VS劇場 ―17―

 

それは、場所や、時を選ばず、不意にショーンを訪れる。

「……」

声には出さなかったももの、体験した感触までもまざまざと思い出させる程の記憶の浮上は、いつもどおり唐突で、ショーンにまたかと苦笑を浮かべさせた。

「どうした、ショーン?」

「いいや。大丈夫」

英国の代表俳優として名を出されても、恥ずかしくないキャリアを得ているショーンは、今、自国で新たなチャレンジの最中だ。ディレクターは新しいシーンの話し合いの最中に気を反らした俳優を、気遣わしげな目をしてみている。ショーンは、自分のせいで悪くなった空気を一掃するため、まだ心を捕らえられたままの記憶には蓋をして、にっこりと笑顔で返す。

「続けよう」

 

だが、その記憶はどれほど強固に蓋をしようと、一度ショーンの中へと立ち返ると、なかなか追い払うのが難しかった。ショーンは、打ち合わせどおり、セットの重厚に作られたドアを開け、俯いたまま部屋の中へと進みながら、体にどんどんと甦っていく感触に自分が囚われてしまわぬよう、もう何度も繰り返した感想を口の中だけで呟く。

『アレが入ったんだ。我が事ながらすごいよな』

苦しい息と共によぎっていくのは、汗をかいたヴィゴの手の甲だ。ぐしゃぐしゃにシーツを掴んだ自分の手に重ねられていた。現実の緑の目には、美しくワックスのかけられたダークな床が写っている。

ショーンは、そのまま部屋を進み、壁に駆けられた電話を取る。焦ったように髪をかき上げる。

「ああ、すまない」

カットの声がかかって、ショーンは今のシーンを検討中のスタッフが結論を出すまで待たなければならなかった。ライトの落ちたセットを出ながら、ショーンはそろそろ思い出に変わってもいいはずの記憶が、いつまでもリアルに自分を捉え続けることへの面映い困惑に、やっと安心した顔をして小さく苦笑を漏らす。

 

「ショーン、大丈夫か?」

「……大丈夫な、わけ、ないだろ……」

「じゃぁ……」

「くそっ、ここまでしといて、やめるなんて言うな。ヴィゴ」

あの時の始まりだけが、ショーンには思い出さない。多分、いいほど二人して飲んだのだ。いつだってリラックスできたヴィゴの家は、その晩もショーンに酒を控えようなどという気は起こさせず、何度もした演劇論を、また同じに振り回し、二人して大満足していたはずだ。どうやって、誘われたのかは覚えていないが、自分が頷いた後のヴィゴの顔は鮮明に覚えている。信じられない。顔には、はっきり描いてあった。自信家に見えたヴィゴが、自分に対して負けを決意しながらも口説いてきたのだと、ショーンはやたらと満足だった。

だが、実際のところ、ショーンはそれまで女好きを自認しており、それは、この間したばかりの離婚の原因ですらあるほどで、ヴィゴはとても注意深くショーンに触れた。

「……あんた、いつも、こんな風?」

いつまでもキスはなく、まるで相互オナニーであるかのように、出した下半身だけを擦り合わせたヴィゴのやり方は、確かに何度もショーンに息を飲み込ませる程良かったが、ショーンは自分が捨て身で口説かれたのだと思っていたのだ。これからも、ずっと続いていくに違いない友情を壊してもいいと思うほどの決意で、ヴィゴが手に入れようとしたセックスがこれだけだったとしたら、ショーンはヴィゴという人間にすら興ざめしそうだった。濡れた二人のペニスを一緒にして握ったまま、腰を押し付けるようにして動かしていたヴィゴは、ショーンに睨まれ困ったような泣きそうな笑みを顔に浮かべる。

「なぁ、ヴィゴ、いつもこれ?」

「……違う」

「じゃぁ、なんでだ?」

「ショーン、頼む。頼むから、俺を困らせないでくれ」

このセックスにだって立派にペニスを勃たせ、胸元に汗までかいているくせにショーンは、犠牲的なまでの自制心を発揮しているヴィゴの顔を一人で善人ぶるなと一つ張り飛ばした。それどころか、痛みに目を見開いたヴィゴを睨みつけた。

