ある日のメモ 1
強いて理由を言うならば、ディーンは暇だった。テレビをつければ、うるさいと睨まれ、だったら超セクシーな水着のお姉ちゃんたちが微笑んでくれている雑誌でも読もうかと探してみると、捨てたと言われた。飲みにいくには早い時間で、眠るには、目が覚めたばかりだ。
「なんか食ってくれば?」
「寝る前に食ったドーナッツのせいで胃が気持ち悪い……」
「まっ、……あれだけ食えばそうかもね」
全く心配していない顔の弟は、部屋にたった一つの机を占領している。机の上には分厚いうえに、古い本が3冊、やたらと暗い絵が描かれた山ほどのコピー、パソコンの画面が映し出しているのは、きっとデコラディブな装飾が施された怪しげなオカルトサイトだ。
「なぁ、お前少し休憩しろよ」
「やだよ。ディーン、またとんでないアダルトサイトを見る気だろ」
サムは画面から顔も上げずにディーンを拒否した。顔も上げないくせに、指だけ振ってディーンをからかってきたサムは、多分、元々知識欲が強いのだ。始めてしまえば、毛嫌いしていたはずのオカルトめいた事柄に対しても、酷く情熱を傾け学ぼうとし、暇さえあれば、情報を探し回り、分類し、理解する。ディーンがハンディングの世界に身を沈め、盗み聞きし、あやふやな情報に振り回され、ドジを踏んではぶん殴られて得てきたものを、時に目をきらきらとさせなら、ネットや文献から猛然と得ていく。そんな弟のアグレッシブさは、ドーナッツの油で胃がどんよりと重い、今のディーンにとって食傷気味だ。ディーンは、不意にベッドから起き上がると、弟が広げていた資料の中から、一枚を取り上げた。
だが、まさに、その一枚がサムにとっては重要だった。
「ディーン!」
ディーンはにやりと笑ったまま、コピーを胸に抱え込む。弟は戻せと手を伸ばしたが、勿論ディーンは返さない。
「お前、こんな骨ばっかの写真を眺めてるより、もっと、こう、胸や、尻がバーンとした」
「胸も尻もバーンとしてないかもしれないけど、今俺たちに必要なのは」
「うわー。なんだよ。お前、だせぇ。人生でぷりんぷりんの胸や尻より重要なものがあると思ってんのか」
ディーンがにやにやと嬉しげに、コピーを返さないものだから、弟は椅子を引いて立ち上がった。
「ディーン」
サムはもう一度ディーンへと手を差し出す。いや、突き出す。
「何だよ。見下ろすな」
「しゃがめっていうのかよ」
「ああ、お前は無駄にでかいんだから、普段からしゃがんでろ。お前にはそれが似合いだ。サミー」
むっとしたサムが急に手を伸ばし、ディーンを掴もうとした。だが、兄はにやりと笑いながら上手く逃れ、サムの手はディーンの腕を取れず、空を切る。ディーンはにやにやと笑ったままサムを見つめ、弟はしかめっ面でディーンを睨む。安モーテルの毛足の短いカーペットの上で、兄弟の靴は、互いの間合いを図っている。
よーい、ドンの合図は、どちらも聞かなかったはずだ。けれども、兄弟は同時にスタートを切り、ディーンは全くもって趣味の悪い、真っ赤なバラの壁紙に激突せずに方向転換をした。土足のままベッドに駆け上がり、飛び跳ねてカーペットに着地する。そしてまたベッドでジャンプして、ほんの僅かなスペースであるカーペットの上を駆けて行く。だが、兄よりも少しだけ常識的なサムは、今晩自分が寝なければならないベッドに靴のまま足を掛けるのを一瞬ためらい、またもディーンを捕まえ損ねた。追いかけっこも二周目に入り、ディーンは、リアルな陰影で骨が描かるコピーを振り回す。
「欲しいか。サミー?」
「ディーン!」
体のサイズがでかい分、サムの方が腕だって長いのだ。狭い部屋の中で、一杯に腕を伸ばせば、子供じみたからかいをするディーンの腕をサムの手がかする。そして、ベッドを覆うブランケットは靴の足を縺れさせる。ぐらりと体の傾いだディーンの腕をすかさずサムが掴んだ。
「痛ってぇ!」
ディーンは酷い悲鳴を上げ、あまりの声に、掴んで倒れるのを防ぐより前に兄が足でも捻ったかと、心優しいサムの手は一瞬緩んだ。その隙にディーンは舌を出して逃げる。
「間抜け!」
「ディーン! 本気出すぞ!」
「もう本気のくせに!」
