オデッセウスルール ルールbP

 

その日の戦いは、ギリシャ軍に近い浜辺付近で行われていた。

長く続く戦いの日々は、大掛かりな武器戦の日もあれば、ただの鍔擦り合いの日もあった。

今日は、鍔釣り合いの日だ。

朝の軍議の時に、オデッセウスがまるで口を利かなかった。

その上、アキレスが、ミュケナイ王の眼前だというのに今日は戦いに出ないと言い放った。

この2人で、ギリシャ軍が成り立っているわけではないが、2人は、戦いの重要な要素だった。

オデッセウスの笑いを含んだような優しげな声が、作戦をしゃべれば、兵士たちは、その気になった。

先陣をきって、突っ込んでいくアキレスがいれば、兵士たちも勇気が湧いた。

連日の暑さもあって、兵士たちはだれだれになっていた。

アキレスは、パトロクロスとともに、戦車に乗って立っていた。

自分の兵隊の戦い振りを抜き打ちの試験よろしく監督していた。

太い腕を組んで、睨みを利かせていた。

そのせいでアキレスの兵隊だけは、元気がいい。

そこから、程近いところに、難しい顔をしたオデッセウスが、これまた戦車に乗って立っていた。

にこりともしていなかった。

アキレスに睨みつけられているテッサリアの兵士はどうあれ、微笑む太陽の無い、他の兵士たちは、やる気がでない。

お陰で、戦列は、とうとうギリシャ軍の浜辺近くまでトロイに押し戻されていた。

 

「どうして、そんなに難しい顔をしているんだ?」

オデッセウスが、戦地から一歩身を引いて、戦いの最中に指揮をとっているのは不思議でもなんでもないことだった。

だが、今日のオデッセウスは、苦虫を噛み潰したような顔をして、戦況を見つめていた。

こんなことはめずらしい。

確かに、ギリシャ軍は、戦功を上げていなかった。

だが、この程度のことは、長い戦いを続けていればよくあることだ。

一気に攻め落とせることなどほとんどない。

陣地を取り、取られ、それを繰り返しながら、じりじりと自軍の有利を掴んでいく。

普段なら、楽しげな目をしたまま、軽く野次を飛ばすくらいの余裕を持って戦闘の指示を出しているオデッセウスが、ずっと押し黙ったままなのを不思議に思い、アキレスは、馬を寄せた。

パトロクロスは、巻き毛の軍師を構いたがる自分の従兄弟を呆れた目で見た。

従兄弟は、ギリシャ軍の軍神だと言っても差し支えないほど強い。

なのに、アキレスはこの軍師にはとことん弱かった。

いくら、パトロクロスが、大掛かりな戦争があるらしいとそそのかしても、ミュケナイ王の召還には絶対に応じないと、息巻いていたくせに、この緑の目の軍師がテッサリアに顔を出しただけで、いそいそと戦いの用意を始めた。

オデッセウスは、にこりと笑っただけだ。

パトロクロスがかき口説いた幾百もの言葉を使うこともなしに、アキレスをその気にさせた。

パトロクロスはあまりこの軍師が好きではない。

「どうした?オデッセウス」

アキレスは、返事を返さない軍師の隣に戦車を横付けにし、軍師の顔を覗き込むようにした。

「どうして返事をしない?」

軍師は、視線だけをアキレスにくれた。

アキレスの目が楽しそうに笑った。

間に立ったパトロクロスは、従兄弟の頭を叩いてやろうかと思った。

犬が尻尾を振るように、軍師の周りをうろちょろするアキレスは、はっきり言ってみっともない。

この軍師が、親しげな笑い顔の下に、絶対にもうひとつ顔を持っているに違いないと思っているパトロクロスは、餌が欲しいという態度をはっきりと見せるアキレスを嫌だと思っていた。

