浮気

 

ジェーンは、的を得たチョウの皮肉に、笑ったとこだ。

「お前、最近、……いい顔をするようになったな」

ほとんど人のいなくなったフロアで残業する、気の毒なチョウ相手に無駄話をしていたのだ。

ジェーンは、ずいぶん長い間、チョウの背中に向かって話しつづけ、さっき、やっとチョウは振り返って、こちらに顔を見せたばかりだったし、ジェーンも、話しかけてはいたものの、ソファーに寝転んだまま、天井の染みを数え、身を起こしさえしていなかった。

「それって……」

聞き逃すには、ただ事ではなかった雰囲気だった言葉に、肘をつき、身を起こしたジェーンは、自分で発言しておきながら、その内容を疎むように酷く嫌そうに顔を顰めているチョウがおかしくて吹き出しそうだ。

「聞かなかったことにした方がいい?」

口を滑らしたことを悔やんでいるらしいチョウに、ジェーンは一応、そう言ってみたが、やはり、この楽しみを見逃せなかった。だってチョウの黒い目は、頑なにジェーンを見ようとはせず、眉間は、自分の失敗を責めてひどく皺が寄っている。

ジェーンの口元にはにんまりと悪い笑みが浮かぶ。

「チョウ、今のいい顔って、きれいな顔っていう意味だったよね? ……見惚れた?」

そして、返事も待たず、機嫌を悪そうにした捜査官にとって、もう少し答えやすいだろう質問をもう一つ重ねる。

「そういえばさ、チョウってさぁ、彼女と別れた……?」

「…………別れた」

返るまでには時間がかかったものの、二つ目の質問には、嫌そうに唸るような声であっても、答えが返された。だが、やはり、最初の質問には答えは返らないままだ。

ジェーンは手で覆った口元の下で、そりゃぁ、まぁ、本当にそう思ったんだとしたら、肯定の返事を返すには、相当な覚悟がいるからねと、ニヤニヤと人悪く笑う。

「へぇ、やっぱり、別れたんだ。振られた?……いいや、君が振ったんだね」

見るなと背けられている顔を、人を食った青い目でじろじろと眺め、ジェーンは答えを見定める。

「それってさ、優しいって言ってあげてもいいけど、君のはただの臆病だね」

「悪いか。……俺の決断だ」

捜査中の事件のせいで恋人が被害を受けた。それは、いくらでも大声で言いわけできる状況だ。だが、睨みつけるだけのチョウの潔さを、好ましく感じながら、ジェーンは、のんびりと考えを巡らせる。

チョウがいい顔……つまりは、きれいになったと評した自分の顔についてだ。

本当にきれいになったかどうかという真偽は別として、チョウにそう口走らせた原因について、ジェーンは心当たりがある。というか、それしか、考えられない。昨夜も散々、じゃれつかれた。

明日提出の報告書を書きあげられないまま、出張に出、たった今、チョウに残業させているリグスビーは、呆れるほどジェーンを褒めそやす。

「きれいだ」「好きだ」「俺、幸せだよ」

照れ臭そうな顔で、恋人にそう繰り返すリグスビーに、近頃では、すっかり慣れて、長い腕に抱きしめられたまま囁かれても、はい、はい、また始まったとジェーンは苦笑で聞き流す。それどころか、昨夜は、もう、うっとうしいから、君、黙って寝なよと、自分一人の泊まりの出張を寂しがり、しつこく絡んでくるリグスビーを邪険にさえした。

だが、飽くことなく、振り注がれる愛情に、自分の気分が浮き気味なのを、ジェーンも自覚している。つい、笑っている。ささいなことにすら、……本気で、だ。

今も、チョウが不用意だと悔いている発言に、心地よく笑っている。恋人と別れたというチョウは、タフないいセックスをしそうだよねなんて、つい余計なことを考えつつ。

だが、今頃、ジェーンがねだった地産ワインをごそごそと不器用に鞄に詰め直しているはずのリグスビーのことを思い、にこり笑い、その嫌味な程の華やかな笑顔でチョウに鼻白ませると、ジェーンは、やっぱり、面倒くさい職場内恋愛の相手なんて、一人だけでもう十分だと、出した答えをそっと笑顔の中に混ぜ込んだ。

タフなだけじゃなく、器用そうであるチョウの重心を低く溜めた太い腰の辺りに、多少惜しいなと思わなくもなかったが、仕事上の付き合いだけであっても、満足できるだけ、チョウは個性的で独特だ。

そうでなくても、いつか、タイミングさえあえば、実はチョウがわけなく手に入ると知れたのは、ジェーンをわくわくさせておくのに十分だ。

「あのさ、チョウ、きれいな僕のこと、じっくり見たかったら、僕、これから寝るから、寝顔を見ててもいいよ。……ただし、君が、今晩、君の貯金箱に入れようと思ってた、おつりの3ドルを枕元に置いてくこと。僕、それで明日の朝、飲み物を買うから」

にこりと笑いながらジェーンが言って、腹の上に掛けていた毛布を引きあげ、もぞもぞと横になると、チョウは、ますます顔を顰め、背を向けた。

威圧感のある背中で、無言のままジェーンを恫喝し、もう仕事の続きを始める。

 

 

だが、明け方の早い時間に目が覚めたジェーンの枕元には、2ドル置いてあった。

ジェーンは、眠気の残る目尻を柔らかく下げ、額にかかる前髪をかきあげながら苦笑する。

「これって、……値切ったのか、僕の寝顔には、これだけの価値しかないと言いたかったのか。チョウって、やっぱりおもしろい。……さぁて、何の飲み物を買おうかな」

 

 

END