彼の
その噂は、密やかに流れ始めた。
「あの廊下の影で……」
「お前も見たのか? やはり、そうだろう?」
「しかし、とてもあの方とは思えぬ恐ろしげな顔で……」
石造りの堅牢な城の中で交わされる会話は、うつむきがちに人の口を渡っていった。
名を伏せ、交わされていく会話の主は、もう、この城にいない。
明るい笑顔が引き起こしたにしては、あまりに薄暗い噂は、しかし、その暗さ故、確実に広まっていった。
「どうされたのだろう? 何か思い残すことが……」
「亡くなられた時、綺麗なお顔だったと聞いていたのに……」
「何か悪いことでも起こるのだろうか?」
「何の話をしているのだ?」
ファラミアがこの話を耳にした時には、城内の警備を務める者全てが、よく似た面立ちの執政から目を背けた。
「エレスサール王!」
ファラミアは、無遠慮に王の居室のドアを開け放った。
驚き顔の従者など目もくれず、窓辺にたたずむ王へと足早に近づく。
「王!」
「なんだ。騒々しい。ファラミア」
「王、兄上を愚弄するのは、止めていただきたい!」
硬く引き結ばれた執政の唇は色を失い、眉の間には、深い皺が刻まれていた。
王は、珍しくも感情もあらわな執政に視線を遣ると、従者に下がるよう示した。
だが、従者が礼を示し退出しようという時に、興奮した執政は、王に詰め寄った。
信じられないことに、王に近づいた執政は、手を挙げた。
庭に咲いた白い花が薫る風を執政の手がかき分けた。
反響音が、部屋の隅にまで施された壁のレリーフを打つ。
王は、避ける間があったにも関わらず、執政に頬を打たせた。
「ファラミア、首を切って欲しいのか?」
王は、打たれた頬を押さえることもせず、興奮に目の淵を赤くした執政を見やった。
執政は、大きな声を上げる。
「ええ! 兄上がここに留まっておられる間にぜひ!」
従者は、王よりも遙かに長く仕えてきた若い執政を取り押さえるべきかどうか、一歩前へと足を踏み出しかけた。
「よい」
王が、従者を止める。
拳を握り、きつい目をして王を睨む執政の幼い頃を知る従者は、床に膝をついた。
「ファラミア様、落ち着かれよ」
「どうせお前も知っているだろう! 兄上が! 兄上が! なんで兄上がこんな目に合わなくてはならないのだ!」
「ただの噂でございます。私は、信じておりません」
「しかし! あそこを守る者、全てが兄上を見たと言っているのだ。おかわいそうに、せっかく静かな眠りにつかれたというのに、ここにいる生者の気まぐれで!」
ファラミアは、よく磨き込まれた王の執務机を拳で叩いた。
衝撃にインク壺が転がる。
白い紙に黒が広がった。
髪をかきむしったファラミアは、無礼にも王を指さすと、冷たい目をして睨み付けた。
「生きていた兄上と王の間に、どのような交流があったのかは知りません。しかし、眠りについた兄は、執政家の一員として礼を尽くされる立場にある。この国のものである前に、ファラミアの兄として、誰にも邪魔されず、静かに眠る権利を持っている! いくら、王とはいえ、戯れに死者を愚弄するのはやめて頂きたい」
今すぐと、きつい目を止めないファラミアから、視線を逸らした王は、執政に比べれば、ずっと冷静な老従者に視線を流した。
この世の全てを知ろうと努力を怠らない深い青が、事情を尋ねる。
「ただの噂でございます」
膝を突いた従者は口が重かった。
王は、柔らかな視線でさらに尋ねる。
「ボロミア様の亡霊が城の中をさまよっていると、城内で噂になっているのであります」
「兄上が、迷うはずはない! 無理矢理兄上を連れ戻している者がいるのだ! せっかく静かに眠っておられる兄上を邪魔する者がいるのです!」
ファラミアの視線は、王の上から動かなかった。
王は、わずかに首を傾げた。
「わかった。その場所へ連れて行ってくれ。ボロミアに会えるものならば、私だって会いたい」
「嘘をつきなさい! あなたに無理矢理引き戻された兄は、顔立ちも恐ろしく!」
王は、初めて強い声を出した。
