そなたのことが好きなのだ。

 

肩を丸めるようにして眠っていたボロミアは、額の辺りに視線を感じ、うっすらと目を開けた。

暗闇のなか、目の前には、ただ、金色。

驚いたボロミアは、目の上を覆った。

「ボロミア、そういう時は、私をうち払うべきではありませんか?」

笑いを含んだ柔らかな声が、ボロミアの上から振ってきた。

「もし、私がサウロンの手下だとしたら、あなたは今頃死んでいますよ」

ボロミアは顔を覆っていた手をどけた。

エルフが楽しげにボロミアをのぞき込んでいる。

「敵なら、考える前に手が剣を握っている。……どうしたのだ? レゴラス」

ボロミアの声は、眠りから覚めたばかりのため、かすれていた。

身を起こそうとするボロミアを制して、レゴラスが、ボロミアの髪を撫でた。

若いエルフは笑っていた。

「昼間、あなたは私の顔をよく見ているでしょう? 仕返しです」

しかし、ボロミアは、その言葉に、眠りのけだるさが吹き飛ぶような思いをした。

このゴンドール人は、誰にも気付かれぬよう心を砕いて、エルフを盗み見ていたつもりだったのだ。

「私が?……」

ボロミアの返した声は、口の中で消えてしまうほど小さく、身を引いたレゴラスは曖昧に笑っただけだった。

だが、エルフが笑っているのかどうか、実の所ボロミアからはよく見えなかった。

今夜の空には月がなかった。

少し離れてしまえば、僅かの星明かりでは、顔の表情まで読みとれない。

ボロミアは、居住まいを正すと、身体を起こした。

「こんな夜更けに、どうしたのだ? レゴラス?」

知らず、手が剣を引き寄せている。

「いいえ、なんでもありません。ボロミア」

レゴラスは、怪訝そうな顔のボロミアを見て、また、にこりと笑った。

レゴラスの手が伸び、ボロミアの額に触れた。

「ボロミア、眉間に皺が寄っています」

「そなたが、私に笑いかけるから……」

ボロミアは口にし、しかし、まるで拗ねているかのような自分の言葉に恥じるように顔を伏せた。

エルフが気に留めた様子はない。

「私があなたに笑いかけてはいけませんか?」

「いけなくはない。……だが、普段は、視線も合わせぬではないか」

出会いの印象が悪かったのか、若いエルフは、ボロミアを視界にも入れぬような振る舞いだった。

旅の始まりの日からそうだったのだ。

ボロミアは、もうエルフのその態度に慣れてしまっていた。

しかし、そのエルフが側にいる。

「申し訳ありません。エルフは、人慣れしない種族なのです」

エルフは、自分の行いが人に与えている影響などまるでものともせず、口元に柔らかな微笑みを浮かべた。

初めて伸ばされた手に、動揺しているボロミアのことなどお構いなしだ。

片膝をついていただけのエルフが、ボロミアの前に腰を下ろす。

「ボロミアが、一人、こんなところで眠っているから、いい機会だと思って少しお話がしたかったんです」

エルフは静かに笑いかける。

だが、話をするわけでもない。

エルフは、ボロミアのほんの近くで、気持ち良さそうに風に吹かれている。

ボロミアは、話の接ぎ穂に困った。

「そなた、今が夜番なのか?」

ようやくボロミアが口の中から押し出した話題を、エルフは柔らかな笑顔で受け入れた。

「ええ、そうです。周りを一回りしてきて、こちらに戻ったら、ボロミア、あなただけが皆から離れた場所で眠っているから」

ボロミアは、レゴラスの気持ちが分からず困惑した。

今日の昼まで、このエルフの態度は、仲間が危機にでも陥らぬ限り、ボロミアがどこにいようが気に留めないだろうというものだった。

エルフの視線にとまどいながら、ボロミアは小さく返事を返した。

「眠れなかったのだ」

レゴラスは、まるで旧知の友のように、優しい質問をボロミアに投げかけた。

「あまり寝返りを打つと、皆の邪魔になるからですか?」

その上、土の上に広がったままのマントを引き寄せ、ボロミアの背中にかけた。

暖かさが、ボロミアを包む。

「あなたは優しい」

「レゴラス……」

ボロミアは、レゴラスが着せかけたマントを引き寄せ、胸の前で腕を交差させた。

感謝の言葉を口にしたかった。

しかし、普段の素っ気なさを忘れたかのようなレゴラスに、ボロミアは言葉をなくしてしまっていた。