いや、アキレスほど強い男だからこそ、はっきりとその態度を表明できるのだということは分かっていた。

大抵は、伺うような目をしてイタケ王の周りに群れた。

そっちの方が、数倍格好悪かった。

だが、従兄弟を崇拝してやまないパトロクロスは、テッサリアでみせていたように、誰にも寄りかからないアキレスが好きだった。

「どうした?何故、返事をしない?」

アキレスは、口を開こうとしないオデッセウスに向かって手を伸ばした。

赤い巻き毛に親しげに触れた。

オデッセウスは、アキレスが触れることを許したが、口を開こうとはしなかった。

「どこか体の調子が悪いのか?今日は、お前が飛ばす下品な野次も聞こえないようだし」

やはりオデッセウスは口を利かなかった。

口が回るというよりも、それを商売にしているオデッセウスにしては、珍しいことだった。

アキレスの質問に、オデッセウスの隣に立った部下が答えた。

「オデッセウス様は、すこし喉を痛めておられるのだ」

イタケの兵隊は、皆、王に命をかけていた。

よそ者のアキレスが王を構うのを好まない。

アキレスに話し掛けるのも嫌だという顔をして、真っ直ぐ戦場を見つめたまま、イタケの兵は答えた。

アキレスは、兵士の機嫌など頓着しない。

「どうして?風邪でも引いたのか?」

オデッセウスの額に触り、熱でもあるのかと確かめようとした。

オデッセウスが首を振った。

腕を組んだまま、とても、難しい顔をして、口を開いた。

「…干し果物が喉に詰ったんだ。その時傷ついたんだと思う。痛いんだ。話をしたくない」

囁くような小さな声だった。

耳を澄ましていないと聞こえない。

オデッセウスは、話しきると、喉を押さえて、顔を顰めた。

もう二度と口を開きたくないとばかりに唇を引き結んだ。

アキレスの顔が一気に明るくなった。

軍師は、思い切り嫌そうな顔をした。

だが、アキレスは、パトロクロスに馬の手綱を預け、無理やり位置を変わらせた。

「見せてみろ。どうなっているか、見てやる」

後ろに身を引こうとしたオデッセウスの顎を捕まえ、大きく口をあけさせた。

周りの皆があっけに取られるほど、早い動きだった。

オデッセウスなど、威厳を取り戻すため、もう一度組みなおそうとしていた腕が、そのままの状態だ。

アキレスは、赤い口の中を覗き込み、ふむふむと小さく頷いた。

「腫れているな。これは、痛いだろう」

オデッセウスの隣に立つイタケの兵は、大事な王に狼藉を働くアキレスに、大きく目を剥いた。

助けようと、手綱を放り出そうとするのをオデッセウスが手を振って止めた。

オデッセウスは、髭面を振ってアキレスの手から逃れようとした。

アキレスの力は強かった。

アキレスは、オデッセウスの口を大きく開けさせたまま、口の中に指を突っ込んだ。

「ここだ。ここが痛いんだろう?」

「……痛…・いぃ」

掠れた悲鳴をあげたオデッセウスの目が潤んだ。

アキレスの長い指が、オデッセウスの腫れた口内を触ったのだ。

緑の目尻にかすかにだが、涙が浮かんだ。

 

