鳴弦の音が、煩わしい。


加持祈祷の声が、神経を逆撫でする。


護摩の臭いが、苛立ちを増幅させる。

  
友雅は、うろうろと所在無く渡殿を歩く。   
局の中から絶え間なく聞こえてくる、愛しい人の苦しげな声に   
この邪魔な御簾を跳ね上げて、今直ぐ側に行きたい衝動に駆られていた。
  
だがそれは、周囲の女房も彼女も頑なまでに拒んだ行為。
  
ギリッ!と奥歯を噛締め、握り締めた掌に爪が深く刺さる。   
常に飄々とし、まるで絵巻物の優男の如く艶を含んだ、衆目美麗な左近衛府少将である主の   
ここまで取り乱した様子を、女房をはじめ他の家人も見た事がなかった。
  
一際、甲高く悲痛とも思える悲鳴が響く。




あかね、あかね、あかね、あかね



もう、沢山だ止めてくれっ!



  
出産は大量に出血する事から『穢れ』とされているし   
当の本人は、醜態を曝したくないと思っているのだろう。   
友雅が我慢の限界を越えようとしたその時、不意に辺りが静寂に包まれ   
一呼吸後には、元気な産声があがった。   
局の中から慌しく白装束の女房達が出てきて、その中の古参の女房が   
おもむろに主の前に進み出る。
  
「殿、おめでとうございます、健やかな御嫡男の誕生に御座います」   
「あっあかねは? 北の方は??」   
「初産でありながら、ご立派でございましたよ。   
 さぁ、御方様の労をねぎらって下さいまし」

  
やっと通された局の中、そこは白の世界。   
白絹を敷き、その上に御槽が立てられ、全ての調度が白絹で覆われて。   
唯一の色は、上気した肌の色と柔らかな桜色、そして小さな小さな赤い色。   
自分の分身でもある小さな赤子を、恐々と腕に抱きながら   
未だ疲労の色濃い愛しい妻の髪をそっと撫でながら、優しく語りかけた。
     
「あかね、よく頑張ったね、お疲れ様」   
「う・・・ん、友雅さん有難う」
  
  
それは何事かをやり遂げた、優しくも強い慈愛に満ちた微笑。
  
幸せな日々が始まると信じて疑わなかった、あの日の情景。
 


  
《 縁談の噂 》



  
あれから半年、あかねは自分の実家である土御門に来ていた。
  
本来、貴族の奥方は自ら授乳せずに、乳母を付けて育てるのだが   
現代育ちで子供好きなあかねが、我が子を手放す教育方針には納得できる訳がなく   
乳母から色々と教授や補佐をしてもらいながら、子育てを頑張っていた。
  
生後半年ともなれば、首はとうに据わり、寝返りなども打ち始める。   
授乳はまだ続けているが、重湯などの離乳食も口にする様に。   
体つきも大分しっかりしてきたので、義父となった左大臣と義妹となった藤姫に   
子供の顔を見せに来ていたのだが
  
・・・あかねの顔色は冴えず、溜息がつい零れてしまう・・・
  
それの原因は最近の夜の生活にあった。   
子育てで寝不足と言うのではない、夜は乳母がちゃんと見てくれているのだから。   
そう、全ての原因は夫の不審とも思える行動にあったのだ。
    


    
友雅はあかねの妊娠が分かっても安定期になるまでは、手を出さず   
悪阻が酷かった事もあり、周囲が驚く程よく看病をしていた。
  
安定期に入ってからも情を通じる事は稀で、あったとしても普段の様相からは   
信じられない程、押さえ気味なものであったとか。   
勿論、古参の女房のきつ〜いお達しがあったからに他ならないのだが。
  
出産して三月ほど経ち、ようやく普段通りの生活が送れる様になった、ある夜。   
友雅が久々に手を出してきたのだが、それは今一信じられない情事で   
手と唇だけであかねを高みに上げると、その後の行為を止めてしまったのだ。
  
