ある日のメモ 3
バーでは、かなり長い間、駆け引きが行われていた。頭を寄せ合うようにしてくすくすと笑いあっているのは、サムの兄であるディーンと、ブルネットの髪と少し厚めの唇がセクシーな美人だ。額を擦りあうほど顔を寄せて、二人は何かを話しては、目を細めたり、唇にきれいなカーブを描いたり。酒も大分進んでいるようで、ディーンはまた手を上げて、追加を頼む。二人の邪魔になりそうな雰囲気を早々に感じさせてくれた兄のおかげで、サムは少し離れた席から、いちゃいちゃととても楽しげな二人を眺めていた。サムに視線を投げかけてくる女の子もいるものの、少しサムは疲れていて笑顔で断る。
リラックスして眠るための酒はもう十分だったし、兄はどうせ弟と同室のモーテルへなど帰る気はさらさらないだろう。
弟は席を立つ。バーを出ようと歩き出したサムに、ディーンはとっておきの笑顔で手を振った。
まっ、頑張って。
絶対に今晩きめる気の兄の笑顔は、サムを苦笑させた。
寒いモーテルの部屋に戻り、効きの遅い暖房に少しイラつきながら、気になっていた情報についてだけもう少し調べてから寝ようと、サムがベッドの上にパソコンを開き、ディスプレーを覗き込んでいると、かちゃかちゃとモーテルのドアへと鍵が差し込まれた。
「ただいま」
楽勝。もしくは、勝ちと確信!みたいな顔で、美人の隣にいたはずの兄の思わぬ早々のご帰還だ。
「あ、うん。おかえり」
ドアのところでも凭れている兄をサムが訝しげに眺めていると、ディーンは格好をつけた顔で、にやにやと楽しげに笑って指先をひらひらとさせた。
「……逃げられた」
そういう日もあるだろう。サムの目から見ていても、今日のナンパはかなり成功率が高そうだったのに、一体どこで状況がひっくりかえったのか、一人テーブルに残された瞬間の呆然としただろう兄の顔を、サムは見てみたかった気もしたが、二、三度頭を振って、ディーンに了解と伝えると画面に視線を戻した。
しかし、今のディーンはそれだけの薄いサムの反応では物足りなかったようだ。
「サミー」
歌うように弟の名を呼んだディーンはパソコンの画面を覆うようにベッドに飛び込んできた。壊れたら事だと、サムはとっさにパソコンを持ち上げたが、ディーンは構うことなくサムの太腿を枕にダイブする。バウンドしながら、ディーンは弟の太腿へと顔をごしごしと擦りつける。
「サミー、サミー、サミー」
「あ、兄貴。俺、じゃぁ、向こうのベッドに移るから、こっちは兄貴がどうぞ」
普段と違う酔い方のディーンに困惑気味のサムは、特に下半身を中心に落ち着かず、早々に酔っ払いから退散しようとした。けれど、むくりと顔を起こし、いやに礼儀正しくにっこりと笑ったディーンが、サムの手からパソコンを取り上げる。精密機械に似合いの丁寧さを無視し、無造作にサム用になるはずだったベッドにパソコンを投げ捨てる。
ディーンは、サムにべとりと抱きつく。
「サミー。もう、この際、お前でいい……」
「ちょっ! ディーン! ディーン、酔ってる! 間違いなく酔ってる!」
ディーンが酔っているのは、誰が見ても明白で、しかも過度に酔ったディーンは、今晩のする気モードからギアチェンジができないでいるようだった。無駄に整った顔で、ちろりと自分よりでかい弟を色っぽい目付きで見上げると、ディーンは弟を動揺させるような声で名前を呼ぶ。
「サミー……」
「ディーン!?」
ぐだぐだの体で首へとすがりつくように腕を回して、項にキスをしてくる兄を、弟としてはどうすればよいのか?