するとまた、二人の間には静かな時が流れていく。

枯れ草が覆う地面を見ていた目を上げて、ボロミアは、レゴラスを見た。

その顔には、悲壮な程にこわばっていた。

「先ほど、そなたが言ったことなのだが……」

 ボロミアは、自分がレゴラスを盗み見ていたことをどうにか弁解したかった。

「何をいいましたでしょうか?」

エルフは、ボロミアが身を揉むほどに恥ずかしく感じた言葉に重きを置いていなかった。

「いや、あの……」

「ボロミア、あなたの目は良く見えますか? この暗さで、私の顔が見えますでしょうか?」

レゴラスは、ボロミアへと顔を寄せた。

この距離になると、傷一つないエルフのつややかな肌までもボロミアは見ることが出来た。

驚いたボロミアは、レゴラスを押しやった。

「レ、レゴラス……」

ボロミアからレゴラスに触れるのは、これが初めてかも知れない。

ボロミアは、思っていたよりもずっと力強いレゴラスの身体に驚きを覚えた。

「見えているのですか?」

流れるような金色の髪に縁取られた青い目がボロミアの顔をのぞき込む。

その目は、決して冷たい色をしていなかった。

ボロミアのとまどいは、大きくなるばかりだった。

「見える。……エルフの目には適わぬだろうが、人間の目も、それほど悪くはないのだ」

「そうですか。では、もっとご覧になればいいのに」

レゴラスは、にこりと笑うと、ボロミアの顔へと手を伸ばした。

「目と、鼻と口と。あなたとまるで変わりはありませんが、エルフの顔が珍しいのでしょう? だから、あなたは、いつも私のことをいつも見ていらっしゃる」

細い指が、ボロミアの顔をなぞっていくのに、ボロミアは声もなくレゴラスを見つめた。

レゴラスがくすりと笑った。

「口が開いてしまっていますよ。ボロミア」

レゴラスは、ボロミアの唇を撫でた。

「エルフはあまり人間と立ち混じりませんからね。私のことが気になるのでしょう?」

その言葉は、ボロミアの心情に近かった。

だが、違っていた。

しかし、ボロミアは、その言葉に取りすがった。

ボロミアは、胸に詰まってしまっていた息とともに、言葉を吐き出した。

「……弟が……、弟が、エルフのことをとても好きなのだ」

しかし、ボロミアの声は、喉にでも引っ掛かっているかのように、どもりがちだった。

エルフはその滑稽さを笑うわけでもなく、変わらぬ静謐な美貌で、微かな星明かりの下にいた。

「弟君は、エルフに会われたことがあるのですか?」

「……いいや……、ああ、でも、もしかしたら、会ったことがあるのかもしれない。けれど、私が弟から聞いていたのは、物語のなかのエルフのことだ。……弟は私などよりずっと博識なのだ」

ボロミアは精一杯エルフに話をした。

「沢山、話を聞いた。弟は、エルフに憧れていた」

「実際、エルフを見て、どうでしたか? がっかりなさったでしょう」

間近のエルフはボロミアの声に耳を傾けている。

「……、いいや、思ってたよりも、ずっと……美しい……」

エルフは、うれしそうに目を細めた。

「本当に? 物語のエルフに比べて? ……ボロミア、美しいという言葉は、私の一族ではずいぶんな褒め言葉なのです。人間は口がうまいのですね」

「いや、……本当に……」

まだ、顔に添えられたままのエルフの白い手を気にして、顔を動かせずにいるボロミアは、顔に上る血で染まっているだろう頬がとても気になった。

しかし、ボロミアは、レゴラスの手から逃れることもせず、力を入れて目を閉じた。

「すまなかった。レゴラス。……あの、私も、ずっとエルフに会ってみたかったのだ。あまりに、弟が夢見るように語るものだから、どうしても、この目で見てみたった。だから……その、ずっとそなたのことを見てしまっていたのだ。気に沿わぬことをしてすまぬ」

頭を下げたボロミアの頬は、真っ赤だった。

レゴラスは、恥ずかしさのあまり、身の置き所もないとばかりに縮こまるかわいらしい人に目を細めた。

「本当に、すまぬ」

「いいえ、最初は、睨んでいらっしゃるのかと思い、居心地の悪い思いもしましたが、それにしては、あなたの態度がとまどいがちだったので、きっと物珍しくて見ていらっしゃるのだろうとこちらも予想しておりましたので」

