神はいつも不機嫌
「……」
2台のカメラがアップを狙った若い俳優が口を開き、けれども台詞が出てこなくて、スタジオには、うんざりとした空気が流れた。けれど、活気をみせ、盛り上がっていた雰囲気が一気に淀んだ理由は、その俳優のせいではない。確かに、ほんの短いいくつかの台詞が頭に入っていないという彼は、プロとしての自覚を疑われてもしかたのない状況だったが、このスタジオに一度目のミスを責める者はたった一人しかいなかった。だが、その一人が問題なのだ。
その人物は、チェック用のモニターの前に座っていた。3台あるモニターのうち、彼が運良く、彼の祖国であるカナダで盛んなホッケーを中継中のモニターを見ていてくれることをスタジオの皆は願っていたが、自分の出番を待つ間、休憩していていいはずのキーファーが、見ていたのはやはり、チェック用のモニターだ。
そして、それまで厳しい顔をしながらも機嫌よく緩まっていたはずの目が、冷たく色を変えている。指先が唇を何度も叩き、足が組みかえられる。このスタジオで作られるヒットドラマの主役であるキーファーは、仕事に対して自分にも他人にも厳しく、少ない台詞さえ頭に入れず、スタジオ入りする俳優を許さない。だが勿論、端役を掴んだだけの俳優たちに、いちいちそんな親切な注意が為されるほどこの業界には気配りはなく、不機嫌に引き結ばれた主役の口元のせいで、スタジオの中は空気が薄くなったように息苦しくなる。
そして、それにスタジオ中がうんざりする。
「タイミングが、早過ぎないですか?」
若い俳優は自分を取り巻く状況が酷く悪く変化したことに戸惑って抗議した。カメラマンは、ため息と共に担いでいた重い機材を肩から下ろす。とりあえず、セットに立つ俳優の顔がモニターに映らなくなって、キーファーの顔が上がった。
瞼が半ばまで降り、元々口角の下がった唇は煙草を咥えたままきつく結ばれ、勿論、主役は救いようのないほどの不機嫌な顔だ。青い目が、冷たく若い男の顔を見据える。端役を掴んだ俳優は、やっと自分がしでかしたミスが、とんでもなく主役の気に障ったのだと気付いたようだ。けれども主役は、心優しく若い役者に注意を与え、彼に謝るチャンスを与えることすらしない。
「キーファー」
この状況で、キーファーの肩を叩ける者など、スタジオには殆どいなかった。けれど、その日は、その数少ない一人がキーファーの隣で少し困ったように笑っていて、スタッフと、出演者たちは、ほっと胸をなでおろした。救いの神はカルロスだ。キーファーの目が背後に立つカルロスを見上げる。白目の部分に、何だ?と、用件を聞き入れそうな雰囲気があって、スタジオの雰囲気が一気に緩んだ。
「話したいことが」
多分そう囁きでもして、カルロスは、このスタジオを支配する機嫌の悪い主役をドアの外へと連れ出した。この際、スタッフも、役者も、カルロスの用事などなんでも良かった。緊張に思わず動くことすらできなくなっていた若い役者は大きく息を吐き出している。
「アイツにスプリクトを見せてやれ。それが済んだら、もう一度、最初から!」
「で、何だ?」
カルロスは、キーファーのこういう生真面目なことが好きなのだ。自分が連れ出された理由を、わかっていないはずなどないのに、いくつかある会議室の一つで、先に椅子へとかけたカルロスを見下ろすキーファーは廊下を歩きながら煙草を消したばかりだというのに、また取り出しながら尋ねる。
「何の話をしましょう?」
カルロスはキーファーが煙草の煙を吐き出すのを待って答えた。とりあえず、口に煙草を咥えていれば、少しキーファーの機嫌はマシだ。
「ここに座る?」
立ったまま見下ろしてくるキーファーをカルロスが自分の膝を叩いて呼ぶと、青い目が機嫌よく笑みのカーブを描き、口元は全くもって親しみのあるカーブを描いた。まるで何かの画面の中で見る彼だ。
「カルロス。夕べのことなら、忘れろ」