ギリシャ軍の兵士たちは、最愛の軍師がいたぶられる姿に、総崩れになった。

我先にと、自軍の陣地へと戻ろうとするので、戦況は最悪になった。

その戻りの早さは砂煙が立つほどで、オデッセウスの口を開かせたままのアキレスは、おやおやと肩を竦めた。

「オデッセウス、陣形が崩れているぞ。お前の一声がないことには、今日の戦の負けは決まったな」

アキレスは、日暮れの鳥のようにオデッセウスの元へと一目散に戻ってくる兵士たちを笑い、その先陣をきるイタケの兵を笑った。

オデッセウスは、アキレスを睨みつけた。

何とか自分の身体を取り返し、しきりに喉を撫で、辛そうに目を閉じてから、薄い唇を開いた。

「戻れ!誰が、もう終いだと言った!!それでもお前たちは、この俺の兵士か!」

オデッセウスが、いつもより格段に力なく、掠れた声で兵士を叱った。

さすがだ。

兵士たちの足が止まった。

「俺はちゃんとここで見ている。戦闘に戻れ。トロイに背中を見せるな!」

更に軍師は兵士を煽った。

兵士たちは、心配そうな顔で軍師を見上げた。

大声を上げたオデッセウスは、大きく何度も咳き込んだ。

アキレスは、強引にオデッセウスの喉を、もう一度覗き込んだ。

「な・なにを…」

戦地へと戻りかけていた兵士たちが、ひいっっ!っと、叫んだ。

オデッセウスの顔、ほんの1センチまで、アキレスが近づいていた。

「おい、そんな大声を上げると、血が出るぞ」

口の中を覗き込んだまま、楽しげに笑ったアキレスを、オデッセウスは突き飛ばした。

アキレスは、駈け戻ろうとする兵士たちを、しっ、しっと、手を振って追い払った。

その隣で、機嫌悪くオデッセウスも、手を振って兵士たちを追い返した。

オデッセウスは、口が利けないのだから、仕方がないのだが、兵士たちは、耳を垂れた犬のようだった。

愛する主人に追い払われ、後ろを振り向きつつ、戦場に戻った。

パトロクロスが、笑い転げるアキレスを受け止めた。

アキレスは、大声で、尻尾を丸めた兵士たちの背中に話し掛けた。

「お前たちも、大変だなぁ。食い意地の張った軍師を持ったお陰で、なんの指示もなく戦場にほっぽっとかれるんだ!」

陽気な従兄弟は、オデッセウスの隣に立つ、イタケの兵にまで話し掛けた。

「オデッセウスは、何の果物を食ってたんだ?どうせ、お前らが、次々に、こいつにくれてやったんだろう?始終甘いものを食ってるもんな。イタケでは、王を太らせて、どうしようと考えているんだ?丸焼きか?皆でおいしく頂く気なのか?」

アキレスは、そう言うと、筋肉というにはぽちゃりと柔らかいオデッセウスの太腿を撫で上げた。

短いキトンのなかにまで、手を入れた。

イタケ兵は、オデッセウスを押し退けてまで、アキレスに殴りかかろうとした。

オデッセウスが慌ててとめた。

自分の兵が、アキレスに敵わないことなど、オデッセウスが一番知っていた。

オデッセウスが、渋い顔で、アキレスを指で招いた。

アキレスは、パトロクロスの腕の中から、するりと抜け出していった。

アキレスと、オデッセウスは、額を付き合わせるほど、近くに寄った。

オデッセウスはアキレスの耳元で掠れた声で囁いた。

本当に、声を出したくないのだろう。

耳を噛みそうなほどの近さだった。

「アキレス、ルールbPだ。余計なことを言うな。お前がしゃべるとろくなことにならない」

オデッセウスの目は険悪だった。

普段の涼しげな優しい目が嘘のようだ。

パトロクロスは、やはりと、思った。

この性悪な顔が軍師本来の顔だと思った。

アキレスはにやりと笑った。

「愛のささやきなら、もう少しマシな内容にしてくれ。無粋だな、オデッセウス」

その上、アキレスは、オデッセウスの耳を引っ張りとても優しげな声で囁いた。

「オデッセウスには、そんな顔は似合わない。もっと笑えよ。食い意地が張っているせいで、声がだせないなんて理由、俺に笑われて当然だろう?」

軍師の冷たい目をものともしないアキレスは、食い意地が張っているという部分を特に強調した。

すこし、ふっくらとした軍師の腹をしげしげと見た。

大きな声で、果物が喉に詰ったせいで文句も言えないとは、可愛そうなことだと、しきりに繰り返し、からかった。

 

ギリシャ軍は、混乱を極めた。

ただでさえ、いつも軽やかな笑顔で自分たちを見守り、知恵を授けてくれる軍師が不調で最初から戦況が不利だったというのに、アキレスが、しきりにオデッセウスを構うのだ。

ギリシャの兵たちは、大事な軍師の身になにかあったらと、気もそぞろで戦争どころではなかった。

後ろが気になり、トロイの兵士と真面目に打ち合ってなんかいられない。

どんどんと後退をするギリシャ軍の戦列に、とうとうトロイの大将たちが、ギリシャの陣地へと顔を見せ出した。

まだ、遠いが、しゃんと馬に乗ったヘクトルが見えた。

その後ろに、隠れるようにしてパリスもついてきていた。

 

