《 春霞 》
カキン、と高い音が校内まで響く。
グラウンドで、野球部の少年がホームランを打ったようだ。
まわりの歓声が、どっと溢れる。
「青春だねぇ。」
コーヒーをすすりながら、窓の外を見ていた男がそんな言葉を漏らした。
「友雅さん、その台詞おやじくさいですよ・・・。」
と言ったのは、ブラックが飲めない代わりにカフェオレを飲んでいた少女だ。
保健医の友雅と、あかねの逢瀬は決まって授業の終わった夕刻なのだが今日はまだ日が高い。
それというのも、先週から遥か学園が春休みに入ったからだった。
このような長期の休みに登校する者といえば、単位が足りず進級が危うい補習者か、
部活に汗を流す者、新学期の準備に追われる職員くらいなものだ。
あかねは、春休みの課題をする、というのを理由に、
保健医として勤務している友雅と一緒にいたいがために登校していたのだ。
友雅の机を借りて課題を広げると、友雅が苦笑をこぼす。
「本当にここで春休みの宿題をするのかい?」
「だって、友雅さんはお仕事があるでしょう?私のわがままでここにいさせてもらってるんだもの、
せめて友雅さんの邪魔にならないようにしなくちゃ。」
「私は今まで、一度も君を邪魔だと思ったことはないよ。逆に嬉しい限りだね。
君が休みの時でもこうして私のそばにいてくれるのだから。」
ふ、と優しい微笑を向けると、あかねは一瞬のうちに赤面した。
その初々しい姿が可愛くて、つい意地悪な言葉をかけたくなってしまう。
「分からないところがあれば、教えてあげようか?」
「わ、本当ですか?」
パッと顔をあげたあかねに、くすっと笑みをこぼす。
「保健体育で良ければね。丁度良く、後ろにベットもあることだし、何なら手取り足取り・・・。」
「結構です!!」
友雅らしい返答に、聞いた己がバカだった。
カップに残っていたカフェオレをぐいっと傾けて、思いきり咳き込んでしまう。
「おやおや。慌てなくてもおかわりはたくさんあるよ?」
「誰のせいですか、誰の!」
友雅は、彼女の背中をさすりながら笑った。
あまり声をたてて笑わない、彼の珍しい姿にドギマギしながらも、うららかな時が変わらずに流れていた。
―――丁度、その時。
コンコンとノックの音がして友雅はピタリと笑うのをやめた。
あかねも、さっと奥の本棚の整理をするフリをした。
誰か来たら、保健委員である彼女に片付けを頼んでいたという口実も、既に打ち合わせ済みだったから。
書類を渡しに来た職員か、部活動で怪我をした生徒か、はたまた・・・。
けれど、そんな心配をよそに、訪れたのは二人のよく知っている者だった。
「友雅先生、僕です。入ってもいいですか?」
女の子のように可愛らしく、女の子にしては少し低い声。
詩紋だった。
友雅も、ホッと息をつく。
「あぁ、お入り。・・・おや、天真もいたのかい。」
「悪かったな。」
詩紋に続いて入ってくるなり、天真の顔に怒りのマークが浮かぶ。
「あれ?春休みなのにどうしたの?天真くん、詩紋くん。」
「バレンタインデーのお返しに来たんだよ。本当は当日に渡したかったんだけど、春休み入っちゃったから。
・・・それに、友雅先生より先にお返ししたら後が怖そうだもんね。」
「そうそう。義理は義理らしく、後から登場というわけだ。」
「天真くん、義理義理って・・・私は、いつも天真くんと詩紋くんに
いつもお世話になってるからそのお礼のつもりで・・・。」
「だ〜か〜ら〜、それが"義理"つーんだよ。」
ぶっきらぼうな台詞を吐きながら、天真はあかねの頭に紙袋を置いた。
「?」
「中、見てみろよ。」
言われた通り、ゴサゴソと紙袋を開けると、中から可愛いクマのぬいぐるみが出てきた。
「あーっ、コレっっ!!」
「そ。お前、この間ゲーセンでそれ欲しそうな目してただろ?」
