせた。思いのほか重かった。何とか11体全部をシートに座らせると、ほっとして深い息を吐いた。これだけ重いんだ。一人では運べないはずだ。参るなあ。手荷物の範囲を超える。結局、車両の端まで来たが、持ち主は見あたらない。

「仕方ない。次の車両に行くか」

 このまま持ち主が名乗り出ないなら、東京に着いたら拾得物でおろそう、と考えた。幸夫が巡視を済ませて石仏のある車両へ戻ってきた。座らせたはずの石仏11体全部がことごとく消えていた。

「はあ? 」

 あのように重い石仏を簡単に移せる訳はない。

「夢でも見ていたのか。そうだよな、あんな物を新幹線で運ぶなんて、聞いたことない」

 ひかり383号は定時に東京に到着予定である。雨は上がり朝日が昇りつつあった。ひかりは都心に入りスピードを減速した。

  *

「柴田くん、どうだった? 初めての新幹線業務は」

「はあ、やはり緊張しました」

「そうか、お疲れ様。ゆっくり休むといいよ。ところで、何もなかったかね」

「特に…… 異常はありませんでしたが」

「そうか。何もなかったなら別にいい」

 田所はそれきり話題を変えた。幸夫は石仏の話をしなかったが、気になった。

  *

幸夫が新幹線の業務になってから、半月後、また、例のひかり383号の搭乗が回ってきた。運転手は同じ田所平八郎だった。

「柴田くん、久しぶりだな。また、よろしく頼むよ」

「田所さん、この前気になることを言ってましたね」

「はて、何かな? 」

「あの日、何もなかったか? って、聞かれたでしょ」

「ああ、別に意味はないよ。きみが初めての搭乗だったから聞いただけだけど。何かあったのかい」

「それが」

 田所の席の隣にいつの間にか、あのときと同じ石仏が座っていた。

「田所さん、それは? 」

「ああ、見てのとおりだよ」

「なんでそんな物を持ち込んでいるのですか」

「何言ってるんだ。きみだって持ち込んでるではないか」

 田所が指さす自分の足下を見ると、石仏が立っていた。

「こ、これはいったい何なのでしょう」

「幸福の石仏さ」

「はあ? 」

「きみは倒れている石仏を起こしてあげたろ? 」

「はい…… 」

「石仏はお礼にきみが幸福になるまで、ずっときみに取り憑いてくれる」

「と言うことは、僕はやはり不幸せなのでしょうか。では、あのとき起こさなかったら? 」

「さあね…… 」

「そんなことって…… 」

「世の中には分からないことが多いってことさ」

 田所はそう言って笑うと横にいる石仏のまるい頭をなでた。それをまねて幸夫も子どものような石仏の頭をなでてあげた。ふふふ、石仏は声を出して笑った。幸夫もその声を聞いて笑った。

「ずっと一緒だよ」

 そんなことを言ったような気がした。

 幸夫が社内改札をしている間中、ずっと石仏は幸夫のジャケットの裾をつかみながら後を着いてきた。

「車掌さん、幸福の石仏に取り憑かれてよかったですねえ」

 乗客が誰彼となく声を掛けてくる。幸夫はなんだかとてもうれしくなってきた。東京に着いたら、石仏に朝ご飯を食べさせてあげようと思った。

「はて、石仏がご飯を食べるのだろうか? 」

 そんな詰まらないことを考えただけでもおかしかった。こんなことで喜ぶなんて、僕はきっと幸福なんだな。

 

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