最初は出産後の体調と、慣れない育児疲れを気遣ってくれているのかと思った。   
だが一月以上もそんな状態が続くとなれば、話は別だ。   
さらに最近は帰ってくる事自体が遅くて、あかねが寝入ってから一緒の床に入り   
目が覚める前に出仕している、何て事も。
  
昼間の友雅は、普段の様子と全く変わりがないのだが   
夜はこんな調子で、あかねの頭に一つの答えが浮かぶ。
  
「友雅さん、私の事に飽きちゃったのかな。   
 子供も産んだし、もう興味もなくなっちゃのかな」
     
共寝をしてくれているのだ、嫌われてはいない筈・・・そう信じたかった。   
だが閨だけではなく、触れ合う回数も極端に減った様な気が。
      
一緒にいたくて、京に残った。   
もし、このまま彼に疎まれる様な事になったら・・・私は・・・
  
そんな重苦しい考えを振り払う為に、久しぶりに庭に下りてみた。   
この庭は、今も藤姫がきちんと整えさせている。   
あかねが龍神の神子と呼ばれていて頃と同じ様に、たまに戻ってくる義姉を喜ばせ和ませる為に。
  
懐かしさに、つい局から離れ遠くまで足を運んでいると   
ふと、見慣れない女房達の話が偶然耳に入ってきた。   
立ち聞きなんてするつもりはなかったが、ある言葉が足を引き止めてしまった。
          
「えっ? 友雅様に御縁談が」   
「私も禁中にいる女房の方から聞いた話ですけれど、大納言様の御息女を是非にと」   
「大納言様のって、あの才色兼備で恋多き方の」   
「あれ程の姫君ですもの、そうそうの殿方では釣り合いが取れませんものね」   
「あら、でも最近その姫君の恋のお噂を聞きませんわね」   
「もしかしたら、もうお渡りになられていらっしゃるのかもしれませんわ」   
「あかね様が、若君を御産みあそばしたでしょう。   
 良い頃合かも知れませんわね」   
「左大臣様の養女である、あかね様を北の方に   
 大納言様の姫君を愛妾にだなんて、少将様ではすみませんわね」   
「きっとすぐに、ご出世なさるのでしょうねぇ」
  
女房達の声は嬉しそうに弾んでいた。   
彼女達の感覚からいけば、勤めている邸の婿が出世するのは、とても誇らしい事。   
それが縁談という手段を用いての出世であっても、京では至極当然の事なのだ。
  

  
あかねは、どうやって自分の局に戻ったか覚えていない。
    
元々此方の世界の人間ではないので、女房を側に侍らすのを好まない。   
用事がある時などは此方からお願いするが、出来るだけ自分でやってしまうのだ。   
それは、土御門、橘の邸のどちらの女房も心得たもので   
普段ならば手を出す事は、極力控えている。   
だが、流石に今のあかねの様子は尋常ではなく、慌てふためいたのも無理はない。
  
土御門に来た時から、なにやら物憂げではあったが   
庭から戻ってきたあかねは、顔面蒼白でその所作も朧で   
女房達が声を掛けても、反応すらしなかったのだ。
 

     
頭の中で、点と点が線で繋がる。
  
・・・才色兼備で恋多き姫・・・
  
確かな身分に、きっと何でもこなせる綺麗な女性で、夜のお相手も相応に出来る人。     
私はもう何の立場もなく、何も出来なくていたって普通で、友雅さんの相手なんてとても無理で。   
最近帰りが遅いのは、その姫君の所に通っているから?   
共寝をしてくれているのは、私が一応の正妻だから?
  