しかし次の瞬間には、完璧な笑みを浮かべていた青い目が、いいなと、きつくカルロスを見据える。引き結ばれた口がフィルターをきつく噛んでおり、カルロスは、机の上の灰皿を引き寄せ、キーファーのために、椅子を引いた。
「いいですよ。じゃぁ、夕べは忘れましょう。ついでに、一週間前のことも忘れてもいい。それじゃ、一週間と二日前の話をしましょう。いえ、俺は、あれをネタに、あなたに酒を飲むなと責めたりはしません。ねっ、誰かさんは記憶が無くなるほど飲んでも、完璧に台詞が入ってますけど、やっと大きなドラマの役を掴んだ役者が、嬉しさのあまり飲みまくって、台詞がすっぽり抜けたまま、スタジオに現れたとしても、許してやってもいいんじゃないですか? ちなみに俺は、経験者なんで許してやりますけど」
夕べと、一週間前と、一週間と二日前、カルロスは、キーファーから同じ目に合わされた。
ここのスタジオでは珍しいことだが、翌日も撮影のあるというのにキーファーが飲もうとカルロスを含め、幾人かのスタッフを誘った。
機嫌よくキーファーは酒を飲む。最初はどちらかといえば、静かに。そして、気分がよければ騒ぐこともするが、そうしていても彼はあまり酔ったようには見えない。けれど、気付けばどれだけ飲むのだというほどの量を空けている。前にも何度か、そういうキーファーと同席したことのあるカルロスは、この先どうなるかを実はもう何度か経験していて、そっとスタッフたちを帰してしていた。
「……まだ飲みます?」
「当たり前」
やっと酒の酔いをみせ、とろりと目を緩ませたキーファーに、カルロスは席を立った。
「あなたの家で、っていうのはどうですか?」
何かに依存しやすい人間にとって、秘密を守りやすい自宅というのは、多分良くない場所だ。けれど、番組の看板を張る役者は名を守らなければならない立場で、できるだけ乱れたところを人目に晒したままにしておくわけにもいかなかった。
自宅へとたどり着き、いくつかのセキュリティーの中に入って守られてしまえば、キーファーは途端にしゃんと歩かなくなる。けれど、バーから持ち出した酒瓶は離さない。煙草と酒瓶に交互にキスをし、カウチになだれ込めば、まさか、その下から新たな酒瓶を取り出す。
「……隠してたんだ?」
「楽に取れていいだろ?」
苦笑するカルロスは、こういうキーファーの姿を何度見ても、自分の古い友人に重なって見えた。彼は、すばらしい小説家だ。それだけでなく、脚本や、たまに記事まで書く。恐ろしくよく働く。そして、よく飲む。飲んで、吐いて泣く。
「俺はクソだ! もう、ダメだ!」
アルコール依存症の彼は、便器にしがみつき泣き喚く。
「もう、二度と飲まない! もう、俺は死ぬ!」
若くして売れた作家は、プレッシャーで死にかけ、酒に命を繋ぎとめられたはずが、今度は、アルコール依存症であることを知られることを恐れるあまり、誰もがなしえぬほどよく働いて大きな仕事をした。
けれど、その仕事が苦しくて、また酒を飲む。酒だけが、彼に何かを求めず甘い開放感を与える。
したたかに酔って、酔って、しまいには、仕事に穴を開けた。
けれど、依存症である彼は、仕事の評価だけが自分を守ってくれる砦だと思い込んでおり、必死に巻き返しアルコールに負けない自分をアピールするため大きな仕事を成しえ、結果、評価を塗り替えた。でも、評価されるだけの仕事を成すのはやはり辛くて彼はまた、酒の力を借りる。……体が悲鳴を上げ始める。そして、巧妙な事故を装い、彼は何度か自殺未遂をした。死ねなくて、去年彼が出した本は、ベストセラーだ。今も、彼は便器の前で喚いているはずだ。
「俺なんて、死ねばいい! くそっ! もう、絶対に酒は飲まない!」
キーファーの顔に笑みが浮かんでいた。店では見せなかった開放感を見せ、酔うキーファーは、本当に幸せそうだ。
「カルロス。お前も飲むか?」
「いいえ、もう、十分飲みましたから」
見ている方が心配になるハイペースで飲むキーファーは、けれども普段から摂取量の多い彼にとっては、やっと酒精に愛され始めたというところらしい。とろり、とろりと眠そうにした重い瞼が嬉しそうに何度も瞬く。今日あった楽しかった話を、もう3度目、話し始めた。