ボロミアは、少しばかり不思議に目を上げた。

「エルフでも、居心地の悪いなどという思いなどするのか?」

「ボロミア、あなたは、エルフを石だと思っておいでですか?」

実際、旅に出てすぐのボロミアの視線に、大層居心地の悪い思いをしたレゴラスは、すこしばかり人の気持ちに疎い、育ちのいい人間を軽く睨んだ。

「いいや、しかし……、裂け谷で世話になったエルロンド殿は、まるで落ち着き払って……」

「申し訳ありません。私は、まだ若く、落ち着きがないのです」

笑う目のエルフは、自分のした事に慌てたボロミアの髪を撫でた。

「すまぬ」

「いいですよ。ボロミア」

ボロミアは、レゴラスの柔らかい手が触れていくのにとまどった。

「……あの、あまり、触られるのは……」

触れてくるレゴラスの手は気持ちのいいばかりだが、ボロミアにはとまどいが大きかった。

今夜まで、レゴラスと隣あって歩いたことすらない。

レゴラスは、ずっと触れてみたかったボロミアの髪が、ずいぶんと柔らかであることを知った。

「苦手なのですか? ボロミア」

「そなたも人間が珍しく触れてみたいのかもしれないが、私は、あまり……」

 裂け谷の会議で見せた嫌な姿が、ボロミアの一番硬い部分なのだろう。

 彼は国を守る義務がある。

「人間が珍しいというわけではありません。ホビットたちが幸せそうな顔して、あなたに触れるから、触ってみたかったのです」

「ホビットは、人間など珍しいのだ」

国の事を口にせぬ、ボロミアは、こんなにも柔らかな人間だ。

レゴラスは、ボロミアに歩み寄るだけの価値があると結論をだしていた。

「そうですか?」

ボロミアは、困ったように、地面へと視線を彷徨わせていた。

レゴラスは、ボロミアを気遣い、髪から手を離し、少し離れた。

ボロミアが目を上げた。

レゴラスは、この暗闇でも、ボロミアの睫が動くのすら見分けることが出来る。

ボロミアは、何度か忙しく瞬きをした。

「レゴラスに触られるのが嫌だということではないぞ」

「大丈夫ですよ」

「本当なのだ。……その、私は普段から、荒くれ者たちととも剣を振り回すばかりの生活を送っていたから、その……私にそうやって優しく触れるものなど、家族くらいしかなく……」

困り果てた顔をしたボロミアのために、レゴラスは話題を選んだ。

「ああ、そうだ。その家族の話をしてくださいませんか?弟君が語っていたエルフについて教えてください」

特別、エルフの興味は、彼の家族になどなかった。

だが、ほっとため息をついたボロミアを、レゴラスは、柔らかな視線で眺めた。

ボロミアは、思い出すように夜空へと視線を投げかけた。

声の色が優しい。

「……あいつが話すエルフは、まるでおとぎ話のようだった。この世のものとも思えぬ、美しい姿なのだ。白く美しい面差し、豊かな髪、なめらかな動作、そして、全ての英知を身につけているのだ」

くすりと笑ったレゴラスは、自分の髪を引っ張った。

「私が似ているのは、髪くらいですね。しかし、この旅の先をいけば、あなたの思い描くままのエルフに会うことが出来ますよ」

「いや、……その……」

ボロミアは、口ごもり、また顔を伏せた。

自分の頭を抱き込むようにして、しばらく俯いていた。

レゴラスの目には、赤く染まっていく、ボロミアの耳が見えた。

なんともかわいらしい形だ。

「ボロミア、あなた、人間にしては、耳の形がとがっていますね」

レゴラスは、髪の間から、見えるボロミアの耳へと触れた。

ボロミアが急に顔を上げた。

「あの……、レゴラス!」

ただ、言葉が続かない。

伸ばした手のまま、動きを止めていたレゴラスは、もう一度赤く染まったボロミアの耳に触れた。

「ボロミア、あなたの遠い祖先にエルフの血が混じっているのかも」

急に、ボロミアが、大きく首を振り、レゴラスへと手を伸ばした。

「レゴラス、そなたの髪に触れさせて欲しい!」

言葉とともに、ボロミアの手が伸びた。

だが、しかし、ボロミアの指は、レゴラスの髪に触れる寸前で、強い握りしめられた。

「……綺麗だと、ずっと思っていた。……触ってみたかったのだ。少しでいい、触らせてくれないか?」

ボロミアは、真剣な目をしていた。

レゴラスは、僅かに目を見開いたが、小さく微笑んで、どうぞ。と言った。

「私のような落ち着きのないエフルの髪でも良ければ、髪でも、顔でも、お好きなだけ触ってください。なんなら、一房切り取りましょうか? 弟君に自慢なさってもいいですよ」