天真があかねに送ったのは、行きつけのゲーセンにあったUFOキャッチャーの景品だった。
とても欲しかったけれど、どうせ取れないから・・・と諦めていたのだ。
あの時、口になどしていなかったのに、どうして・・・。
「何で?って顔してるな。・・・ったく、いつからの付き合いだと思ってるんだよ。その位ちょろいもんだぜ。」
「・・・少なくとも10回は100円入れてたけどね。」
得意気だった天真の横で、詩紋がぼそっと口を挟む。
すかさず、天真が詩紋の頬をびろーんとのばした。
「ふわ〜ん、ふぇんまへんぱいひほいぃ〜。」
その光景を見ていなくても、UFOキャッチャーの前で真剣にクマのぬいぐるみを狙う天真の姿が浮かんでくるようだ。
あかねは、くすくす笑いながらお礼を言った。
「ありがとう天真くん。大切にするね。」
「・・・ま、そんな大したもんじゃないけどな。」
と、そっぽを向く。
それは、ただの照れ隠しに違いない。
赤くなった頬をさすりながら、次は詩紋がお返しを差し出した。
「はい、あかねちゃん。僕からはクッキーだよ。
ここに来る前に焼いたばかりだから、早めに食べてくれると嬉しいな。」
可愛らしくラッピングされた包みを受け取っただけで、香ばしい香りが漂ってくる。
「ん〜、いい香りがする〜。ありがとう、詩紋くん!」
「僕の方こそそう言ってもらえると嬉しいよ。あ、良ければ友雅先生も食べてくださいね。
中に、甘さ控えめの黒ゴマクッキーもありますから。」
そう言うと、今まで黙ってみていた友雅がにこっと笑った。
「・・・これはこれは。恋敵にまで気を使っていただいてすまないね。」
「皮肉のつもりかよ。」
ムカッときた天真が言い返す。
「もうっ、友雅さんったら!・・・ごめんね、二人とも。良かったら一緒に食べない?今、お茶入れるから・・・。」
けれど、詩紋は横に首を振った。
「ううん、気持ちは嬉しいけど、これから僕たち蘭ちゃんと図書室で課題をする約束をしているんだ。」
「それに、いつまでもここに長居して馬に蹴られたくないからな。」
天真は頭をかきながら、あさっての方を見ていた。
あかねは、二人からの贈り物をきゅっと胸に抱きながらうなずいた。
「・・・そっか、じゃあ、本当にありがとうね。」
「どうしたしまして。またね、あかねちゃん。」
「新学期に会おうぜ。」
ひらひらと手を振る天真たちを見送り、戸が閉まった後、あかねはふぅ、と肩を降ろした。
「ふふ、天真たちで安心したかい?」
「そりゃそうですよ。・・・それより友雅さん。あまり天真くんたちにからまないでくださいね。
フォローする私も大変なんだから。」
「おや、君は私より天真たちの味方をするのかい?」
「もうっ、そうやって話をこじらせないでくださいよ。」
「だって・・・ねぇ。私の婚約者に贈り物をする男たちを黙って見守るほど、私は心が広くないのだよ。」
そう言ってあかねのそばに近づくと、彼女の首元のネックレスに通っている指輪にそっと口づけた。
その行為がとても悩ましくて、あかねは真っ赤になる。
「いつになっても君の初々しさは変わらないね。」
「それって子供っぽいってことですか?」
ぷぅ、と頬を膨らませる彼女に微笑んで、
「まさか。私は子供にこんなことしないよ・・・。」
と、ゆっくり唇を重ねていった。
夕方の5時とはいえ、陽が長くなったせいもあり西の空はまだ明るかった。
先ほどまで威勢のいい掛け声をかけながら練習していた野球部も、
「ありがとうございました!」の一言で一日が終わる。
・・・そんな、変わらない日々が過ぎていく。
「新学期、か・・・・・・。」
彼女の髪を優しく梳きながら、カーテンの隙間から見えるグランドを見ながら友雅がつぶやいた。
「一年経つのはあっという間ですね。」