ここで、カルロスにキーファーの酒を止める方法があればよかったのだが、残念なことにキーファーは強情で、そして、カルロスは何度かキーファーのアルコール被害にあったことがある、稀な共演者に過ぎなかった。いや、キーファーにとって友人という括りくらいには入っているかもしれない。先の友人然り、カルロスは秘密を打ち明けやすいところがどこかあるらしいのだ。
一応は止めてはみたものの、やはりキーファーは酒を止めるつもりなど全くなく、カルロスはグラスを口に運びながら、幸せそうにうとうととしているキーファーを眺めていた。
そして、やはり、構えていた事態が起こる。
もう家に着く前だって、相当キーファーは飲んでいたのだ。いくら酒に強くとも、とうに限界を超えて飲んでいるはずで、突然顔色をなくし、口を押さえたドラマの主役をカルロスはバスルームへと引き摺っていく。途中、口を押さえた指の間から酒があふれ出して、苦しそうにする人は泣いている。
便器にすがりつき、泣く背中は、吐くことがどれほど痛いのか、何度も何度も痙攣した。カルロスは背中を擦る。
「……もう、……いや……だ」
顔中を戻したものと、涙と、鼻水で汚して、キーファーが便器の縁へと額を押し付ける。指は、便器の縁を砕きそうなほどの力が入っている。
「もう、……飲まない!」
「ええ、わかってます。大丈夫です」
「大丈夫なんかじゃない!」
充血した赤い目でカルロスを睨んで、いきなりキーファーは絶叫する。
「俺に仕事をさせるな! 俺には出来ない!」
何度も、何度も吐き戻し、次第に力をなくした体は、最後、コトリとカルロスにもたれかかった。
「……もう、ダメ……だ」
トイレットペーパーで顔を拭われただけの酷い状態で、静かに泣き始めたキーファーのプレッシャーを思えば、カルロスも彼に優しくしてやりたくなる。
「キーファー。もう、吐かないですか? 部屋に連れ帰っても平気?」
カルロスは寝室までキーファーを連れ戻し、タオルを絞って彼の顔を拭う。嫌がり、首を振るのを、嘔吐した酒で濡れた洋服を脱がせ、汚れた胸元を拭う。
きれいになったキーファーを置いて、バスルームへとタオルの始末に戻ろうとすると、キーファーの手がカルロスのズボンをきつく握った。
「……ダメだ」
「片付けるだけです」
「……だめだ」
カルロスの知る限り、ここまできたキーファーは大きな声を出して喚いたりはしなくなる。だが、絶対に意見を曲げなくなる。
「……お前は、俺が嫌いだ」
そして、酷いコンプレックスに獲り付かれる。
「そんなことないですよ」
普段、現場で賢明な判断を下せる主役が、悔しそうに睨みながら泣くから、カルロスは金色の頭を撫でてやる。
「俺なんか、居なければいいと思ってるはずだ」
「居たほうがいいです」
「俺みたいなどうしようもない奴は、居ないほうがいい」
「居て欲しいです」
「俺みたいなクソには、居る場所なんてない」
何度否定してもあまり頑固にキーファーが意見を変えないため、カルロスの口元には苦笑が浮かんだ。
「そんなこと、ないですよ」
「じゃぁ、なんで、俺を置いていこうとするんだ」
「多分、あなたのことが好きだからじゃないですか?」
もうどうしょうもないところまで、アルコールに人格を乗っ取られているキーファーは、絶対に共演者になど知られたくないところまで、全てをあからさまにしてしまうのだ。最初、そういうキーファーを知った時、カルロスは、スタジオで彼に抱いていた尊敬とは対称的な憐憫の情が湧き、すがり付いてくる彼に戸惑いはしたものの、突き放すことが出来なかった。
「カルロス。俺なんか、……嫌だろ」
「……俺なんかが、主役で、いつまでも……ドラマが続くはずがないと思ってるだろ」
いくら否定してやっても、キーファーは堂々巡りでカルロスに質問を投げかけた。キーファーの息が上がっていた。くしゃくしゃの顔をして泣きそうに眉を下げる人は、赤い顔をして全く勃っていないものをカルロスの腰へとこすり付けている。体の上にキーファーに乗られているカルロスは、酔っ払いのしたいようにさせながら、背中をゆっくりと撫でていた。