だったら、私の執るべき道は
 

  
「おっ、御義姉様っ!? 一体どうなされたのですか!」      
「あっ、藤・・・姫・・・」
  
女房達から知らせを聞き付け、急いで駆けつけた藤姫の声で僅かばかりだが   
ようやく瞳に精気を灯す。
        
「・・・藤姫・・・聞きたい事があるんだけど・・・いいかな?」
  
藤姫は敬愛する義姉の只ならぬ様子に、軽く目配せをして女房達を下がらせると人払いをする。   
近しい場所に腰を下ろし、出来る限りにこやかに微笑んで見せた。
     
「藤で分かる事でしたら何なりと」   
「あの・・・ね・・・貴族の奥さんって、普通は子育てしないんだよね」   
「はい、乳母が付いて育てます」   
「じゃぁ、奥さんは何をするの?」   
「北の方と言う意味合いでは、家刀自として邸を守り、子を沢山産む事も求められます」   
「・・・」
  
あかねの表情が沈む、自分は家刀自として満足に裁量を振るえていない。   
古参の女房に手助けされてばかりいる。   
子育てに関しても、自分の無理を押し通した。   
友雅は笑って快く許してくれた、でも本当は嫌だったのかもしれない。
  
ドンドンと暗い思想に落ち込んでいくあかねの意識を、藤姫が引っ張り上げた。
  
「そうやって、お一人で考えて、何もかも決めてしまわれるのは   
 神子様の時からの御義姉様の悪い癖です!」   
「えっ!?」
  
いくら確りしてはいても、藤姫はまだ裳着を迎えていない幼き姫。   
どんな理由で、あかねがこうも思い悩んでいるのかは分からない。   
ただその要因が、非常に不本意ながらあの男であろう事は間違いない。   
藤姫はあかねの儚げな顔を真正面から見つめ、自分の意見を堂々と告げる。   
深窓の姫が意見を成すなど、京の慎み深さを重んじる考えからいけば、とんでもない事。   
だが、その考えを180度変えたのは目の前にいる、女性。   
そしてそれは、藤姫にとっての素晴らしい贈り物の一つ。
  
「藤は、友雅殿が大嫌いです!   
 通い婚の筈でしたのに、御義姉様をさっさと攫っていってしまうし   
 中々、此方に来る事を許さないし   
 普通、出産は里邸に戻ってするもの、なのに邸に産所まで設えるなんてっ!!   
 独占欲剥き出しで、見苦しいったらっ!!!   
 ですから、あんな男の為に御義姉様がそんなに考え込む必要なんてありません。   
 もし何か心にわがたまりがおありなら、全て友雅殿に吐き出して   
 ここに帰ってきて下さいませ!!!!」
  
よほど腹に据えかねているのだろう、拳を握り締めて力説する姿は   
幼い姫とは思えず、力強く・・・ある意味正論だった。   
相手のある問題なのだから、確かに一人で抱え込んでいても解決しない。   
話し合わなければ始まらない、その結末が自分の望まぬものだったとしても。
     
あかねは、決意を決めるとかすかに微笑んだ。
  
「ありがとう藤姫、その時はお願いしようかな」


  
あかねが橘の邸に戻った後、藤姫はその後の展開を三通り考えていた。
  
一つ目は、友雅があかねを手放す気はない。   
悔しいがまずこの考えが打倒だろう。
     
二つ目は、あかねが友雅を見限る事。   
優しい彼女の事、それはないと思うのだが、そうなってくれたらどれ程嬉しいか。
  
三つ目は、友雅があかねを見限る事。   
万が一でもその時は、この世に生まれた事を後悔させてやろうと。
  

     
「まぁ、どちらにしろ   
 大事な、大事な、大事な、大事な御義姉様に   
 あんな表情をさせた甲斐性なしの婿殿には、相応の代価を払って頂きますわよ」
  
自分にとって正当化できる権利を手に入れ、藤姫はくつりと北叟笑んだ。



  
夜も更けた渡殿で、あかねは眠る我が子を膝に乗せ、未だ帰らぬ夫を待っていた。   
話し合うと決めたものの、何度も挫けそうになる。   
このまま知らないふりをしようか?   
きっと、何でも上手くこなしてしまう人だから、これからも変わらない態度を取ってくれて   
日々を過ごしていけるだろう。   
でも、疎まれているなら? 嫌われているなら?   
そんな重荷は背負わせたくない。
     
