スリーアウトチェンジ
滅多に部屋へと誰かを誘うことはないけれど、もしそうなったならば、最上の切り札になると自信のあるなめらかなシーツの上に一人横たわっておきながら、閉じた瞼の裏に浮かんだのは、今日も頭を叩かれた上司であるギブスの顔で、トニーは情けなさのあまり、足を投げ出し、大きくため息を吐きだした。
「……何、やってるんだ、俺?」
トニーには、近頃自分がギブスに対しふらちな思いを抱きそうになっているという激しくヤバげな自覚はあるし、だから、尊敬できる同性の上司であるギブスに、万が一にもふらつかないための予防措置もばっちりだ。何人もの女友達と親密な連絡を取り合っている。
だが、最低限に灯りを絞ったベッドの中で、さっきまでの突き出すように盛り上がったやわらかな胸が腕に押し当てられる感触を思い出そうとしても、それを押しのけ、エレベーターの中で盗み見たやたらと背筋の伸びたギブスの胸の張りが頭の中を乗っ取っていく。
「くそっ……」
エレベーターのような密室で不意にギブスと二人きりになれば、トニーは、ギブスの胸へと顔を埋めてみたくなる欲求を、怖い上司に気づかれないようやり過ごすのに苦労するのだ。そんな時の息苦しいほど早まる鼓動は、盗み見がギブスにばれた場合の恐ろしい制裁に対する恐怖のせいだと思おうしていたが、トニーは両手で顔を覆うなり、一つ舌打ちして、それは嘘だと諦めた。
「そうだとも。俺は、ギブスが好きさ」
声に出してはっきりと言ってしまえば、胸がすっきりするかと、口にして寝がえりをうってみた。
身体を包むシーツはなめらかだ。
温かく包みこんでくるやわらかな肌触りは、生クリームのように白い肌だった昨日のデート相手の感触を思い出させてくれてもよさそうなものなのに、ギブスの掌を思い出させる。
あの年でまるで緩みのないギブスの身体は、どこもかしこ固く締まっているが、キーや、ペンを渡す時、ふと触れる掌は、温かみがありとても柔らかい。
あの手が自分に触れる時といえば、思い切り頭を叩いて行く時が殆どだが、もし、なでるように触れてくれたらと、いつからか欲が覚えた。
横を向いた頭の下に、枕を引き寄せ直しても、トニーにやすらかな眠りは訪れない。
ギブスを締め出そうと強く瞑った瞼の裏で、勝手に再生される映像は、振り返り、早口で自分に指示した今日のギブスだ。矢継ぎ早な命令は、幾つあろうと即実行が要求される。
目を瞑ったまま、トニーは口だけを動かした。
「イエス、ボス。オーケーです、ボス。はい、ボスのおおせのままに」
もし、こんなふざけた返事を返せば、その場で即、後頭部を張り飛ばされる。ギブスの怖いところは、それがトニーの面子が丸つぶれになる場所であっても、部下のしつけは、即その場で、で実行されるところだ。おかげで、何がいけなかったのか、間違いなくトニーは理解することができるが、男心のわからないこんな上司に惚れてしまった自分に、歯ぎしりする夜もある。
なのに。
ため息を吐き出し、もう一度寝返りを打った。引き寄せたシーツがやさしく首筋を撫でていき、トニーは腰をもぞりと動かした。
重苦しいものを感じる下腹部を無視したまま眠ることが容易なことではないのは、さっきからもう秒針が何周したのかすら、わからない時計の針の音からも明らかだった。
一人きりのベッドのなかだ。欲望の解放にはためらいはないが、今晩ばかりは、妄想に付き合ってくれる相手を選ぶのに、勇気がいる。
下着の中の重いものを握るまでのあいだに、妄想セクシーショット付きのプロフィールを頭の中で慌ただしくめくる。
スタンバイはばっちりだというのに、わがままなトニーJrは、どのブロンドの唇も、ブルネットの胸の谷間にも、しっくりこないと首を振る。
それでも、腹に食い込んだパンツのゴムを押し上げて、左手を差し込んだ。
トニーは、握ったものの味気なさしか感じないペニスを相手に唇を曲げる。
(知ってるさ。お前はあの怖い人のことで楽しみたいんだ。)
たったそれだけのことで、懸命に思い描いていた黒髪が彩った豊かな胸の谷間を押しのけるようにしてギブスの顔が浮かび、馬鹿正直なペニスは、ビクンと跳ね返った。現金にも熱をもった腰がぞわぞわと落ち着かなくなり、額に皺が浮かぶ。急に硬さを増したものに、そろそろと手を這わせ、ギブスのことを考えるのはよせと叱るように強く握りこんでも、下腹は刺し貫いた痛みが甘かったとでもいうようなせつなさで満たされた。