サムは、兄を抱きしめるわけにもいかず、かといって、ベッドの上で両手を大きく開き自分の無罪を訴えながら、兄に抱きつかれじゃれかかるようなキスを首筋に受けているのも不毛で。
しかし、ふって湧いたようなこの状況にさすがのサムもとっさの対処法が見つけられず、しばらく考え、そして、ようやくそっとディーンの体を抱きしめた。
「ディーン……」
サムは、酔っ払いの潤んだ目をじっと見つめる。
嬉しそうにふわふわと笑ったディーンは、伸び上がって弟の唇を狙おうとする。酒臭い息がかかるところまでディーンの顔が近づき、長い兄の睫は閉じられようとしていた。けれど、もっと唇が近づけば、ディーンの大きな目は弟の様子を伺うように開かれ、サムはその眼差しにドキリとする。
しかし、サムは、直前でふいっと横を向きそのキスを避けた。最初から兄の間抜け面を笑ってやろうと思っての行動だったのだが、ディーンの瞳が傷ついたように見開かれ、サムはなぜか自分がとても悪いことをしたような気になる。
けれど、どう考えても今日、悪いのは飲み過ぎのディーンだ。
サムは、最初から決めていた通り、兄の体をよいしょっと持ち上げる。
「……サム?」
「うん? ちょっと待って、大人しくてしてて、ディーン」
サムが肉付きのいいディーンの尻を下から持ち上げるようにして抱き上げれば、なんとかディーンの足は床に付かない。確かに兄のディーンの方がサムに比べ軽量級だが、酒の酔い力の入らない体は重い。サムが一歩、一歩踏みしめるように歩きだすと、ディーンはサムの首へと齧りついた。ぎゅぅっと首へと回した腕で、サムへとすがりつき、こんなことをされているというのに機嫌がよさそうに弟の首へのキスを続ける。
サムは困っている。
兄にやる気モードで迫られたところで、弟の自分に一体なにがしてやれるというのか。
というか、サムも兄の大好きなハンティング対象が美人の女性であることは知っていたが、兄にそれがダメなら男までOKだという懐の大きさがあったことまでは知らなかった。しかも、酒のせいだと思いたいが、『男』の中に近親者まで含めてくる兄の度量の大きさに、サムはくらくらしている。
ディーンはサムに抱きかかえられ、ご機嫌だ。サムの項はキスで一杯だ。
くそっ、ディーンの唇、いやに柔らかいな。いや、待て、重いなとまず思うべきだ。でも、この尻、でかいし結構柔らかい。違う。面倒くさい。そう、兄貴は重いし、酒臭いし! キスだって、そう、気持ち悪い! ディーンのキスは気持ちよくない!
サムは、しっかりと閉まっていなかったバスルームのドアを蹴り飛ばして開けた。
便座の上にディーンを座らせ、笑う兄が大きく揺れて崩れ落ちそうになったから、とっさに支えて、それから長い腕を懸命に伸ばすと、シャワーのコックを捻った。
「……あ、そっか、エッチの前にはまず、シャワーだよな」
うん。うん。と、嬉しげに兄が頷く。親切なサムに感謝の意を表するようにディーンはサムの頬へとキスをすると、自分から脱ぎ始めた。……しかも、靴から。ディーンは靴紐が外せず、苦戦している。
酔っ払いをシャワーの下に突っ込んでやるつもりだったサムも、確かに皮靴ぐらいは脱いだほうがいいかもしれないと呆れ顔で待つことにした。便座に座り込んだまま、体を丸め込んで俯くディーンの手は、なかなか靴紐が解けず、あまりに手こずるようなので、サムはしゃがみこんで兄の靴を脱がせてやった。靴下を脱がしているところで、俯いたままだった兄が、サムの肩にすがりつく。
「……気持ち……悪い」
必死に兄を抱え込んだサムは、便座の中へとディーンの頭を突っ込んだ。う〜っと、唸っているが、ディーンは吐けない様子だ。手のかかる兄の背を擦ってやって、けれど結局、ディーンは吐かずに嘔吐の山を越えてしまったらしい。涙目のまま振り返り、もういいと、サムに抱きつく。胸元に柔らかな髪を押し付け擦りつけ、サムは、バスルームのタイルに座ったまま、もうこの状況をどうしていいのかと途方に暮れた。
吐き気が苦しかったのか、やたらと長いディーンの睫はしっとりと濡れて、サムのTシャツの色の一部を変えている。
ディーンは、はぁはぁと少し苦しげな息を吐き出しながら、頼り切るようにサムへと体を預けている。
しかし、暫くして息が穏やかになりはじめると、ディーンの手が、サムの胸を撫で始めた。サムの顎へとキスを始めた唇は腫れぼったく濡れていて、しかも、ずうずうしいことに、サムの足へと乗り上げているディーンの前は、少し固くなっている。