腕の中の温もりが、あかねに勇気をくれていた。
  
大丈夫
  
私はもう一人じゃない
  
この子がいる
  
友雅さんが必要としてくれなかったとしても
  
生きていける
  
・・・大丈夫・・・


  
「あか・・・ね」
  
悲壮とも思える覚悟を決めた、少女の険しい雰囲気を敏感に察したのだろう。   
いつの間にか戻ってきていた友雅は、戸惑いがちに声を掛けた。
  
「あっ、お帰りなさい友雅さん」
  
・・・大丈夫、まだ笑えてる・・・
  
「子育てで疲れているだろうに、態々私を持っていなくても良いのだよ」
  
・・・大丈夫、貴方がくれた思い出があるから・・・
  
「友雅さんと、話したい事があったから」
  
・・・大丈夫、まだ、大丈夫・・・
  
「私と? 何かな」
  
・・・ダイジョウブ・・・
  
優しく微笑んでくる友雅の表情が、他の女性にも向かっているかと思うと   
心が軋みそうに痛い。   
でも、それが京では当たり前の事。   
あかねは覚悟を決め、静かに全てを吐き出した。
  
「大納言様のお姫様との縁談話があるのでしょう?    
 私の事は気にせずに、お受けして下さい」   
「!」
  
驚愕の視線から逃れる様に顔を逸らし、我が子を優しく撫でる。
  
「私はこの子と一緒に・・・」
     
『この邸を守りますから』そう言うつもりだった。   
だが言葉を発する前に、気が付いたらその場に荒々しく組敷かれていた。   
蜘蛛の巣に掛かった蝶の様に、鮮やかな袿が渡殿に広がり   
痕が付きそうな程、力任せに両手首を握り締められる。
     
「今更、私を捨てると言うのかい」  
  
真正面から恐ろしく低い口調と、剣呑な光を携えた視線で容赦なく射抜かれる。   
『捨てるのは、友雅さんでしょう?』そう言いたかった。   
だが言ってしまえば、本当に全てが砂塵となってしまいそうで思わず口を噤む。
  
「残酷だね白雪、私を見殺しにすると?」
  
沈黙を肯定として捉えたのだろう、その雰囲気が禍々しさを佩びてくる。   
何も知らずあかねの膝の上で、すやすやと眠る我が子に一瞬だけ視線を移すと   
歪に口角を上げる。
     
「もう、子を生したから種馬としても必要がないと? 一緒に月の世界に帰る気だと?   
 ふふ赦さないよ、そんな事は。   
 ならばこの子は人質だ、渡す訳にはいかないねぇ」   
「・・・ちがっ」   
「おや、これでは足りない? まだ心は変わらない?   
 ならば塗籠に閉じ込めようか。   
 嗚呼、それよりも歩けない様に、這う事さえ出来ない様に、何処にも行けない様に   
 この白い四肢を剔ねてあげようね」
    
ジリジリと膝で袴を押さえつけ、両手首を頭上で一纏めに縫い留める。   
友雅は、微動だに出来ないあかねの鳩尾を軽く突付きながら   
至極楽しそうに、狂気の言葉を紡いでいく。
  
「それでも、まだ変わらないのなら・・・君自身を壊してあげよう。   
 薬を使ってもいい、職業柄その手合いの物もよく知ってるしねぇ。   
 だが、そんな物に頼らなくとも、白雪の心を壊すのは簡単なのだよ。   
 君の知人を一人一人、目の前で朱に染めていけばいい。   
 その身体が真紅に染まる度に、心は、魂魄は壊れていく。   
 ふふ、何人まで耐えられるかな?」   
「ともま・・・さ・・・さん」
  