「ファラミア、お前は、兄をその目で見たのか!」
執政が息をのんだ。
少しばかりせわしない王の足取りの前を、老従者は先導した。
そこは、この城を守ってきた先達たちの遺品が傷まぬようにと、光の差し込まぬ暗い場所だった。
多くは、肖像。
その他に、高価な美術品が、長く続く廊下に展示されていた。
国中から愛され、美貌を誇った執政家の妻達が、愛用した数々の品が、緋色の絨毯を飾る。
「この場所でございます」
老従者は頭を下げた。
「ここで、ボロミア様が歩いているのを見たという者もおりますし、剣を振り上げていたと申す者もおります」
口を閉じた老従者を王はわずかな視線だけで、もう一度話させた。
「……私は……ただ、ここに立っていらっしゃるボロミア様を拝見しただけです」
ファラミアは舌打ちした。
王は、口をつぐんでいた老侍従を責めもせず、静かに尋ねる。
「それは、噂通り、恐ろしげな顔だったのか?」
「いえ……、あの、表情が恐ろしげだったというわけではないのです。……、ただ、顔の半分に酷い傷を負っていらっしゃいました。……あの、王、こんなことをおたずねするのは、身を過ぎることだということはよく分かっております。ですが、ボロミア様の最期は……」
「勇敢に指輪保持者を守ったのだ。無傷だったとは言わない。だが、顔は、あのままだった。お前達が愛したボロミアのまま、どこにも傷のない綺麗な顔のままだったよ」
王は、顔を覆う髭を手で隠すようにして口を覆うと、小さなため息を落とした。
「すまない。私にも、どうして、ボロミアがここに現れたと言われるのか分からない」
「嘘だ!」
きつい眼差しのままのファラミアは叫んだ。
王は、振り返ると、眉を寄せて尋ねた。
「ファラミア、あなたの母上の遺品がここにあるか?」
はぐらかすエレスサールに、切れ上がった眦から涙がこぼれ落ちるのではないかというほど張りつめた顔の執政は、足音も荒く王より前を歩いた。
「ここに、肖像が」
たっぷりとした金の髪が肩を覆う優しい顔の女が目を伏せていた。
肖像に手で触れた王は、小さく首を振った。
「違う」
小さな王の声を、ファラミアは聞き止めた。
「何が違うと言うのです! 兄は、こんな暗い場所にいていい人ではない! 兄を弄ぶのは止めて貰いたい!」
しかし、王は、ファラミアを置いて、執政家を彩ってきた花達の形見をつぶさに触っていった。
「これも、違う。母でなければ、誰なんだ。ファラミア、ボロミアが慕っていた親族はいないのか?」
「一族中が、兄を愛しておりました。兄は、誰をも愛しておりました!」
王は、答えにかこつけたファラミアの恨み言を聞き流す。
「ボロミアの遺品なら、居室にそのまま残してある。どうしてそれを使わない。そもそも、どうして、ボロミアが現れるのが、ここなんだ」
だが、今はもう色のない薔薇の縁取りのある鏡の前で、王は立ち止まった。
そこには、かすかな魔法の匂いが残っていた。
匂い。
こうとしか言いようがないが、魔道を肌で理解出来る人間ならばかぎ分けられる匂い。
「……ここだ」
わずかにその血が流れるファラミアも、指摘されて初めてその匂いを感じたようだ。
「やはり、あなたが!」
鏡としての役割をいまだ、勤める曇りのないなめらかな表面が、王の背後に怒りのあまり涙を浮かべた執政の姿を映しだした。
身を翻した王は、後を追う、ファラミアと、従者にも目をくれず、城の奥へと急いだ。
向かった先は、王妃の部屋だった。
さすがに、扉の前で立ち止まったファラミアを置いて、王は、美しい王妃の前に膝を折った。
「機嫌はいいかい?」
王妃の白い手に口づけた王は、控えめに微笑む王妃の座るソファーの隣に腰を下ろした。
大きな瞳で、用件を尋ねる人外の姫の頬に口付け、王は、優しく髪を透いた。
「君は、今、城内を騒がせている噂を知っているかい?」
王妃は、にこりと笑った。
「ええ、殿方よりも、ずっと私どもの方が時間を持て余しておりますから」