 

つまり、俺は、初体験のセックスを、しかも、あんな痛い思いをする破目になったセックスを自分からしたがったってわけだ。なんだ。まるで嫌がるヴィゴに無理やり俺がやらせたようなもんじゃないか。

 

ショーンは、何度思い出しても、笑ってしまうところで、もう一度笑った。あの時の、あまりにびっくりしたヴィゴの顔を思い出せば、自分の口元が本当に笑みの形を描いてしまって、強面の俳優は、きゅっと口を閉じる。そして、ごく真面目に仕事に望む俳優としての顔をして自分の椅子に腰掛けた。すかさずアシスタントから水が渡され、メイクの担当者は、ショーンの顔をちらりと覗いた。彼の手は道具箱には伸びず、どうやらメイクを直さず次のテイクに進んでもOKのようだ。今回の待ち時間は煩わしい作業なしで済みそうで、ショーンは自分の中でまき戻ったまま心地よく進んでいる時間を、無理に現実へと合わせようとはしなかった。小さな画面を覗くディレクター達は、まだ結論を出せないままだ。

 

「無理だ。ショーン。あんた、酔ってるからそんなことしてもいいと思ってるようだが、絶対に無理」

ヴィゴはかわいそうなほど動揺していた。ふわふわといい気分でヴィゴの口説きに許可を与えたはずのショーンはそんなヴィゴの態度に怒りを感じた。いや、多分、傷ついたのだ。

「無理かどうかは、あんたじゃなく、俺が決める」

ショーンは、ハッピーエンドの物語が好きだ。愛し合う二人は、どんな努力をしても幸せになるべきなのだ。まだ先があるというのに、その手前で努力もなしに引き返すというのは、上手くいかなかった時のいい訳を用意しているようで、ショーンにとって許せるものではなかった。例えば、いつか二人の仲が全くもうどうしょうもなくなるとしても、その時までは二人は何もかも分け合うべきだ。どちらか片方だけが不足したままの関係などおかしい。でも、……ダメになったら、……その時はどんないい訳もなしで許してやる。だから、今からいい訳の用意なんて要らない。ベッドにたどり着く前には散々飲んだただの酔っ払いであるショーンは、ついこの間、自分の身に起こった離婚に関する様々なことを思い出し、寂しくなって目に涙が浮かんだ。

ヴィゴはそれを誤解した。

「悪かった。悪かった。ショーン。俺は、あんたの気持ちを軽く考えすぎていた。あんたが泣くほど俺のとのことを真剣に考えてくれているとは思ってなくて……」

ヴィゴの理解は間違っていたが、ショーンは誤解を解く努力は放棄した。その方が楽だったし、確かにヴィゴはショーンの決意を軽く考えすぎだった。おまけに、女々しい自分を退けたかったショーンはヴィゴの解釈がかなり気に入ったのだ。

熱に浮かされたように、何度もヴィゴは、ショーンにキスをした。鼻が潰れてしまうようなみっともないキスを熱心に求められ、まるでもの慣れないハイティーンのような情熱を見せるヴィゴにショーンはほだされた。だから、ついショーンは、ヴィゴの言った無理というものを、我慢してみることは価値のあることではないかと改めて思ってしまったのだ。

……勿論、すぐに後悔したが。

 

それでも、互いに恥ずかしそうな顔をして相手の真意を確かめ合った上で行われた挿入は、ショーンにとって、長く記憶しておくに足るだけの経験だった。

何度思い出しても、ヴィゴのアレが、きちんと自分の中に納まったことが、ショーンには不思議でならない。他人の熱と重量があれほどのものだと体感したのも、ショーンにとって貴重な経験だった。ショーンは、思い出すたび、最後までよく我慢した自分のことを褒めてやりたくなる。挿入の成功に嬉しそうに笑ったヴィゴの顔を思い出せば、ショーンの顔も、つい、にやつく。

 