「お前の喉を傷付けたのは干し無花果辺りか?あれが、一番好きなんだろう?」

アキレスは、口の利けない軍師を相手に、いつまでもからかいを続けた。

オデッセウスの乗る戦車に手をかけ、馬を動かし、位置を変えようとした兵士を邪魔した。

「お前、アレが好きだよな。いつももしゃもしゃ食っていて、おまけにくれると言われれば、ミュケナイ王の手からも貰って食ってるんだから、本当に食い意地が張っている」

「誰がくれたんだ?お前のとこの兵士たちは、もうとっくにお前に無花果を差し出してしまって、誰も持っていないんじゃなかったか?」

オデッセウスは迷惑そうな顔をしていた。

「なんでもかんでも慌てて口にいれるから、そういう痛い目に合うんだ。これからは、気をつけろよ。わかったか?」

アキレスは、オデッセウスの頬を撫でて、優しげに言い聞かせた。

ずっと、アキレスを無視して、我慢していたオデッセウスだったが、とうとう、怒りのあまり小さく震え出した。

緑の目が、吊り上っていた。

ずっと引き結ばれていた唇がぱっかりと口を開けた。

オデッセウスは、大きな声でアキレスを怒鳴りつけた。

「繰り返す、ルールbP 余計な口は利くな!お前はうるさいんだよ!わかったか、この筋肉デブ!」

叫んだ途端、オデッセウスは、咳き込んだ。

ごほごほとくり返し咳き込み、口に当てていた手を離すと、そこは赤く汚れていた。

「…オデッセウス!!」

一番最初に動いたのは、アキレスだった。

アキレスは、オデッセウスを戦車から引き摺り下ろし、抱き上げたまま、一気に陣営まで駈け戻った。

疾風のような早さだった。

軍師を守ろうと駈け戻ってきていたイタケの兵士たちを、アキレスはものともせず蹴散らした。

まるで軍師が死ぬか生きるかの瀬戸際にあるような恐ろしい迫力だった。

ギリシャ軍の兵士たちは、軍神アキレスに姫抱っこをされて連れ去られる軍師を見送るしかできなかった。

あとには、白けた空気が残った。

トロイの兵士たちまで、何事が起ったのかと、物見高くこちらを見ていた。

 

パトロクロスは、周りを取り囲む自軍の兵士に冷たく睨まれ、大変居心地の悪い思いをした。

視線が矢のように突き刺さった。

あの獣を野放しにするな!と、口に出しては恐くて言えない兵士たちは、アキレスの代わりにじっとりとパトロクロスを睨みつけた。

パトロクロスは、顔を上げているのが精一杯だった。

アキレスの兵隊が、まじめにトロイとの戦闘に精を出ていたため一番遠くにいたのも、心細かった。

これだけの兵士に睨みつけられ、平然としていられるには、そうとう強い心臓が必要だった。

…あの従兄弟のような。

だが、あれは特別製だ。

ギリシャ全軍に睨みつけられ、小さくなっているしかないパトロクロスだったが、言えるものだったら、あの軍師こそ放し飼いにするな!と、叫びたかった。

そもそも、アキレスがおかしいのは、あの軍師のせいだ。

パトロクロスは、駆けつけたエウドロスに庇われ、まるで逃げるように不実な従兄弟を追った。

 

その日のギリシャ軍は、それまで有利にすすめていた戦線を一気に陣地付近まで後退させた。

オデッセウスのいない今、誰も、戦線へと戻ろうとしなかったのだ。

 

 

血を吐いたオデッセウスの元には、山のような干し無花果が届いた。

お見舞いの品のうちには、補給に頼るしかないギリシャ軍の誰かからとはからとは考えにくい、とても立派な果物の盛り合わせもあった。

 

 

END

 

 

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生温いネタで一つ。(笑)

エッチもなしで、ごめんなさい。(笑)