王は、聡明な王妃の額に口づけた。
困ったような顔をした王は、穏やかな王妃の目をじっと見つめると、口を開いた。
「君は、それを、この国の人にために良かれと思ってやっているのかもしれない。確かに君に取って、あの位のことは、何でもないことだろう。だが、わかって貰いたいのだが、この国の人間は、ボロミアの姿を見たいと望むよりも、遙かに強く安らかに眠っていて欲しいと望んでいる。眠りを邪魔された死者が、何時までも、昔のままの姿をとどめておけないことも、君は知っているはずだ」
王妃は、優しい声で聡そうとする夫を緩やかに押した。
「王、私は、人に嫁しました」
王妃は、優しい夫を軽く睨んだ。
「確かに私は、エルフですから、人の気持ちというものに疎いかもしれません。ですが、エルフも、死者を敬う気持ちを持っております」
「それは、分かっている。私も半エルフのようなものだ。君の父上は、世界を尊ぶことを私に教えてくれた。……しかし」
「確かに、白の魔法使いがいない現在のこの地に置いて、あなたを除けば、魔法を操るのは私だけでしょう。けれど、王、私は、ボロミアをないがしろにするつもりなどありません。あなたも、私をないがしろに扱うことは止めていただきたい」
王妃は、ドレスの裾を持ち上げ、椅子から立ち上がった。
「王、この国と治めようとご努力なさっているあなたの目は、今、大きなものばかりを見ようとしている。しかし、もっと小さなものが息をしていることを思い出すことも必要なのではないでしょうか?」
「アルウェン?」
王妃は、王を置いて奥の部屋へと歩き出した。
「今晩、月が出ましたら、ボロミアに会いにゆきましょう。多分、もう、そんなに彼の姿を見られることなどないでしょうから」
王妃は、少し寂しそうに笑った。
天空には、冴え冴えと月が輝いていた。
憮然とした顔のファラミアと、困惑を隠しきれない王が所在なく蝋燭の炎が揺れる廊下に立っていた。
それから、ずいぶんな時が経ち、王妃は、たった一人残していたエルフの侍女を連れて現れた。
この国に嫁してからは着ることのなくなった緩いエルフの衣装を身につけていた。
人の手では作ることのできない繊細なエフルの装飾品が耳を彩っている。
「王妃」
膝を付こうとしたファラミアを王妃は、唇の前で指を立てることによって押しとどめた。
王妃は、この国の国民に見せていた顔を脱ぎ捨てていた。
控えめに微笑んでいた笑顔をそぎ落とすと、近寄りがたいような威厳に満ちたエルフの美貌をそのままに、ファラミアに命じた。
「静かになさい。どんなに待たされても、穏やかな気持ちで待つのです」
何を待つのか、王妃からの説明はなかった。
この廊下だけを避け、見回る警備の者たちブーツが、何度も王の視界を過ぎった。
ちらちらと視線を投げかけていく警備の者達は、そこにいるのがこの国で最も身分の高い者達だと分かると、すぐさま視線を外した。
普段、一番穏やかな顔をしているファラミアが最初に焦れた。
王妃からの小さなため息が聞こえた。
「待ちなさい。ファラミア、あなたは、自分だけが、ボロミアを愛しているのだと勘違いをしている」
「……いつまで、ですか?」
それから、まだ、長い時間が過ぎ、ファラミアは、とうとう死者を弄ぶ夫婦を睨んだ。
「いつまでお待ちすれば、ボロミアは、あなた方から、解放されるのでしょう?」
「ボロミアは、もうとっくに解放されています。あなたは、誤解している」
「しかし、アルウェン……」
だが、王も、そこに残る魔道の香りにエルフの妻を疑っていた。
今、この国で死者を呼び覚ますようなことが出来る魔法が使えるとしたら、妻だけだ。
残念だが、ファラミアが疑うようには、エレスサールはそこまで高度な魔法を操ることなど出来ない。
「しっ」
指を立てたアルウェンが、遠く、あの鏡のある方向を指さした。
そこには、ボロミアが、立っていた。
蝋燭の光の中、金の髪が輝き、たくましい肩、腰から下げた剣もそのままに、かの日のボロミアがそこにいた。