ひらひらと紙を振りながら逃げるディーンは、まるでエレメンタリースクールの生徒だ。いや、今時の五、六学年はもっと大人っぽいかもしれない。ディーンが、走るついでにサムへの障害物だと椅子を蹴飛ばし倒していく。サムは目前で倒されたそれを何とか飛び越える。どたばたとモーテルの中を走り回る二人の立てる騒音は、オーナーが護身用のライフル片手に苦情を申し立ててきても仕方のない程だ。
「ディーン、そろそろ返せ」
ベッドの上でにやにやと笑うディーンの息は上がり始めており、サムは、遊びを終わらすタイミングを見失ってしまったらしい兄に向かって手を差し伸べた。
「やだね。お前、体力ないんじゃねぇの?」
「そう思う?」
全く呼吸を乱していないサムは、ぐいっと手を伸ばし、とうとうディーンの手首を捕まえた。そのまま力任せに引っ張り、ベッドから引き摺り下ろす。疲れから、ふらつき気味になっていたディーンは体勢を崩し、床へと体ごと突っ込んでいった。せっかくヒットしそうな情報を調べていたのを邪魔されたサムはいい加減腹がたっていたせいもあり、兄が床へ突っ込むのを受け止めもせず、そのまま上から覆いかぶさり、押さえつける。
ディーンは、打ちつけた背中の痛みも勿論だったが、自分の上に覆いかぶさる弟が不当に与えてくる痛みに、思い切り顔を顰めた。押さえつけられた腕は全く動かない。
「離せ! サム!」
「やだね」
「お前っ!」
怒鳴ってみたところでサムの力は強く、もがいてもディーンは全く動くことができない。鍛えているサムは重い。ハンティングをするようになってから、人間の急所についても、ついでに調べたようで、動きを取らせない的確な位置を踏み、ディーンの顔には脂汗が浮かぶ。弟の顔にはにやにやと勝者の笑みが浮かぶ。
「さぁ、兄貴の負けだ。ごめんなさいを言う?」
その場しのぎの謝罪の言葉で済むことなら、ディーンは百万回でも謝ってすませた。だが、その時は口が利けなかった。弟に押さえつけられ、全く適わない。手首を掴む握力の強さに怒りを、それから恐れを覚えると、次にディーンを襲ったのは圧し掛かる体が持つパワーに対する恐怖だった。ディーンだって、サムがハンディングの際足手まといにならぬようにと鍛えているのは知っていた。けれども、いつのまにか、サムは有能な狩り手になり得ていたのだ。ディーンは弟の体を物理的恐怖として捕らえたことなど、勿論ない。しかし、今、ディーンは、サムの鍛えられた肉体を前に、いきなり豹変した幼馴染みレイプされる女の子であるかのように全く無力だ。
どれだけ力を入れようと、自分がまるで弟に敵わぬことに気付いたディーンは、ところどころ禿げているもののカーペットまで真紅であるオーナーの趣味を笑いたくなるようなモーテルの床で、自分の顔色が白くなっていくのを感じた。小さなサミーに対して、恐怖を覚えることを馬鹿げていると、自分を励まそうとしても、あまり調子のよくない照明を背後にゲームの勝ちを嬉しそうに笑って見下ろしてくるサムの胸板は厚く、その威力に気付いてしまえば、恐れはディーンから去らない。
ディーンは、ひやりと下腹が冷たくなるのを感じた。それは、痛みを感じるほどだ。
「何? どうかした? ディーン?」
「サミー、選ばせてやる。今すぐ、俺の上から退くか、それとも、この大事なお兄様を思っておっ勃たてているこのクソでかいペニスでゲリ腹に栓をするか、……どっちがいい?」
ドーナッツに使われた油の悪さは、兄の胃を気持ち悪くさせただけでなく、腹まで壊させたようだ。ディーンは脂汗を浮かべ、涙目になって唇を噛んでおり、体には酷く力が入っていた。それでも、ディーンは歯を剥いてサムに笑う。
気付かれていないと思っていた股間のふくらみに太腿をぐいぐいと押し当てられ、サムはディーンの上から飛び起きた。すると、ディーンは後ろも見ずにバスルームへと駆け込んでいく。締め切られていないドアの向こうでは、せわしなくジーンズを下ろす音と、激しい罵り声。きっとディーンは、世界一の口汚いに違いない。
しばらくすると毒づきと共に何度か水を流す音がして、ドアの隙間から、丸められたコピー用紙が投げ捨てられた。
「くそぉ。痛ぇ……」
兄からの休戦の申し出に思わず笑ってしまったサムは、ディーンのためにバスルームのドアをしっかりと閉めてやり、それから、くしゃくしゃのベッドに腰掛けちょっと困った顔をした。
END