知り合いの死でさえも構わないと、形振り構わない狂人たる琴線に触れそうな   
危うい微笑を浮かべながらも纏う色は、壮絶なまでに艶かしくて   
『魅入る』とは、まさにこの事かもしれない。
     
「そんな目で見るのではないよ、愛しすぎて憎らしすぎて食べたくなってしまうだろう?」   
「っ!」
  
そう言うとあかねの耳に噛み付き、ぎりっ!と歯を立てた。   
徐に細い首筋に手を沿わせ、軽く力を込める。
  
「このまま君の首を圧し折って、食らってしまいたいよ。   
 血も肉も五臓六腑も、髪の毛一筋も、骨の一片さえも残さずに、全て私の臓腑に納めて   
 本当の意味で一つとなって、そしてそのまま私も果ててしまいたいのだよ」
  
再び合わせられた視線には狂気の色よりも、艱難辛苦に耐えているような感じで。
  
「・・・だけど、それだけは出来ない。・・・    
 君の高潔な御霊は天へと還って、私の穢れた魂は煉獄の業火に焼かれるだけ。    
 魂でさえ解放してあげる事を、私は赦せないのだよ、あかね」


  
それは最早、恋とか愛とか綺麗に飾れる感情ではなく

  
生に執着する様に

  
物を食べ、水を飲み、眠りに落ち、呼吸をする

  
飢える程、あかねに執着し

  
あかねを喰らい、あかねを飲み乾し、あかねに堕ち、あかねを貪る

  
深遠の闇よりももっと深い、凄まじい劣情をも含んだ『我慾』




でも、だったら、何故



  
「どうして、抱いてくれないんですか」


  
「 ! 」
        
疑問を問した言葉は、直属的な男女の情を顕にし淫靡なものの筈だ。   
だが、その言葉には一片の穢れた色はなくて   
訊ねた声にも、怒りも、恐れも、戸惑いも、蔑みも、澱みも、拒絶の音もなくて
  
新緑を映した碧玉の瞳が、ただ純粋に幼子の様に   
いたいけで、ほんの少し哀しい色を佩びて『何故』を問い掛けた。
  
たった一言、その瞬間に友雅の全ての悪しき気が払拭された。
  
あまりに綺麗な純白に対し、あまりに醜悪な暗闇
    
何がここまでこの人を、こう考えさせてしまったのか
  
哀しませ、苦しませ、落ちこまさせ、その言葉を口にさせた
  
全ての原因は、自分の行動にあったではないか!
  
それなのに・・・私は・・・

  
友雅はあかねの戒めを解くと僅かに離れ、所在なさげに視線を泳がせる。   
重苦しい沈黙を破ったのは、あかねの呟き。
  
「いつまでも満足に相手にならないから、飽きちゃったんですよ・・・ね」   
「違うっ! そんな事ある訳がないっ!!」
  
いつも先に気を飛ばしてしまうのは、友雅が年甲斐もなく理性を完全にすっ飛ばして   
あかねの体力を考慮せず、手加減できずに激情を刻み込むからだ。   
一度で終われずに、何度も何度も、それこそ気を飛ばさせてようやく諦めがつくのだ。
  
百戦錬磨で恋に飽き飽きしていた筈のこの男を、そこまで溺れさせているのに   
全くの無自覚で、その無垢さ、初心さが、更になけなしの自制心を危うくさせる。
  
「私が君に飽きるだなんで、世界が滅ぶよりもありえないっ!」   
「じゃぁ、どうして?」   
「・・・抱いたら、また赤子が出来てしまうだろう・・・」   
「いらなかったんです・・・か」
  