吐き出すため息がやたらと湿り気を帯びている。
トニーは、重く溜まった欲求に急かされるようにペニスを扱きながら、唇を噛んだ。
「絶対に、俺は馬鹿だ」
現実逃避するようにきつく瞑った目の裏で、ギブスの顔を思い浮かべれば、罪悪感のあまり頭ががんがんと痛くなり、心臓だって痛くなるほどで、その上恐怖で今にも泣き出しそうだというのに、はじめてギブスですることを許した自慰は、いままでになくトニーを感じさせる。
溢れだした先端のヌルヌルが、大事なシーツを汚していく。
「くそっ、っ。ギブス、…………っ、ギブス」
あまりに気持ち良くいけたオナニーに、トニーの身体は満足感で満たされ、茫然として口もきけないほどだった。
寸前で引き寄せたティッシュでアレは覆ってあるものの、大量の精液は生ぬるく股の間を垂れていき、それが気持ちの悪くて、やっと身体を動かす気になったくらいだ。
普段以上に手間のかかる後始末をしながら、その時、不意に目に入った携帯をトニーが掴んだのは、自分でも気の迷いとしか言いようがない。
衝動だった。
2コールでギブスが電話出た。
「現場はどこだ?」
「…………」
幸福の園から現実に一気に引き戻してくれたボスは、この真夜中だ、絶対に寝ていた。
だが、携帯越しのギブスの声にはまるで眠気はなく、低い声の反応の機敏さは、呆けた頭で考えなしにコールしてしまったトニーの背筋に、しでかしたことのヤバさを鉄槌の威力で教えた。額に汗がにじんだが、ひりついた唇は、震えるだけで何も言葉を押しだせない。
シーツのなめらかさも、トニーを慰めない。
「…………」
「…………」
元々必要なことしかしゃべらないギブスは、何も言わない。
焦燥に、気がおかしくなりそうなほどだ。
しかし、その時、トニーの中では、思いもつかないアクロバットな感情転化が起こった。
怒りが湧いた。
こんな時間の自分からの電話をギブスは仕事だと疑いもしない。
(……当たり前だ)
わかっていたことだが、それが不満だと一度思えば、理不尽にも苛立ちは募っていく。ぶつけるわけにはいかない言葉が喉に詰まる。
まごつくうちに、電話越しのギブスは、無言のトニーに苛立ちを募らせていく。息遣いだけで、ギブスの苛立ちが量れる自分がトニーはどこか誇らしい。だが、現実問題として、ギブスはキレるのも早い。
もってあと10秒というところか。
聞き耳を立てる者同士の間に流れる空気はある意味、淫微だ。
ギブスは、携帯を耳から離し、かけてきた相手を確かめているようだ。そして、トニーからだと分かった上でもう一度耳に押し当てた。
ギブスはしゃべらないし、トニーはしゃべれない。
お互いに出方を探るような息遣いが続いた。
だが、トニーの耳に、大きな舌打ちの音が聞こえ、その瞬間、通話が切れた。
「あ、ボス!」
8秒だった。
思わずトニーは再コールした。条件反射だ。
勿論、1コール目でしまったと唇を噛み、2コール目で今度こそどうやって謝ろうかとキリキリ胃が痛んだ。3コール目には、このまま切ってしまってしらばっくれようかとも思った。
だが、10コールを超えてもギブスが出ない。
今、電話に出たばかりで、ギブスがこのコールに気づかぬわけはない。
57コールは、ストーカーじみていたと自分でも思う。
「……………………」
やっと電話に出たギブスは雰囲気だけで機嫌の悪さを伝えた。
そのあまりの迫力は、長い間緊張した精神状態でいたトニーを、恐怖のあまりハイにさせてしまった。
「ボス。俺です。ディノッゾです。あ、お察しの通り、仕事の話じゃないです。こんな時間にすみません。でも、俺、あなたにしゃべりたいことがあって。実は、さっき、あなたで抜いちゃったんです。あなたのこと妄想しながら扱いたら、すごく気持ちがよかったんです」
壁に頭を打ち付けて死んでしまいたいほど後悔しても、一度口を突いて出てしまえば、取り返しがつかない。
そして、言ってしまえば、トニーはギブスに対する恐怖のあまり、口を挟めないほどの速度で話さないではいられない。
「あ、そういえば、さっきは無言電話ですみません。流石に、なかなか声がでなくって。でも、ほんとにすっごくよくて」
「あなた相手なんて、ボスであるあなたのことを冒涜してるようだし、やめようとは思ったんです。でも、ほら、やっちゃいけないことほど、やりたくなるじゃないですか」
