幸福

 

 

 人は幸福になりたい。幸福ならさらに幸福に。

 

小川久子は突然の騒音で目を覚ました。

「あー、こんな朝早くから」

 蒲団から顔を出すと、すでに太陽は昇り、東に面した窓のカーテンの隙間から朝日が入って来た。

「うーん」

 少し頭痛のする頭を右手で押さえた。昨夜は女子大時代の親友恵美と会い、金曜日の夜と言うこともあって、ついついワインを飲み過ぎた。

「あー、がんがんするわ」

 頭を抱えながらそう言うと、また、蒲団をかぶった。またガガガガーという音が聞こえてくる。耳を凝らすと、窓の外から聞こえてくる。ここは29階である。外の騒音が余程大きくないと聞こえてくるはずはない。

「何よ。土曜日に何処で工事してるのよ」

 クリーム地のカーテンを引き、窓ガラスを開ける。爽やかな海の香りのする風が吹き込んできた。パタパタするカーテンを押さえながら見下ろした。

 隣は公園のはずなのに、いつの間にか植えられていた木々がなくなり、茶色の土が見えていた。おもちゃのような数台のトラックやブルドーザーがゆっくり動いている。大きな穴が四角い敷地の中央をえぐったように掘られていた。

「嘘でしょ? 隣にビルでも建てるつもりなの? 」

 それに昨夜は酔っていたとはいえ、タクシーで帰宅したときは公園には確かに木々が生い茂っていた。工事をしていれば分かった。

「もう、管理人さんに文句言ってこなくちゃ」

 久子はパジャマを脱ぐと、白のジーンズを掴んだ。

 

 ☆

 

 2年前、旅行好きの久子が、29回目の海外旅行で20代最後の記念にスペイン旅行したときのことだ。恵美が30代の運勢を見てもらいたいと言うので一軒の占い師の店に立ち寄った。付き合いで入った久子もついでに見てもらった。占い師は水晶玉を見詰めながら久子にまことしやかに言った。

「この旅行から故郷に戻ったら、今から1年以内に必ず29階の部屋に住みなさい。そうすれば世界で1番幸せになれるよ」

 ただそれだけ。何とも変な占いだった。大体、日本にそんな高層マンションがそうそうあるものではない。久子は半分笑いながら見料を支払った。

 日本に戻って不動産屋に高層マンションの分譲を一応調べてもらったが、探しておくと言うことだった。しかし、それきり何の連絡もない。6か月が過ぎた昼休み、職場で上司の田村が隣で新聞を見ながら言った。

「へえ、30階建てのマンションだってさ、さぞや、上は揺れるだろうなあ」

「その新聞に載っているのですか? 」

「ああ、ここ」

 久子は田村の横に立つと、新聞を覗き込んだ。分譲開始は来月。モデルルームは隣のR駅だ。すでに工事はほとんど完了しているが、入居開始は7ヶ月後である。久子は退社後、早速モデルルームの展示会場へ足を運んでみたが、金額が高すぎた。後のローンも月15万。払えないことはないが、一人身では厳しい。どうしたものかと考えていた。5ヶ月あまりが過ぎた。占いなど信じてはいなかったが、実際にあるわけがないと思っていた29階の部屋が出現したことによって、久子は占い師の言葉をいつの間にか信じるようになっていた。

「29階に住めば、私は世界で1番幸せになれるわ」

 一体どのくらい売れたのか、気になった久子は展示会場へ再び訪れた。ドアに入るなり、カウンターに座る黒のスーツ姿の男が、声を掛けて来た。

「確か小川様ですよね」

 1回訪れただけなのに、店員は久子のことを覚えていた。

「いえ、ちょっと…… どんな部屋が残っているのかなと思いまして」

「今残っているのはこの物件だけです」

 店員がカウンターに置いたファイルには、29階の部屋の間取りが載っていた。何と言う偶然だろうか。久子に買って欲しいと言わんばかりである。カレンダーを確認し、久子は直ぐに契約した。占い師の予言からちょうどまる1年だった。

「間に合ったわ」

 