青褪め硬い表情のあかねの頬に、友雅は苦笑しながら優しく手を添えた。
  
「いらない・・・と言うか、出来ないと思っていたんだ。    
 今まで子を生した事はなかったからね。    
 あかねと十月十日を過ごして、赤子を腹に宿すと言うのがこんなに大変だったなんて。    
 悪阻で体調を崩したし、出産の時も苦しんだ、それに産後の肥立ちも順調とは言えなかった。    
 なのに何も出来ない自分が、悔しくてもどかしくて    
 君に苦しみを与えた張本人は、誰でもない私だと言うのに」   
「だから、いつも」   
「最初はあかねだけを高みに上げて、その痴態で満足感を得ようと思ったのだがね。    
 次第にそれも苦しくなって、思わず我を忘れて襲い掛かりそうになった時もあって。    
 だから最近は、仕事が終わった後も近衛府に居残っててね。    
 全く、随分と奇異の目で見られたよ」   
「えっ、近衛府にいたんですか!?    
 大納言様のお姫様の元に通っていたんじゃ??」   
「問題はそこだねぇ。    
 私は一体何度『君だけだと』告げれば、信じてもらえるのかな。    
 それに一体誰に、そんな大昔の話を聞いたんだい」   
「大昔って」   
「確かに『大納言の姫君』との縁談話はあった、だがそれは一年も前の話なのだよ」   
「!」   
「丁度、君の悪阻が酷い頃でね。    
 その場で断りを告げたし、体力的に弱っている君に    
 余計な心痛をかけたくないと思って、あえて言わなかったのだが    
 それが結果的に、こんなにも君を苦しめる事になるとはね」
     
悪阻が酷かった頃、いつ仕事をしているのか!?と言いたくなる程   
友雅は常にあかねの側にいて、看病も手ずからこなしていた。   
体調が回復してからは、今までの空虚を満たすかの様に、始終べったりと張り付いて
  
・・・確かに、他の女性と婚姻を結んでいる暇はない・・・
  
点と点が繋がる。   
線なんかの細い物ではなく、パズルのピースが隙間なく埋まっていく。
  
ぷつりと、あかねの緊張の糸が切れた。  
  
今まで気を張っていた分の想いが、涙となって後から後から零れてくる。
      
「友雅さんに縁談があるのは嫌だけど、他の女の人の元に通うのは嫌だけど    
 それが京の習慣なら、仕方がないって、我慢しなきゃって。    
 友雅さんの重荷になるのは嫌だし、嫌われちゃったらどうしようと。    
 でも、私にはこの子がいるから、確りしなくちゃって。    
 だから、母親として、名目上だけでも北の方として、ここで頑張っていこうって」   
「! 月に帰るつもりじゃ・・・なかったのかい!?」
  
思わぬ告白を聞き驚く友雅に対し、涙に濡れながらもあかねは   
例えようもなく、優しく微笑んだ。
  
「私の生きる世界は、どんな事があってもここですから」
  
嗚呼
      
友雅は、万感の想い込めてあかねを抱きしめ   
彼女もまたその想いに応えるかの様に、背に腕を回す。
  
一頻り抱き合った後、互いに顔を見合わせどちらともなくクスリと笑った。   
こうして確かめ合えばこんなに簡単な事なのに、なんて遠回りをしたのだろうと。
  
「あのね、友雅さん」   
「何だい、あかね」   
「出産って大変だけど、喜びの方が大きいんですよ」   
「・・・でも、痛いのだろう?」   
「確かに痛いんですけど、友雅さんの一言で何処かにいっちゃっいましたし」   
「?」   
「『頑張ったね、お疲れ様』って」   
「!」   
「だっ、だから、あの・・・赤ちゃん出来ても大丈夫です・・・    
 あっ、そのっ、勿論、友雅さんが嫌じゃなかったら・・・です・・・ケド・・・」
  
その先の言葉を失って、真っ赤な顔で俯くあかね。   
先程は、直属的な言葉でさえ恥かしくも何ともなかったのに   
今は遠まわしな言葉でさえも、顔から湯気が出てきそうな雰囲気だ。
  