軽妙なマシンガントークは、トニーの売りのひとつだが、
「やってみたら、やっぱ、すごくよくて。一応、俺も、結構経験は豊富な方ですからね、妄想とはいえボスに相手してもらう以上、擦り合うってだけじゃ威嚇射撃だけして敵前逃亡って感じて、負けた感が漂うじゃないですか。だいぶ前の彼女なんですけど、すっごく積極的な子がいまして」
あのギブスを相手に何をしゃべってるのかと、トニーだって泣きそうだ。
「彼女、かわいい顔して、俺のこと攻めるのが好きでしてね、その子と付き合ってた時に、前立腺マッサージなんかもされちゃったりして」
「経験あるんで、あなたに尻に突っ込まれることなんかも妄想したりしながらやってみたり」
だが、しゃべりを止めるのも怖い。
一応、ギブスは聞いている。携帯から聞こえてくる息遣いからも、ギブスが聞いているのは間違いなかった。矢継ぎ早に話し、電話を切るタイミングすら与えないトニーに、苛立ってはいるようだが、ギブスの態度はそれだけだ。
つまり……と、半脳停止状態でいながら、トニーは気付き始めている。
……今にもトニーを過拍動で心停止させそうなほどのこの話題は、ギブスを仰天させるような内容じゃない。
「最初に言っときますけどね、彼女のせいで、俺が尻、弄られるのが大好きな変態さんになったとかってことじゃないですよ? でも、ほら、彼女がしてたように、指一本だけじゃ、あなたに失礼でしょ?」
「2本? 3本? さすがに3本目は、きつかったんですけど、あなたの名誉を守るためにも3本は必要だろうとがんばりました。正直、俺の穴はそんな風に拡張されてないんで痛かったんですけど、でも、あなたにされてるんだと思うと、なんかそれもよくて」
普段は、そっちの一線からは引退したとばかりに品のいい顔をしてみせるが、実はギブスは、全く現役だ。年を重ねた現在があの釣り上げ具合で、若かった海兵隊時代など想像もしたくない。
やっぱり、ボスは経験があるのだと、トニーには抑えがたい嫉妬心が芽生えた。
「ねぇ、3本で、ボスのの太さに足りました? もうそれ以上だと、どうしても入らないんですけど、本当はもっと広げないと無理なんですか?」
口をきかれることなど恐怖以外の何物でもないというのに、ギブスを質していた。
「……あれ? 無視ですか?」
「俺ね、尻の穴に突っ込まれて感じるなんて、最低のくそったれだと思ってたんですけど、ボスにそうして貰うことを考えると、あり得ないんですけど、あそこが疼くって感じなんですよ。なんかもう、あなたのこと考えながらだと腰がとろけそうになるっていうか」
実際、恐る恐る入れた指は、物理的には痛みの方が勝った。だが、それを、自分の腰を捕えてペニスを打ち付けているギブスのものだと想像した途端、脳が焼き切れそうになった。
思わず、締めつけ、懸命に扱いた。
うまく動かせないもどかしい指の拡張の痛みが、射精を早めた。
あの時夢想した、腰骨をつかむ掌の柔らかさと力強さの残像を引き寄せてしまったトニーの眉の間は悩まし気に寄せられている。肉厚の唇は、いやらしく半開きだ。
「ボス、すごく上手で……」
「激しいし、俺の尻、壊れちゃうかと思う程なんですけど、……でも、ボスになら、俺、どうされてもいい……です」
トニーの股間は、また勃ちそうになっていた。つい、手が伸び、シーツの上から形をなぞる。
だが、携帯から聞こえるギブスの息遣いは、勿論興奮など示していない。
「……聞いてます?」
聞いていることは、トニーもわかっている。
しかし、ギブスは全く反応を返さない。
「……ねぇ、ボス、これだけ俺に言われて、せめて、どうしたんだ、悩みでもあるのか、ディノッゾ?とか、言いませんか? せめて、酔ってるのか、ディノッゾ?とか。…………もしかして、俺が好きなのか、ディノッゾ?……でもいいんですけど」
「今、何時かわかるか?」
「え、?」
ずっと無言だったにも関わらず、いきなり低く時刻を尋ねたギブス声に驚きながらも、思わずトニーは枕元の時計を見た。
「2時35分、あ、今、36分になったところです。ボスのベッドの脇にも時計ありませんでしたっけ?」
「お前の今月の遅刻は何回だ?」
「え? 2回……かな?」
「あと、1回でどうなる?」
それについてトニーは気づいていた。
「ええ、あと、一回で、ハットトリックです」
「スリーアウトチェンジだ」
電話は切れた。
END