ファラミアが駆け出そうとした。
王が留めた。
ボロミアの顔がこちらを向いた。
輝くような笑顔だった。
王と、ファラミアは息をのんだ。
だが、顔の半分には、酷い傷跡があった。
片目がつぶれていた。
これが、ボロミアの噂を重苦しいものとした原因だろう。
古い傷らしく、噂にあったように地獄の亡者達のようにおどろおどろしく爛れているようではなかった。
しかし、その顔で、ボロミアは、優しい顔をして笑っていた。
エレスサールが瞳を閉じたボロミアには、こんな傷などありはしなかった。
王妃の指先が、ボロミアの足下を指した。
王と、ファラミアは、指の先をおって、汚れたボロ布のようなものを見つけた。
「何……?」
つい、ファラミアが大きな声を出した。
ボロ布が、動く。
王妃は、王に命じた。
「捕まえてください」
王は、腕の中で押さえていたファラミアを投げうつと、すばらしい勢いで廊下を駆けた。
王妃は、野にいる頃と変わらぬ夫の動きに満足そうに目元を緩めた。
王は、ボロ布、いや、昔は黒かったろう毛も抜け落ち、あちこち皮膚病を病んでいる老猫を抱き上げた。
「これが?……いや……、これなら、わかる」
頷いた王は、手の中で暴れる老猫をしげしげと眺めた。
猫を手に、近づいた王に、ファラミアが顔を背けた。
「臭い……」
酷い皮膚病を患っている猫は、死臭を漂わせていた。
猫は生きながら、腐った肉の匂いをさせている。
王妃は、王が近づくのを待ち、侍女に持たせていた香油の壷へと指を入れた。
「お分かりになりましたか? 我が王。誰も、ボロミアを死の国の安らかな眠りから呼び覚ましたりはしておりません。その猫は、在りし日のボロミアの姿を懐かしんで映し出していただけ」
「力のあるあなたが使った魔法だから、痕跡が僅かなのかと思っていたが、……もともとの力が弱かったのだな」
王妃は香油で濡らした指で唇に触れると小さな声で呪文を唱えた。
王の持つ老猫に近づく。
猫は、病んだ猫は、殆ど抜け落ちた歯を剥いて暴れた。
猫の口からは、腐った匂いがした。
ファラミアは、口元を手で覆う。
しかし、肉が爆ぜ、膿んだ猫の皮膚に王妃が顔を近づけた。
「アルウェン?」
王が猫を引くより先に、王妃は、猫の傷ついた目に口付けを与えた。
ファラミアが口を開いた。
「その猫」
ファラミアは目を見開いていた。
「……思い出しました。昔は、このあたりのボス猫だったんです。ボロミアが気に入って、気まぐれに餌を投げ与え……」
ファラミアは、言い募った。
「私は、その猫が大嫌いだったんです。餌をやるボロミアにも、誰にもなつかず、ただ盗むように餌だけを咥えて逃げたのです。なのに、ボロミアは、猫だってボスならば、人の手から餌を貰っているところなど、手下の者には見せられるものではないからな。と。いつも笑って」
王妃が唱えていた歌のようなものが終わると、王は猫を掴んでいた手を緩めた。
老猫は、身体をよじって王の手の中から逃げ出すと、足を引きずりながらに走り出した。
「ボロミアは、猫のあの目の傷も気に入っていたんです。きっと自分の配下の猫を助け出すために負った傷に違いないと決めつけて」
必死になって逃げる猫が鏡の前を通りかかった。
猫の片目は、相変わらずつぶれていた。
しかし、一瞬映ったボロミアの影は、緑の両目が揃っていた。
「あれだけ生きた猫ならば、命をかければ、愛しい人の姿を鏡に映し出すことくらいはできるかもしれない」
「ええ、あんな小さいものも、未だボロミアを愛しているのです」
その後、しばらく、いままでよりもずっと多く現れるようになったボロミアの幽霊の話題が城の中で持ちきりだった。
幽霊は、緑の両目を細め、輝くような笑顔で笑っていたそうだ。
そして。
それから、しばらく経ち、ファラミアは、猫の死骸を城の庭の片隅で見つけた。
ファラミアは、もはやボロ布ですらなくなってしまった猫にボロミアのマントを惜しげもなく与え、それに包み埋葬した。
END