浮世はなれて
スパルタ王の閉鎖的で薄暗い宮殿内に唯一、気に入った場所がある。
遮る物がなく陽光の射すこの中庭がそうだ。
陰気な室内に飾られた戦利品を眺める位なら海を見ていた方がいい。
謁見に遅れようと、その言い訳を考える事も出来る。
それとも同盟を結んだトロイに思いを馳せるか。
いや、イタケには大した関係もあるまい。
何気に首を回した私は若い男が階段を昇ってくるのを見た。
青い衣が眼を射つ。
此処まで届く潮風に異国風の衣裳と暗色の巻毛が揺れる。
青年は人の気配を感じていながら反応しない。
どこか尊大な佇まいは他人を気遣う必要の無い環境にいる証拠だ。
観察を続けながら瑞々しく張りのある琥珀色の肌が近付くのを待った。
上等な香油の香りがその正体をまたひとつ暴く。
トロイの王子が来ていると聞いたが、この青年がそうかもしれない。
彼は驚く事もなく私を見上げた。
黒い眼が愉しげに光る。
私は全身を漫然と見ていた眼を青年の顔に当てた。
彼も真直ぐ見返し、それから華が綻ぶ様に笑った。
甘い顔立ちに相応しく心の杯を蜂蜜酒で満たす様な笑顔だ。
気付いたら懐にいた様な、それでいて押しつけがましくはない親しみが籠っている。
匙加減を変えて見つめれば女は身の蕩けそうな悦びを感じるだろう。
もしトロイの王子ならば、恋の浮名を流す弟の方に違いない。
そう思いながら長椅子の隣を勧めた。
彼は礼を示してから優雅に腰を下ろす。
「ここは居心地の良い場所ですね」
「宮殿内で息がつけるのはここだけだからな」
顔を顰めて見せると彼は可笑しさを堪えるために薄い唇を噛んだ。
愛らしい仕草がこちらの笑みを誘う。
「あなたは何処から来たのですか?」
彼も私の出で立ちに何かを感じたのだろうか。そう尋ねた。
「イタケだ。小さな島だが居心地はいい」
大仰な媚を連ねた世辞を予測しながら教えた。
「イタケ」
彼は咳いて見知らぬ土地を探す様に眼を細める。
青年の故郷に爽竹桃はあるだろうか。
今頃なら男達はその木陰で昼寝をし、家事の手を止めた女達も微睡む。
静けさの中で妻が私の無事を神に祈っているかもしれない。
島は数日前に出た時と変わらぬはずだ。
国を思って緩む私の顔を彼はじっと見ていた。
どんな風景を描いたのだろうか。
海の方へ向けた横顔がゆっくり微笑んだ。
「行ってみたい・・・・」
彼の答は暫し私を酔わせた。
声に滲む憧憬が胸を打つ。
その言葉に免じて私は詮索を止めた。
策略を術に生き延びる者ではなく、イタケから来た男として彼の記憶に残ろう。
「此処からは見えませんか?」
額に手をかざした彼は真剣に探している様だった。
「無理だな。方角が違う」
私はもう満面に広がる笑みを隠せない。
横で彼は長い間、海を見つめていた。
顎から耳にかけての綺麗な線を見せながら熱心にイタケを探す。
やがて諦めた彼は華が萎れるように姿勢を崩した。
「残念だ」
言いながら私の眼を覗き込む。
そこに島影が映る事を期待しているかの様な表情で。
「何時か来るといい」
髭を擦りながら私は優しい声を出した。
うなだれた姿にほだされたのだろうか。
「私が島を案内してやろう」
続けて思わず巻毛に触れたが彼は避けなかった。
掌の下で嬉しそうに笑って頷く。
口約束を疑わぬ子供がこんな表情をする。
私は生まれたばかりの息子を思い出しながら、彼の頭を何度も撫でた。
END