そのあまりの愛らしさに、美酒にでも酔ったかの様な甘い痺れと眩暈が友雅を襲う。
  
「仰せのままに、我が君」
  
顎に手を添え軽く上げ、幸福感に蕩け切った微笑みと   
もう欲情を隠そうともしていない瞳の色で、深く唇を合わせようとした瞬間
  
「ふえぇぇぇぇぇんっ!」   
「「 ! 」」
  
膝の上から泣き声が響く、その途端、あかねの貌が『女』のものから『母』に変化する。    
我が子を抱き上げると、あやす様に軽く揺らした。
  
「はいはいゴメンねぇ。 雅雪ちゃん、おっきしちゃったんだねぇ。    
 ・・・友雅さん、この子を寝かしつけてきますから」   
「あっ、あぁ」
      
想わぬ障害で出鼻を挫かれた事に、我が子ながら思わず心の中で舌打ちをしていた。
     
その後、待てど暮らせど、戻ってくる様な気配はなく   
普段子供を寝かせている局に行ってみると、案の条の光景が目に付いた。   
添寝をする様に一緒に眠っているあかねの姿。   
きっと色々思い悩んでいた事が解消されたからだろう、久方ぶりに見る安らかな寝顔。   
だがそれは、今の友雅にとっては少々酷な事態で。
  
まだ寝入りばな、軽く刺激を与えれば起きてくれるだろうと   
自分達の局に戻ろうとして、あかねを抱き上げ様としたのだが   
くんっ!と小さな抵抗にあった。
     
よく見ると紅葉の様な小さな手が、あかねの髪の毛を一房握り締めていて   
あまりに小さな指なので、剥がす為の力の加減がわからす   
無理に込めれば起きて泣き出してしまうだろう。
      
かといって、折角伸びた髪を切ってしまう訳にも・・・
  
ここまで考えて、はたと気が付いた。
  
先程は、その四肢を断ち切ってでも、と本気で考えていたのに   
今は髪の毛一房さえも、切る事に躊躇っているだなんて。
  
君が嫉妬してくれた事が嬉しかった。
  
君が私に固執してくれた事が嬉しかった。
  
君がここで生きてくれると断言した事が嬉しかった。
  
まぁ、無意識的に「子供」が一番で「私」は二番になっている事が気に入らないが
  
一人で生きていけない赤子と比べるのは、少々大人気ないかねぇ。
  
あまりに身勝手な自分の思想に、思わす自嘲の笑みが零れる。   
あかねの背後に寄り添う様に寝転ぶと、直垂衾を掛けた。   
  
ほんの少しだけ首を擡げ、分かってはいないだろうがキッパリと我が子に言い放つ。
     
「雅雪、今宵だけ母上を貸してあげよう・・・今宵だけだよ」
  
その瞬間、小さな目が開いた。   
我が子の面立ちは、恐ろしいほど友雅によく似ていて   
生え始めた髪の毛も、父親譲りの様で   
唯一母親から受け継いだのは、一対の碧玉の宝石。
  
その瞳が友雅を見て、にっと笑った。
  
あかねが見ていれば「可愛い、天使の笑顔ですねv」と言っていただろう   
しかし、友雅には「悪鬼の笑み」に見えたのは気のせいだろうか?



そして、その予感は的中する。

友雅にとって一番の邪魔者は、七葉でも、藤姫でも、龍神でもなく

血を分けた実の息子なのだと思い知るのは、そう遠くない未来。  







姫君主義のセアル様から頂戴してしまいました。
あかねちゃんが絡むと
途端に形振り構わない・大暴走っぷり発揮!の友雅さんが
もうツボでございますv
それと、お気づきになられたかも知れませんが
作中に何と我が家のまーくんが登場しております♪(小躍り)
ラストが甘&ちょいギャグだった処が
これから 『本当の戦い(?)が始まる』 という予兆…なの、かも(苦笑)

セアル様、どうもありがとうございました(深々)

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