けれども、よく朝、馬鹿げた場所に痛みを感じつつ目覚めたショーンは、夕べあったことを受け止めるのが急に怖くなったのだ。ショーンの目が覚めたことに気付いたヴィゴは、朝日を背に愛しげな目をしてショーンの顔を覗き込んで来た。けれど、ショーンは朝日の中のその顔に、同じだけの愛情を返して夕べのようなキスをするのが急に不安になったのだ。だから、苦し紛れに笑った。飲みすぎて友人の家のベッドを占領してしまった朝と同じ、気まずいという顔で。

ヴィゴの顔にショックが浮かんだのは一瞬だった。それは、ショーンが気付かなかった振りで済ませてしまうのが可能なだけの時間でしかなく、たったそれだけの時間で夕べの全てを一人で飲み込んでしまったヴィゴは、一度の瞬きというショーンに後悔という言葉すら思いつかせない時間で表情を切り替え、視線を戻した時にはおおらか友人の顔をしていた。

「ショーン、朝飯、食えそうか?」

「……無理だ」

何故無理なのかを、大人である二人はあえて話し合わず、そのまま二人はその後の撮影を終えた。だから、あれから、五年は経ったと思うが、ショーンにとって、あの朝の結論は曖昧なままだ。

 

 

「ショーン、恥ずかしいわよ。若い子のお尻ばっかりじろじろ見て」

「……えっ? いや、そんなつもりは」

そんなつもりはなかったが、どうやらショーンの目は、前方でセットに入ろうとしている娘役の新人女優の尻へと固定されていたようだ。いつの間にかショーンの隣へと席を移していた共演者がショーンを笑う。

「もう、そりゃぁ、あっちの方がいいのはわかるけど、あなたの奥さん役は私なんだから、画面に入ったら私のヒップもそういう目で見つめてよ。……でも、ほんと、若いっていいわね。あの、お尻。きゅっと持ち上がって、ほんと若さってうらやましい」

結論が出るのが長引いたせいか、いつの間にか、ショーンのシーンは後回しにされ、若い彼女が先に撮ることになったようだ。

悔しそうなため息を吐き出して、打ち合わせ中の新人を見る女優に、ショーンは目尻の皺を寄せ笑いかけた。彼女が言うほど、年を取ることが彼女にマイナスのイメージを与えていないことをショーンは知っている。いや、元々、ショーン自身、年をとること自体が嫌いではない。特に最近は。

「何を言ってるんだ。君のそのゴージャスさをわけて欲しいって、彼女は言ってた」

「あら、あら、それはどこで聞いたの?」

「ん? ジェシーのベッドでとでも言って欲しい?」

こういう厚顔な台詞で返せるのは、年がいっているからこそだ。年々厚くなる面の皮は、ショーンの発言を自由にする。

「あら、ショーン、スキャンダルになりたくないから共演者とは寝ないって私のこと振ったのは誰だった?」

「俺?」

そして、十年も前のことすら、昨日のことのように平気で話題にできるのもある程度の年齢に達すればこそ。

 

「俺の出番はまだ先だよな?」

煙草でも吸いに行くという気軽さで席を立ったショーンに、年齢を超えてセクシーな女優はけだるく笑った。

「きっと明日ね」

年を取ると、時間はこんなにもゆっくりと過ぎていく。

 

スタジオを出たショーンは、携帯電話を取り出した。周りに人影はない。ショーンは安心してボタンを押す。

 

これほどまで自分があの時の記憶を忘れずにいるのは、きっとあの日の朝を続けたいからだ。

 

ショーンは、何年か越しの結論をとうとう出した。汗まみれのヴィゴの笑顔。ショーンは、もう一度あの顔を見たいと思っている。

分別ある年齢に達したはずの俳優は、節度ある友人として振舞うことに慣れてしまった恋人に電話をかける。

「ハロー?」

「え? やぁ、ショーン、久しぶり」

「ヴィゴ。すまないが今すぐ愛情たっぷりに笑ってくれ。そしたら、俺はこう言うから。どうやら俺はあんたが好きみたいんだ。ヴィゴ」

あの朝、言わなかったことをショーンは言う。今更、ずるいことだってショーンは知っている。

けれど。

きっと、同い年のヴィゴの時間だってゆっくり進んでいるはずで、すぐあの日に立ち返り、やり直せるはずだと、ショーンは電話に向かってそれは、それは、きれいに笑った。

 

END