《 夢路行 〜ゆめじこう〜 》



遠く、祭囃子が聞こえるようになった。
弓道という稽古に身をやつす譲にとっては、和服を着るということは
そう特別なことのようには思えない。
それでも浴衣を着るというのは珍しいことのような気がする。
小谷縮(おじやちぢみ)の麻生地はさらりと肌に心地好い。
帯も慣れてしまえば、柔らかで一般的なへこ帯よりも
かっちりと織られた角帯のほうが結びやすい。

男の浴衣といえば、職結びか貝の口が一般的だが、
袴をつける譲はついついくせで一文字結びにしてしまう。

先輩は、準備はどうかな?

時計は夕刻を示していた。
そこで譲は小考する。

多分、望美のことだから途中で鼻緒ずれになったり、
慣れない下駄で転んだりするかもしれない。
転ぶのはともかく、鼻緒ずれはいくら譲がそばで細心の注意を払っていたところで
ふせげるものでもない。

とりあえず、絆創膏と消毒薬か・・・。
譲は肩を落とした。




祭に行きたいと最初に言い出したのは望美である。
そのときには、まだ浴衣を着る予定は二人ともなかったわけなのだが、
乗り気になったのは望美の母親だ。
どうやらずいぶん以前に、望美のために絹紅梅(きぬこうばい)の浴衣を作っておいたらしい。
絹紅梅と言えば、浴衣生地の中では最高級の代物である。

しかし困ったことに望美という少女、幼なじみでクラスメイトの言うことには
筋金入りのドジっ娘、超弩級(ちようどきゅう)のどんくささ。
それにはどうやら望美の母親までも同意するところ大らしく、
せっかくの高級生地を台無しにされることを恐れるあまり今まで着せられなかったのだ。
第一、親だからとはいえ高校生の娘に始終つきっきりでいるわけにもいかない。

だが、譲が来てくれるとなれば話は別であったようだ。

「譲くんが見てくれるなら安心だわ」
とは、望美の母の言。
「せっかくなのだから二人で浴衣を着て楽しんでらっしゃいな」
とも言ってくれた。


公認の仲。
そう言えば聞こえは良い。
だがしかし、自分は望美のベビーシッターくらいにしか見られていないのではないか・・・とも思う。

まぁ、いいか。

苦笑して譲は家の玄関を出た。


夏の空は、夕刻をすぎても黄昏色に染まることは少ない。
白い空はふいに青から夜色に染まるのだ。



譲は、春日家の呼び鈴の前で一瞬躊躇した。
もしも今、帯を結んでいる真っ最中だとしたら、邪魔になりはしないだろうか。
けれども約束の時間までは、あと5分だ。

呼び鈴を押そうとするのと、玄関の扉が開いたのはほぼ同時だった。

「あっ、譲くん」

現れた望美は、いつも通りの笑顔でありながら譲の知っている姿とはずいぶん違っていた。
何せ、浴衣姿である。
とはいえ、あの異世界ではずっと和服だったのだが、
それでも雰囲気というものは変われば変わるものだ。

玄関扉の向こうで、望美に走るなだの転ぶなだの言う彼女の母親の声が聞こえるが、
そんなことよりも浴衣姿の望美に気を取られた譲は明確に聞き取れない。

「譲くん?」

気付けば、小首をかしげた望美がこちらを見上げていた。


浴衣は透け感のある涼しげな絹紅梅。
これで言うところの「紅梅」とは、別に紅色のことでも梅柄のことでもない。
この生地は、軽くて涼しい絹糸に丈夫な綿糸を混ぜたものである。
すなわち、「交配」転じて「紅梅」というわけだ。


望美の母親の自信作だろう、望美は髪を結い上げていた。
いつもは長い髪に隠れて見ることの出来ないうなじが
鬢(びん)に縁取られてなまめかしい。

「あ、す、すみません・・・」

譲は赤面で、ずれてもいない眼鏡を直す。

「?」

望美は小首をかしげていた。

赤面のわけは、望美そのものか、或いは望美に見惚れてしまった自分に対してか。
いつもとあまりにも違う雰囲気をまといながら、
けれども望美はいつもと少しも変わった様子が無かった。

「ほらほら、譲くん早くー」

望美は譲の手を取って走り出す体勢だ。

「あっ、先輩!」

望美の母親にろくすっぽ挨拶をする暇もない。
けれどもそんな望美を母親は微笑ましげな目で見守っていた。


                 
夕暮れはふいに夜の顔を見せる。
雑踏の中で祭囃子が聞こえる。遠のいては寄せるそれは、波の音のようだ。

しかし雑踏は徐々にその密度を増してゆく。
あるていどの覚悟はしていた。
祭であるのだし、今年はことの他和装ブームとやらで、ここぞとばかりに浴衣を着飾る若者も多い。
祭よりも浴衣を着ることを主目的としているくらいだ。
だから人ごみが相当のものであることは予想していた。

けれども譲の予想は遙かに上回るくらいの人出であった。

「先輩、はぐれないでくださいね」

特に、神社の境内に至るまでの細い道はすごかった。まるで満員電車のようだ。
心配そうな譲に、望美はにこりと笑顔で。

「うん。・・・じゃあ、手、つないでてもいい?」
「!」

一瞬、譲は硬直してしまうが望美はおかまいなしだ。

「ふふっ」

笑って譲の腕にしがみついていた。

「せっ、先輩っっ」

それは、手をつなぐとは言わない。
しかし言葉を発する前に頬に朱が差し血が昇る。
どうしてこういう時、彼女は平然としているのか譲には理解できないまま
心臓ばかりが勤勉に騒ぎ出す。

