彼を愛したスパイ
MI6本部から出たアレックは呼び止められた途端、夜の予定を全て忘れた。
予定が同性の同僚ジェームズとの夕食であり、目の前にいるのは男達からミス文書課と呼
ばれている、素晴らしいプロポーションの美人だったからでもある。
「ねえ、アレック。今晩おヒマ?」
女はモニカ・ベルッチの様な胸から亜麻色の髪を払い除けて言う。
アレックは分かりやすいセックスアピールが好きだ。
痩せ形よりグラマー、清純さより色気。ついでに言うなら魚より肉。
巨乳の美人にノーと言う訳が無い。
ざっと女の全身を見た視線は胸元に3.5秒留まってから顔に戻った。
コートのポケットに両手を突っ込んだままアレックは顎をしゃくる。
「じゃあ、送ってくださる?」
身を寄せた女が腕に軽く触れた時には、約束をしたような気すら残っていなかった。
ジェームズはレストランではなく、アストン・マーチンの中にいた。
アレックの道路知識および、時間の見積もりが今ひとつという性質を踏まえたうえで選ん
だ必ず通るであろう場所なのだが、1時間待っても通らない。
すでに約束の5分前である。
しかし来ない。アレックはこちらへ向かっていないか、遅れるのか。
一般人なら携帯電話に手を延ばすところだが、ジェームズは笑顔で紳士風のため息をつき
カーステレオのスイッチを入れる。
操作音と同時に迫り出したCDプレーヤーが開くと黒いパネルに変わり、市街地図と移動
しながら点減する赤い点が映った。
『目標は移動中・スピード75キロ・車中人数は2名』
機械にしてはなめらかな女性の声が告げる。
「仕方のない子猫ちゃんだ」
ジェームズの脚がアクセルを踏んだ。
手を振る女の姿が夜の海を遠ざかっていく。
ヨットの上で恋人に肩を抱かれたセクシーな笑顔が。
タクシー代わりに使われたアレックは苦笑でそれを見送る。
「感謝のキスも無しか。ビッチめ!」
罵った唇に綺麗なカーブを残したまま、背後を振り返ったアレックは絶句した。
「ハイ、ハニー」
タキシード姿のジェームズがにやりと笑う。
腕を組み、脚を交差させたお馴染みのポーズでもたれているのはアストン・マーチンだ。
「・・・・どうした、ジェームズ?」
すっかり約束を忘れているアレックは怪訝な顔をした。
目が窺う様に細められ、唇のカーブが歪む。
ジェームズは微笑んだまま視線を腕時計にチラリと落とす。
時刻を確かめた眉が上がり、上目遣いでつれない男を優しく見た。
「ラスト・オーダーには間に合うな」
それから助手席の扉を開ける。
交互にジェームズの顔と車を見たアレックは、頬を緩ませた。
ようやく前頭葉に何かが瞬いたらしい。
「何を食わせてくれるんだ、ジェームズ?」
そう言いながら前に停めた自分の車とアストン・マーチンの間を擦り抜ける同僚に声をか
けた。
翌日、Mの部屋へ行く途中でジェームズは擦れ違った男に何かを放った。
「試作品を返しておくよ」
「返却不可かと思っていたが」
特殊装備課課長、通称Qことモーテンセンが不敵な笑みで発信機を受け取る。
ジェームズは振り返り、失礼でない程度に人差し指で相手を指した。
「電波が少し弱い。私だから使えたが、アレックには無理だ」
にやり、と笑ってウィンクを飛ばしモーテンセンに背を向ける。
彼の名はボンド、ジェームズ・ボンド。
一流スパイであり、世界一礼儀正しい理想的なストーカー。
目下アレック・トレヴェルヤンをストーキング中である。
END
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