《 この腕の中で 》
ふと、気付くと。
そこは何も無かった。
いや、見えないと言った方が、正しいのかも知れない。
ここに在るのは。
ただ闇ばかり。
ただ居るには心地好すぎる、それ。
その中で〈自分〉を確立するのはとても辛いものだと、〈彼女〉は初めて知った。
そのまま。
その闇の中で、何も考えずに。
ただ、眠る。
これ以上の贅沢は無い。
母親の胎内の中にいる様な、この優しさに包まれて。
このままここで揺蕩(たゆと)うたまま。
それは。
とても甘やかな誘惑。
闇からのこの慫慂(しょうよう)を。
何も考えずに、このままここで。
―――――この闇の中に解けてしまえ。
それを叶えようとした瞬間。
遥か遠くで、強い光が差した。
そして。
『……我等が真紅(しんこう)の麒麟の姫君』
〈彼女〉の意識がそれに集中する。
この声は。
耳に入った瞬間に全身から力が抜けてしまいそうなこの声の主は。
〈彼女〉に、ひととしての、女としての幸せを約束してくれた男のものだ。
そう、〈真紅の地の白虎〉。
王の子として生まれ、『龍神の神子』としての資質を異母妹と共に持っていた為に、
『近衛』では無く、『八葉』と名を変えされられた者達に守られ、
神殿の神官達と折衝を繰り返しながら、
国の平安と民の安寧を祈りつつ、巫覡として生きていくつもりでいた。
独りで。
過去に彼女と同じ地位にいた者達でも、伴侶を持っている者がいたのは知っているが、
その為に相手にどれほどの苦役を強いると解かりながらそれを望む事を。
彼女は、自分には許さなかった。
それなのに。
『もしも、私が貴女を望めば、貴女はそれを叶えてくれるだろうか?』
そう言ってくれた彼の言葉が、どれほど嬉しかった事か。
何時の頃かは、もう思い出す事も出来ないけど。
自分の視線が、彼を追っているのに気付いてから、ずっと。
彼が数多の女性達に囲まれてているのを、ただ黙って見ていた時も。
どこぞの夫人・令嬢との、未確認――多分確認は出来まい――の醜聞に、
心が引き千切られそうになるのを必死で堪えていた時も。
一個の人間としてではなく、巫覡として、『龍神の神子』として生きていく事を選んだ時に。
思い切るつもりでいた。
それこそ持てる力を持ってしても。
彼がどの女性を選ぼうと、平静でいられる様に。
その幸せを願える様に。
〈心〉を殺して。
生きていくつもりでいたのに。
でも。
彼は〈それ〉を許してはくれなかった。
『姫には選ぶ権利があると解ってはいるのだけど……
それでも、私は貴女にその選択肢を採ってもらいたくないね』
『貴女が私と共にいて下さるのであれば、どんな困難にでも立ち向かう事が出来るのだから……』
『貴女が私を望んでくれるのであれば、私は貴女と自分の為に生きよう…
…もしそうでないのなら、私には何もかも。そう生きることすら意味が無いのだよ』
そう言って、彼女の椅子に腰掛けさせ、彼はその傍に跪いて。
彼女が決めた〈事〉に反旗を翻させる為に、彼はそれこそ労を惜しまなかった。
それからの攻防(?)の後、彼女は陥落したのだ。
相手からの誘惑が、本当の彼女の望みであった故に。
その後。
彼女には嵐のような。
彼には当然の。
王室と神殿を巻き込んだ騒動の後。
二人が許婚である事が公表された。
それを今。
〈彼女〉は思い出した。
「友雅さん……」
あの、一筋の光。
でも、今の彼女には、気が遠くなるほどに遠い。
それでも。
「行かなきゃ……」
でも身体は動かない。
「……動いて」
渾身の力を出して。
「お願いだから……動いて」
漸く。
腕が動いた様に、彼女は思う。
気の所為かもしれないが、引き摺る様な鈍い音さえ感じて。
「ああ……」
前へ。
「お願い」
光に向かうという事は、闇に背を向けること。
それは危険な事だ。
闇に潜み、そして蠢くだろう危険なモノが、背後から襲わないとは言い切れないから。
それでも、彼女は進むのをやめようとはしない。
「あなた……」
望みは、あの一筋の光――恋する男――の下へ往くこと。
そのうち。
脚も、自分の意志で動くように感じた。
「友雅さん……」
これで、少しでも早く。
あの一筋の光に行ける。
闇に溶け込んでいた為か、まだ重たく感じる自分の身体を必死で。
何よりも自分が望む場所に運ぶ。
「友雅さん……あなたに、もう一度」
その時。
『あかね……私を置いて行かないでくれ』
この声が聞こえた瞬間、
彼女の中から。
光が溢れた。
向こうにある光と同じものが。
「あ……」
そのまま、〈彼女〉の意識が光に吸い込まれた。
そして。
気が付くと。
誰かの腕の中にいた。
いや、〈誰か〉ではない。
これは、彼女の愛する男のもの。
彼がいつも薫らせている香をも、彼女を抱き締めている。
だから、瞼を閉じている今でも、
「……あ。と、もま……さ、さん?」
相手の名前を呼ぶ事が出来るのだ。
「あかね……目を開けられるかい?」
間違い無い。
そして、彼女の眼が、愛する男を映し出した。
嬉しい。
今、この場で泣きたくなる位な。
幸せを、彼女は感じた。
そして、瞬く間に、思い出した。
異母妹の事を。
あの強くて優しい橙黄(とうこう)の麒麟の姫を。
それを口にして、笑われてしまった。
そして彼をどんな目に合わせたかを訴えられて。
でもそれも、これでお終い。
自分から接吻する事で、それを約束に代える。
暫くはそのまま。
この。
何よりもどきどきして、そして、安心できる腕の中で。
この幸せを噛み締めていたいと、真紅の麒麟の姫は思う。
あの暖かい闇に溶け込んでしまったら、二度とこの幸せは手に入らない。
それをしなくて良かったと思いながら。
今だけは。
王族としてでもなく。
巫覡たる〈龍神の神子〉でもなく。
一人の女として。
愛し、恋した男の腕に漂い。
その後の騒動の事は、今は頭には浮かばずに。
この、幸せだけを感じて。
The End.