踊る蛇

 

 

外した髪飾りを掌の上で転がすと、鈴の様な音がする。

パリスは不意にそれを握り締め、壁に向けて強く投げ付けた。

耳障りな音を立てて四散した髪飾りは部屋の隅まで飛ぶ。

「死ねばいい・・・・」

押し殺した声で呟きながら、憎悪に満ちた眼で脳裏の残像を睨む。

腹の大きく迫り出した醜い姿の女を。

「子供ごと死んでしまえばいい!!」

眉根を寄せて唸る険しい顔は兄に似ていた。

 

節の太いヘクトルの指が馴染んだ感触の肩に触れ、膨らんだ腹をそっと撫でる。

妻はその指に自分の白い手を重ねた。

今日から出産まで妻は宮殿の別棟に籠もる。

戻ってきた時はこの子に直に触れられる、とヘクトルは思う。

「もう行くわ」

「希望があれば父上はそれこそ何でも叶えるだろう」

注意深く抱き寄せると、妻は慎み深く笑った。

「何も。無事、生まれてくれる事だけが望みです」

「子供を抱いたお前ごと抱き締めるのが俺の夢だぞ」

既に父の顔になっているヘクトルも笑う。

パリスが来たのはその後に続いた接吻けの最中だった。

窺う仕草にヘクトルが和んだ眼で入室を許すと、蒼く染めた平服は大股で近付く。

「姉上、元気な子を生んで下さい。兄の為に、トロイの為に。アポロ神に供物を

捧げて毎日祈ります」

朗らかに笑って手にした香草の束を差し出す。

「気の和らぐ香草です」

「何処かの女に聞いたのか」

ヘクトルは茶化したが、妻は潤んだ眼で香草と贈り主を見る。

「パリス、可愛い弟。あリがとう」

こうしてヘクトルの妻は夫婦の部屋を後にした。

 

夜になると宮殿内は松明を写した澄色に変わっていく。

揺れる光が当たると、金の髪飾りは鋭く光った。

外した分を握り締めながらパリスは次々とそれを取る。

黙々と動く身体は香油のせいで装飾品の様に光を弾く。

全て取り去るとパリスは腰布に上衣を羽織っただけで廊下に出た。

(かつては兄さんの部屋だったのに)

パリスは優雅に裾を捌きながら顔を顰める。

(今では夫婦の部屋だ)

悪意を込めた眼で残像を睨む。

(弟なのに、あの女に気を使わされる)

不規則に配置された闇に溶けながらパリスは歩く。

(死んでしまえばいい。戻ってくるな)

(あんな女、死ねぱいい。死ね、死ね、死ね、死ね)

呪咀に合わせて角を曲った。

戸口から此方を向いた立姿が見える。

「部屋に戻るんだ」

ヘクトルの腕は胸の前で固く組まれていた。

「帰れ」

言葉も弟を制する。

「何故?」

パリスは怪訝な表情すら見せない。

「ギリシャ人の技娼を呼んだ?」

微かに首を捻り、部屋に脚を踏み入れる。

「それは妻を娶る前の話だろう」

険しい眉の下からヘクトルは弟を睨む。

近付いたパリスは腕を延ばし、軟らかい指先で髭を撫で下ろす。

「兄さんは僕の事を愛してくれる」

「それも昔の事だ!!」

答えた顔が逸れようとして留まった。

しかし、視線は一瞬だけ脇へ流れる。

兄弟は同じ色の眼をしていたが、印象が全く違う。

ヘクトルが雨風を耐え凌げる黒曜石を研いた珠。

パリスは夜を映した水面。

淵に立った者を揺れて誘う。

乾いた唇で呼吸をしながらヘクトルは言葉を選ぶ。

(変わらない。兄さんは十年前のあの時も、こんな顔で怒った)

パリスはそれが嬉しくて、ヘクトルをじっと見上げていた。

 

END

 

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