「いや、そんな勿体ないことは……」

ボロミアは、おずおずと手を伸ばした。

宝物にでも触れるように、レゴラスの髪に触れる。

「なめらかだが、やはり、ちゃんと硬い……、……髪なのだな……」

「何を期待しておられました?」

「いや、先ほど、そなたに触った時も驚いたのだ。強い肉体だった。エルフが剣を振るうのは知っていたが、私の頭のなかでは、あのイメージはまるでなかった」

「それでは弓が引けません」

笑ったレゴラスは、手の中にある髪を見つめるボロミアの顔をじっと見つめた。

「ボロミアの語るエルフは、まるでまぼろしの生き物ですね」

「幽玄の美をもつ神秘の生き物だと……弟が……」

「ボロミア、他に触りたいところはありませんか?」

手の中の髪を見つめていたボロミアは、はっと顔を上げた。

「実は私もそれほど人に触られることになれていないんです。なので、ボロミアは、特別ですよ」

エルフの誘いに、ボロミアは、ゆっくりと手を伸ばした。

「顔に触れてもいいか?」

「あなたと寸分変わりませぬが、触りたいのでしたら、お好きなように」

触れるボロミアの指は震えているかのようだった。

レゴラスの視線を感じて、指がためらいを深くするのに、レゴラスは、目を瞑ってやった。

ボロミアの指は、壊れものにでも触れるように、レゴラスの顔をなぞっていった。

「ボロミア、女のエルフはもっとなめらかな肌をしていますよ。裂け谷で、願い出れば良かったのに。ボロミアでしたら、喜んで肌を許したでしょうに」

動くレゴラスの唇の上で、ボロミアの指が止まった。

「ボロミア?」

目を開けようとしたレゴラスは、突然ぶつかってきた温かな固まりに、驚いた。

それは、きつく目を瞑ったボロミアだった。

レゴラスを強く押さえつける。

レゴラスは、驚いて目を開けようとした。

しかし、レゴラスを強く掴んだまま、しばらく動きを止めてしまっていたボロミアが、急に動いた。

ボロミアは、歯が痛む程の勢いで、レゴラスの唇に唇を重ね合わせると、勢いよく身を剥がした。

あまりに瞬時のことに、レゴラスは、ボロミアを抱きしめ損ねた。

「ボロミア?」

結局、エルフは間抜けな顔のまま、腕を広げたままとなった。

ボロミアは、背中を向けてしまった。

「すまぬ。私は、……そなたのことが好きなのだ」

逃げ出しそうなボロミアの声だった。

身体を小さくし、今にも逃げ出しそうだ。

レゴラスは、急いで背中を抱きしめた。

「物語のエルフにあこがれるようにですか? だから、触れてみたかった?」

緑の目は、何かを言いたげだったが、うまく言葉を選べずにいるようだった。

やっと選んだのはこの言葉だ。

「……そなたは、きれいな顔をしている」

レゴラスは、後悔するボロミアの目をのぞき込んだ。

「顔が好きなのですか?」

レゴラスは、ボロミアの顎を捕まえ、強引に唇を合わせた。

ボロミアは、呆然とレゴラスに聞いた。

「……エルフでも、こういったことをするのか?……」

口付けの形のままに、唇を開いたままの人間は大層愛しかった。

「私は若いと言ったでしょう?」

レゴラスは、もう一度ボロミアの唇を奪った。

「確かに、エルフは、人間ほどこういった行為に熱心じゃありませんが、私などは、あと、3千年くらい生殖行為が可能でしょうね」

レゴラスはボロミアを抱きしめた腕の幅を狭めた。

ボロミアは、まだ、口を開けたままだ。

「あなたがご存じだった物語のエルフとは違いますが、まだ、私のことを好きだと言ってくださいますか?」

「……、私は、……そなたがきれいだと思う。……そなたが、好きなのだ」

 

 

END

 

 

淡い恋心って奴を(笑)