今日の泣き言には、まだ上がっていないが、アルコールに何もかもむき出しにされるとキーファーは、仕事だけでなくセックスに対する深いコンプレックスも曝け出す。
だから、アルコールで箍が外れきると、大丈夫だというカルロスからの肯定を欲しがり、勃起することすら出来ないもので、セックスの真似事を始める。
「気持ちがいいですよ。キーファー」
「嘘……だ」
食いしばった歯の間から荒く息をつきながらキーファーは否定した。けれど、ぐらぐらと力の入らない腰を使って、カルロスの肯定を欲しがる。
「いいはず、……なんてない……。じゃなきゃ……」
確かに、キスも、愛撫もなしで、ただ腰を擦りつけ、シーツを悪戯に乱すだけのこのセックスは、手抜きだと言わざるを得なかった。
だが、頼りなく泣きそうな顔をしたキーファーが、それでも淡く快感を得ようとカルロスに覆いかぶさり懸命に腰を揺すって息を吐き出している。
絡みつく腰は、駄々を捏ねているようだ。
口がだらしなく開いていしまっている。
ペニスは全く勃っていない。
カルロスのものは固くなっていた。
けれど勿論、今のキーファーには正常な判断力さえなく、だから、同性のカルロス相手にできもしないセックスをしてみせようとしているだけで、カルロスは嫌がられない程度に、喉を反らして喘いでいる彼の体に触り、撫でてやる。
「キーファー、気持ちいいですよ」
「俺……は、もう、主役を続けるの……なんか、無理だ……」
「平気ですよ」
「もう、皆、俺に、……なんて、飽きている」
「大丈夫です」
「夕べと、一週間前については忘れる約束でしたね。じゃ、一週間と二日前と、それから、あ〜、もう、ちょっと思い出すのが面倒だ。ここのところ、ちょっと多いですけど、キーファー、あなた大丈夫ですか?」
ぎゅっと煙草のフィルターを噛んだキーファーは、ぎしりと音を立ててカルロスの前の椅子へと腰を下ろした。
きつい目が、カルロスを睨む。
スタジオに居る限り、キーファーはどれほどの弱みを見せたカルロスに対しても、カルロスが仲のいい共演者の枠からはみ出し、訳知り顔をすることを許さなかった。それが、例え、心配だからという理由であったとしてもだ。いや、仕事という唯一の砦を必死に守っているキーファーだから、それについての心配をするカルロスは余計に許されなかった。
けれど、カルロスは、キーファーを安心させてやるため、嫌がられる話題を持ち出し、約束も与えてやらなければならなかった。
睨みつけてくる人に、カルロスは、困ったような笑みを見せる。
「わかってます。今回は、スタジオに戻ったら、雰囲気を悪くしないためにもさっきの役者に対する采配はディレクターに完全にゆだねること、それからいつもどおりのキス一つで俺は買収されます。夕べあったことは俺と、あなたの間だけのことにします」
強気の顔の中にも、どこかほっとした雰囲気を隠しきれ無かったキーファーが煙草をもみ消し、唇を近づける。
苦い唇を押し当てただけのキスで逃げようとしたキーファーの頭を捕まえ、カルロスはそっと髪を撫でながら、何度か緩やかに唇の重なる角度を変える。
「……カルロス。終わりだ」
キーファーは、カルロスを押しのけると、また煙草を取り出しと、火をつけながら椅子を立った。不機嫌そうに煙草を咥えた薄い唇は濡れていたが、ヒットシリーズドラマの主役というスタジオを支配する神はカルロスに背を向ける。
「わかりました。キーファー」
カルロスは、キーファーが振り向かないことを知っていて、祈るようにそっと目を瞑った。
END
キファという人について結構悩んで、
ついでに依存症についてもそれを前面に押し出したものを書くのっていい?って悩んで、ってしました。
こういう解釈をする人もいる……程度に受け止めていただけるとありがたいです。すみません。