憑かれた男

 

 

辺りに満ちている香油の匂いは自分からもしていだが、その本来の持ち主は

隣で眠っている弟だった。

ヘクトルは寝台の上で横を見る。

しなやかな身体の上に乗った、華の様に綻んだ顔を見る。

数知れぬ女の寝所を渡リ歩いているのに、未だ人を陥落させる威力を失わない

初々しく甘い笑顔を浮かべる事の出来る顔を。

戦場より女の寝台にいる事の方が多い、滑らかな肌からそっと退いたヘクトルは

手早く腰布を巻くと、一度振り返ってから都屋を出ていった。

回廊の途中で脚を止めたヘクトルは幽かに見える海に眼をやり、顔を顰めた。

船上でのやり取りが頭に甦る。

しかし本当に後悔しているのはその事ではなかった。

(もっと早く)

皮膚の厚い拳が石柱を打つ。

(いっその事、殺せば良かった)

眉間に深い皺を刻み、パリスを剣で貫く所を想像してみる。

実際はそこまで至らないだろう。

剣を抜けばパリスは必ず言うに違いない。

「兄さん、許して。もうしないよ」

地に額を擦りつけ、脚に縋り付いて泣くだろう。

媚びと、許されると信じている高慢さを隠さずに。

(その背中を一思いに突いてしまえば)

実際に許しを請う姿を見下ろすかの様に、ヘクトルの視線が落ちる。

貫かれたパリスは最初で最後の兄の裏切りに顔を歪めて死ぬ。

未練がましく、脚に指を絡めたまま。

(許したのなら・・・・)

パリスは笑顔で身を起こし、寛大な兄を抱き締めて頬に接吻ける。

「愛してるよ、兄さん」

そう言って高慢さの欠片も無く笑うだろう。

愛される事を当然とし、自分の愛を気儘に振り撒く、愛の事しか考えていない

軽薄なパリスの笑顔。

その笑顔がヘクトルを惑わせる。何もかもを曲げさせる。

(本当は俺が一番酷い)

うわべに騙される愚かな女達を、ヘクトルは嗤う事が出来ない。

(俺は知っているのに)

「許すからだ」

ヘクトルの呟きは砂と一緒に風に乗った。

 

END

 

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