こんなになっても、まだする気のディーンは、どれほど今夜のナンパの成功を願っていたのか、サムは、なんだか腹が立ってきた。
いつの間にかシャワーがたまっており、このレベルのモーテルには珍しい大き目のバスタブは半分ほど埋まっていた。
サムは、片足は裸足なものの、もう片方には脱げかけの靴下を履いたままのディーンの膝裏を掬い上げ、まるで新婚初夜のカップルのようなホットなやり方で抱き上げると、やたらとはしゃぐディーンにとうとう唇へのキスまでされながら、高い位置からバスタブへと兄の体を放り出す。
ばしゃっ!と、大きく湯が跳ねた。
ディーンは溺れまいと必死にもがく。
側に立つサムも、思い切り濡れた。
「サム! サミー! なんで、こんな!」
ずぶ濡れでわめくディーンの隣へと、サムは、すとんと座り込む。
「ディーン、バスルームでのセックスが俺の好み」
あまりの驚きに涙で濡れた大きな目を覗き込むようにしてサムが口を利けば、目を見開いたままのディーンは、納得しかねるという顔をしながらも、なるほどと、なんと、頷いた。
どれほど兄は酔っているのだと、サムは頭が痛い。
溺れかけたディーンは、バスタブの縁をしっかりと握り締めながらも言葉の続きを待っているのかサムの顔をじっと見ている。
「……兄貴が、ここでやらせてくれるってのなら、してもいい」
断りやすいよう兄という言葉も含め、折角諭すようにサムが言ったというのに、湯の中のディーンは、荒っぽい弟のやり方に少し不満げな顔をしただけで、サムのために場所を空けた。
「……あ、兄貴」
勿論、サムは場所を空けられたところで、兄と一緒にはいるとつもりはない。
けれど、待っているディーンは、サムが入ってこないとわかると、そっと手を伸ばしてくる。
「サム?……サミー?」
どうしたのかと名を呼ばれて、最早サムは、自分が何か邪悪なものに試されているのではないかと天を仰いだ。
「……ねぇ、兄貴、本気で酔ってる? それとも俺をからかってる?」
艶っぽい声を出す兄の体には、湯でTシャツが張り付いてしまっている。すっかりその気になっているディーンの乳首が立っている。
ディーンはサムの肩へと触れながら器用に片手で脱げかけだった靴下を脱ぎ捨てると、がばりと濡れた体で抱きついてきた。
酔っ払いは執拗にサムの唇を求めて、すっかりバスルームでのセックスを楽しむ気の様子だ。
しかも、少し苦しいような表情でキスをするディーンの顔は、予想もしないサムの好みで、もう、散々理性を揺さぶられているサムに、凶暴な衝動を抱かせた。
無言のまま伸ばされたサムの大きな手が、ディーンの頭を掴む。
濡れている髪を撫で、そのまま項へと指を滑らせる。
ディーンの喉がひくりと上がる。小さく舌を覗かせている口の中へ舌をねじ込んだサムの手が、兄の背中に張り付くTシャツをなぞっていく。
ディーンがサムの耳元へと唇を寄せる。
「……ぁ、サム、好き……ァ、」
サムは、無防備に晒されているディーンの喉へと齧りつく。
多分、喉というのが、まずかったのだろう。
最初はジーンズの背中から大きな手を無理やり入れられ尻を撫でられ、ぞくぞくするようないい声を聞かせていたディーンが、何度目かのキスの喉への圧迫で、びくりと体を引きつらせた。
ディーンは弟を突き飛ばす。
「ディーン!?」
そして、バスタブの縁を壊さんばかりに握り締め、今度こそ盛大に吐く。
「おはよう。兄貴」
健やかな顔で朝の挨拶をする弟に、ディーンはがんがんと痛む頭を抱えた。頭が痛すぎて、色々考えることもできないのだが、この調子じゃ、多分、弟に大分迷惑をかけたのだろうと、それだけはわかる。着ていたものが昨日と違う。
けれど、
「……サミー、吐きそうだ……。頼む……バスルームまで引き摺っていってくれ」
やはりディーンは自分の足では立てそうにもなくて弟へと手を伸ばした。
けれど、作ったみたいないい笑顔だったはずのサムの顔が不自然に固まる。優しいはずの弟が、ぶんぶんと力強く首を横に振って嫌がる。
「あそこは、ダメ。無理。いや、違う。そんな、二日酔いになったのは自分のせいなんだから、這ってでも自分でいくべきだよ。ディーン!」
後日、運転中のディーンは、言い出しにくそうにした弟から、唐突な質問を受けた。
「……あのさ。……兄貴、男もいけるの?」
勿論、ディーンは弟を殴ってやった。
END