あかねは、保健室の奥のソファーで友雅に寄り添うように彼の肩に頭をもたげていた。
中からも外からも、死角になっていて見えない、二人だけの特等席。
あかねは、この落ち着いた空間がとても好きだった。
「・・・早く卒業したいかい?」
友雅の問いに、彼女は首を横に振った。
「それは、私と結婚したくないということかな?」
「違いますっ。もう、どうして友雅さんはそういう解釈ばかりするんですかっ!」
「私も、若くはないからね。君がいつ、どこぞの男にさらわれたりしないか心配でたまらなくなるのだよ。
そうなる前に、君を私だけのものにしておけば少しは安心だろう?」
「・・・友雅さんは、私のこと信用してないんですか?」
「そうではないよ。」
「じゃあ、どうして?」
分からない。
今日の友雅はいつになく卑屈的だ。
彼はゆっくりと瞳を閉じ、ため息をついた。
「・・・すまない。君との時間に、天真と詩紋が入ってきたのが少しこたえたようだ。
・・・いつだったか、うらやましいと言っただろう?」
「・・・え?」
「君と同じ年で、同じ時を生きることができる彼らを。
あの頃に戻って、私もあかねと同じ学園生活を送れたら・・・と、よく思っていたよ。
最も、それは今保健医と生徒という関係で叶ってはいるけれどね。」
と、寂しそうに笑った。
「友雅さん・・・・・・。」
知らなかった。
いつも、自信と余裕に満ち溢れているような彼が、
この保健室で一人、白衣を纏いながらそんなことを考えていたなんて。
「ふふ・・・春の陽気にあてられたかな?私がこんなことを言・・・・・・。」
その時、あかねが友雅の胸に顔をうずめた。
白衣を、ぎゅっと握りしめながら。
「・・・あかね?」
「私は、友雅さんが側にいてくれるだけで幸せです。これ以上望むものなんてありません。」
だから、どうか・・・。
どうか、自分で自分の居場所を否定しないで欲しい。
すっと友雅は目を細め、ぎゅっとあかねを抱きしめた。
「あぁ、そうだね・・・。」
本当にそうだ。
どうして己は気が付かなかったのだろう。
情熱など、煩わしいとしか思っていなかった冷めた心に、あたたかい火を灯してくれたかけがえのない少女。
そんな尊い存在に出会えたことだけでも、とても幸せなことなのに。
これ以上望むのは、罪というものだろう。
「・・・それにね。」
くすり、といたずらっぽく笑ったあかねに、友雅は「ん?」と聞き返した。
「私も、いつだったか言ったでしょう?保健医の友雅さんも、友雅さんの一部だから好きなの。
こんなの、同年代だったら体験できないことでしょう?」
「・・・逆に刺激的?」
「そうとも言えます。」
お互い、顔を見合わせてくすくす笑う。
「私の白雪には敵わないね。」
いつもの友雅に戻ったのが見てとれて、あかねはほっと胸をなでおろした。
あかねが帰り支度をしていると、友雅が白衣をロッカーにしまいながら言った。
「もうすぐだね。」
「え?」
「桜の蕾が膨らんでいるよ。満開の桜を、この保健室から眺めるというのもなかなかオツではないかな?」
「そうですね。」
「思い出すね・・・君がこの学園に入学してきて、この保健室に通うようになった頃のことを。」
懐かしく一年前を振り返る友雅とは逆に、あかねは彼との出会いを思い出して真っ赤になった。
「おや?何を赤くなっているのかな?」
くすりと笑った友雅に、あかねはぷいっと顔を背けた。
「何でもありません!」
「何でもないということはないだろう?未来の旦那様に教えておくれ、あかね。」
「いーやーでーすー!」
二人のやりとりは、保健室を後にしても続いた。
東の空には、小さな三日月が顔を出していて。
暖かな春の風が、夕焼け空の下の二人を優しく包み込む。
そんなある日の出来事だった。