 1ヶ月後、久子は29階の部屋に越した。大方の荷物を片付け終えると、寝室のベッドに腰掛けた。

「ついに買っちゃったのね。幸せの部屋だわ」

立ち上がり窓際に近寄る。窓ガラスを開くと、冷たい海風が入り込んできた。隣の公園から遥か先に東京湾が一望できる。ときどき、かもめが滑空し、船の警笛が聞こえる。幸せの予感を感じる久子だった。

 

 

 久子は管理人である押田の1階の室へ急いだ。インターフォンの呼び出しボタンを押すと、すぐに押田が顔を出した。

「はーい、何でしょうか」

「押田さん、隣にビルが建築されているのご存知ですよね」

「はあ? 隣は公園ですから」

「何言ってるの。直ぐに来てください」

 久子は押田をせかし、エントランスを抜け南側の歩道へ出た。後から来る押田をいらいらしながら待った。押田が久子の前まで来ると、右手で指し示した。

「ほら…… 」

 右手を上げたまま久子は我が目を疑った。自分の指し示す指の向こうには木々が生い茂った公園のままである。

「何かあるのですか? 」

 押田は久子の指の先を見ながら、目を凝らしてその先の公園を見ている。

「あたし、夢でも見たのかしら」

 今度久子は西側のほうを見た。久子の部屋は東に面しているから西側にあるわけがないのは分かっている。やはり何もなかった。

 久子は押田に手を煩わせたことを詫びた。

「ふふ、とにかくあたしの勘違いでよかったわ」

 久子は自室に戻り、朝食を食べる支度を始めた。トースターに食パンを入れると、スイッチを押し、ダイニングテーブルの前に腰掛けた。

 ダダダダダーという音がまた聞こえてきた。食堂から寝室に駆けて入ると、窓ガラスに頬を付け見下ろした。隣のビルが着々と造られているのが見える。勘違いではなかった。久子は管理人室へ駆けて行き、押田を自分の部屋に連れてきた。寝室の窓際に促すと、押田は躊躇した。

「あのう、私も男な者でまずいなあ」

「構いませんから」

 押田の手を掴み、寝室に連れ込んだ。

「あれです」

「はあ? 」

 押田は外を眺めて、久子を見て言った。

「やっぱりここの景色は最高ですねえ」

「あの工事が見えないのですか? 」

「小川さん、私、テレビの続きがあるんで失礼しますよ。それに独身女性の部屋に長くいるとまずいから、これから家内を寄越しますから」

 押田の妻が10分くらい経ってやって来た。やはり、眺望を見て喜んで帰っていった。この工事は久子にしか見えないようだった。工事は順調に進んでいるようで、養生シートで包まれたビルは高さを増していった。毎朝久子はそのビルの完成を楽しみにするようになった。

 数ヶ月が経ったころ、隣の敷地から工事関係者のトラックがいなくなった。

「あら、完成かしら? 」

 数日後、久子の家に1通の手紙が届いた。中を見ると、落成式の招待状だった。印刷されているところを見ると、何人もの人が招待されているのだろう。式は明日だった。

 翌朝、久子が窓から覗くと、なんとこのビルと同じ形のビルができていた。形は同じだったが、すべてが透き通っていた。まるでガラスで作られているように透き通ったビルだ。光り輝いた屋上に人影が見えた。黒尽くしの布を身にまとっている。久子のほうを見て笑ったように見えた。

「ここへ来れば世界で一番幸せな人だよ、君は」

「ええ? そうなの? いくわ」

 そう答えると、久子は透き通ったビルにいた。家具も何から何までもが透き通っていた。西の窓になるのか。久子の見える部屋は昔いた世界の窓だ。四角の窓から誰かがこちらを見ていた。押田夫妻と警察官が下を覗いている。

「まさか飛び降りるなんて思ってもいませんでした」

 そんな話声が聞こえた気がした。

「押田さーん、あたしはここよー」

 

 それから久子はこの世界を見て回った。すべてが透明だった。ガラスだと思っていた部屋はやがて透明と言う色をも消していった。この異様な世界に久子しかいない。だから、なんでも世界一である。

 

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