「??? 譲くん・・・?」

そして望美も、譲の動転振りを理解できずに覗き込む。

「あ・・・その、」

言葉が継げず、歩も止まってしまった。
人の流れは相変わらず、雑然としていながら整然と祭に向かって行く。
望美は譲の腕を掴んだままだった。

と。

「きゃっ」

譲が望美から目を離していたのはほんの一瞬だったのだけれど、
その一瞬で望美は流れに押されてしまった。
相手は背の高い少年たちのグループだった。
彼らにも悪気があったわけではないらしく、「すいません」と一言残して雑踏に消えていった。

「だ、大丈夫ですか? 先輩」

よろけた望美の肩を支えながら譲は我に返る。
転びはしなかったものの少年の肩に頭をしたたかぶつけたらしい、頭をさすっている。

「うん、平気」

言った瞬間。

はらりと。
結い上げていた髪が一気に落ちた。髪をまとめていた2本のかんざしが足元にぽとりと落ちる。

「あ」

おそらくぶつかった衝撃でほどけてしまったのだろう。
さらさらと手触りのよさそうな髪が望美の肩のあたりに流れてくる。

「とりあえず、ここを抜けた方がいいですね」

望美のかんざしを拾いながら譲は言った。
すっかりあたりは夜になっていた。



境内に出ると少しは人波もましになる。
向こうの広場では盆踊りが始まるらしく、人はそちらに流れて行くようだ。
境内の左右は露店で埋め尽くされていて、そこここで笑い声が上がっている。
普段は何もないと言っても過言ではないほどの神社も、祭となればまったく違う装いを魅せる。
まるで晴れの日に着飾る娘のようだ。

ベンチの上に譲と望美はいた。

「すみません、応急なんでこの程度しか出来なくて」

望美の髪を三つ編みにした譲が苦笑した。
髪がほどけたままではさすがに暑かろうということで結おうとしたのだが、
何せ櫛もピンもない。それならばいっそシンプルにまとめたほうがいいだろうと思ったのだ。

長い夜色の髪は柔らかくて滑らかで、なのにどこかひんやりとしていて、
上質の絹製品のようだ。
その髪に触れているだけで譲の気は散漫(そぞろ)に揺れるのに、
指先は何故か正確で冷静だった。

「ありがと、譲くん」

望美は笑顔を向けて立ち上がる。
とにかく祭を楽しみたくてうずうずしているのだろう、いてもたってもいられない様子だ。

譲の手を引いて駆けてゆく。

「あっ、そんなに走ると危ないですよっ、先輩・・・っ」
「大丈ー夫♪」

生まれて初めて訪れる祭でもあるまいに、まるで子供のように無邪気な笑顔だった。


                 
金魚すくいに的当てに大道芸まで見物して、いよいよ夜は更け始めた。
祭のフィナーレはおなじみの打ち上げ花火なわけだけれど、
それにはまだ時間があるらしい。
盆踊りからは少し離れた鳥居の影で、望美は買ったばかりで湯気をたてている
フランクフルトに舌鼓を打っていた。

譲は苦笑する。
行きがけに結った髪は崩れてしまったが、これだけ走り回ったならば
あの時ぶつからなくてもいずれほどけていただろうと思う。
望美よりも先に食べ終えたフランクフルトの芯を玩びながら、
ふと見れば彼女の口の端にケチャップがついている。

「・・・先輩、付いてますよ」

ハンカチで望美の唇を拭いながら思わず微苦笑が漏れる。

「ふえっ?」

口が汚れていることになど、少しも気付いていなかった望美は驚くが、
けれども譲の手と目はとても優しくてされるがままにおとなしくしている。

「仕方ないな、」

まるで子供のような様子に愛おしさがこみ上げて胸が苦しいほどだ。

「その浴衣、汚したら怒られるんでしょう?」
「あ、そうだった」

すっかり忘れていたのか、ぺろりと舌を出した望美はありがとうと言い継ぐ。

「あ、でもね、譲くん」
「?」

首を傾げる暇も、譲にはなかった。

「譲くんもついてるよ、ケチャップ」
「!?」

背伸びをした望美は、譲がしてくれたように譲の唇のケチャップを拭っていた。

ただし、それはハンカチではなく望美の唇だった。



遠く祭囃子が星空に滲んで、花火の音でさえも譲の耳には遠く霞んでいた。



・・・了




* * * * * * * * * * * 


以前紅蛾標本の無常さまに暑中お見舞いとして押し付けた
譲望のへタレ絵が、ムフフ〜vなお話となって帰って参りました♪
現在秋真っ只中ですが、
この甘甘話の前には多少の季節時差はスルー!
献身的なゆずりんが、超マイペースの望美ちゃんに振り回されつつ
幸せそうなトコロが堪らないっっ〜/// ←少し落ち着け
しかもラストで望美ちゃんってば、てばーー!!←だから少し(以下略)
『無常さま宅の望美ちゃんは最強だ!』 と
いつも拝読するたびに思います。
ゼヒ皆様方も無常さま宅にてお確かめ下さいませ。

無常さま、素敵なお話をどうもありがとうございました〜v(ぺこり)

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