π(パイ)の収束

 N博士はπが割り切れるのではないか、と言う仮説を立てた。

「なあ、小林くん、きみもそう思わんかね」

「僕の記憶するところ、スーパーコンピュータを128台並列接続して出した2,061億桁までの値が最高記録ですね」

「ほおう、何でそこで止めてしまったのだろうねえ。あと10秒やっていたら最終結果が出たかもしれないのになあ」

「まあパソコン128台を維持するのもお金もかかりますし、仮に割り切れたとしても余り影響が出ないですから。どちらかと言うと今ではパソコンの性能を調べるのに使われているようですね」

「まったく嘆かわしいことだ。先陣の数学者がπを出すための公式を作った。だれもが収束を求めた。結局、数値の収束を得られずπとしたのだ。長くて果てしない数学のドラマだよ、小林くん。わたしはこのドラマに終止符を打ってみたくなった。協力してくれるかな」

「はい、微力ではありますが」

 N博士の考えた公式によれば、必ずπは収束するという結論が出ていた。それを証明するのである。こうして、N博士と小林助手のπの収束実証が始まった。

N博士はデスクトップパソコンを1台買ってきて、研究室の机の上に置いた。

「128台にはかなわないが、1台で気長にやるさ」

 N博士のπ収束実証の輝かしい第1歩が踏み出されることになった。

「博士、このパソコンが壊れたらどうしますか」

 小林助手の一言でN博士は、予備としてのパソコンを新たに1台追加した。壊れる前兆である電圧の不安定を感知する装置を付け、電圧の微少な低下を感知し、予備のパソコンが起動し、立ち上がった時点で今まで算出されていた数値を読み込み、計算を継続していくのである。このように数珠繋ぎにすれば、機器の故障に対応できる。そして、やがて割り切れる数字が出る。17インチ画面には数値が高速で流れ、定期的な点滅をしている。まるで光の流れだった。収束すればこの流れが止まり、メッセージが現れる。「収束されました」と。N博士はこの装置のできにとても満足だった。

   *

 48年が経過した。パソコンも年一回ずつ取り替えた。今、N博士は48台目のパソコンを設置し、画面に流れる光の流れを眼で追っていた。それにしても、すっかり体は弱くなったな、とN博士はぼやいた。パソコンは進歩し、手にのる小型サイズになった。画面も同じ17インチだが、消費電力はわずか1ミリワットである。バックアップ電源も小さなボタン電池ですむ。配線も無線になった。処理装置CPUも高速処理が可能だ。何もかもが進歩した。お陰でπを算出する時間が短縮されたはずである。N博士の計算によれば収束はもう起きてもいいはずだった。計算上13日間遅れている。

N博士は研究室のカレンダーを見た。やはり収束しないのだろうか。そう思うと、よろよろと歩いて椅子に腰掛けた。年齢は93歳になっていた。片腕だった小林助手は12年前に老衰で他界した。それから一人でこの長い研究を続けて来た。

相変わらず17インチの画面には光の線が明滅していた。πが割り切れ、計算が止まるけはいはない。N博士はこの研究に一生を駆けたようなものだった。

「私は無駄な研究をしてきたのだろうか。いや、いかん、いかん。あと10秒後に計算が止まるということも考えられる」

 そのとき、17インチ画面の明滅が弱まった。あっ、N博士は、低い声を上げた。次の瞬間、博士は右手で胸を強く押さえつけた。うめき声を上げて椅子から転がり落ちて、床に前屈みになって倒れ込んだ。

「おおお……」

 薄れてゆく意識の中でN博士はなおも画面を見つめた。痛みが前進を走った。

「……もう少しもってくれ…… 」

博士の視界に映る全ての画像がぼやけた。それと同時に画面の明滅も見えなくなった。やがて、N博士の心臓が止まった。彼のしっかり見開かれた目は、画面をいつまでも見つめていた。満足げな自信に満ちた数学者の眼で。

 

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