砂糖入りのミルクティー

 

「どうして、こんな年寄りがいいのかな……?」

ソファーから聞えたジェーンの独り言に、チョウが振り向く。だが、口を開くのが面倒なのか、眉間に強く力を入れて、視線の強さだけで何だと問いかけてくる相手に、ジェーンは手をひらひらと振って何でもないと返した。じゃぁ、しゃべりかけるなと言わんばかりに、顔を顰めて前を向いたチョウに、八つ当たり気味にジェーンは心の中で悪態を付く。僕だって自分が声に出したつもりなんてなかったんだよ。でも、仕方がないじゃないか。もう一週間もこの問題に僕は煩わされているんだ。

ジェーンがため息をついても、もうチョウは背中を向けたまま決して振り向かなかったが、代わりに、さっきから、ちらちらとこちらを伺い見る視線の頻度がますます高くなった。いや、さっきからどころか、もう一週間だ。こそばゆくなるような好意を秘めた短い目配せは、ジェーンの様子を伺い、時には満足そうに、時には心配げに離れて行く。

リグスビーは、週の途中で、再度約束し直した、『職場じゃ内緒』の約束を、懸命に守っているが、なぜ彼が自分としたそんな約束に価値を置く気になるのか、ジェーンには彼の気持ちがさっぱりわからない。

自慢じゃないが、光を弾く金の髪と少し目が垂れているせいで柔らかい表情を作るのが上手い青い目をした自分の容姿には自信があったし、その上を行くほど、頭の冴えが人を魅了するという自信はある。

しかし、若かった時には、ほんの一瞬の視線が偉大な効力を発揮したのに、いまでは、更に特別な微笑みだったり、含みを持った囁きを付加させなければ、なかなか効果を発揮できなくなっている。年を取った。額には皺が刻まれ、肌にだって若かったころの思わず触れたくなるような感触はない。

なのに、なぜ、リグスビーが自分に好意を向け続けているのか、ジェーンには理解できない。

一回寝ただけなのに、こんなおじさんを相手に、彼ときたらモノ好きだというのが、正直なジェーンの感想だ。

はにかむような擽ったい視線が、またソファーに座るジェーンをちらちらと伺い、一人満足して嬉しそうに離れて行く。

ジェーンはため息が出る。

ついこの間、手酷い目にだって合わせたはずだ。

 

「ちょっ、ちょ、リグスビー!」

「わかってる。でも、な、ちょっと」

州の捜査機関であるCBIに勤めることが出来るのだから、ここにいる人間達は、それなりの知能の持ち主のはずだ。だが、結局のところ、口より先に手がでる、ここの人間の傾向が、ジェーンは苦手だった。

リグスビーに力任せに引き摺られてしまえば、対抗するすべがない。

舌戦だったら絶対に負けないというのに、現場を走り回るリグスビーに手首を掴まれ強く引っ張られれば、まるで抵抗できない。こんな時ばかり廊下には人目がない。

Yシャツのボタンを留め、スボンを履く為だけに30分も掛けさせられたあの朝以来、放っておけば、一時的な熱情など冷めるだろうと、冷たく他人の態度を取るジェーンを、『職場じゃ秘密』の約束のせいだと好意的に誤解し、俺だって勿論そうするさとばかりに、リグスビーは、チームのメンバーの前ではわざとらしいほどの距離の取り方をし、そのくせ人目がなくなれば親密な目配せを送ってきて、ジェーンを困らせていたのだが、その彼の顔が切羽詰まっていた。

「ちょっ、どこへっ!」

「そこ、だよ。そこの会議室、しーっ! ジェーン、しーっ!」

連れ込まれた会議室で、文句を言う前に力任せに口づけられた。

「ジェーンっ、……ジェーンっ」

ごめんとしきりに謝るくせに、熱い身体で抱きしめてくるリグスビーは、焦ったようなきつく唇を押しつけるキスをやめない。

ジェーンが暴れれば、ますます焦り、ゴンっと音がしたほど強く壁へと押し付けられた。

後頭部がたまらなく痛かった。痛みのあまり、咄嗟に文句も言えなかったほどだ。

音に驚いたリグスビーは、慌ててジェーンの頭の後ろへと手を回し、抱き寄せる。大丈夫かと何度も頭を撫でられた。痛い。その上、確かにもともとそんなにセットもしてない髪だが、掻き回された金色の髪はぐちゃぐちゃだ。

「悪い……痛いよな、ジェーン?」

「……あんな音がして、痛くなかったとでも思うのかい?」

睨むためにリグスビーを見上げたジェーンは、痛みと怒りで自分の青い目が潤んでいるなんていう些細なことは千慮の外だった。容姿も提供している商品の一つだった似非霊能者時代は終わったのだ。最近では、自分の容貌を武器にするのはごくまれだ。

だが、撫で回されていた後頭部をがしりと掴まれ、ぐいっと引き寄せられ、リグスビーがまたもや、情熱的に力強く口づけてくる。

腹が立って暴れたが太い腕は振り解けず、かわりにジェーンは思い切りリグスビーの脛を蹴った。

「何を考えてるんだよ。君!」

「だって、お前、すごくきれいで」

言い返す、リグスビーは真顔だった。恥ずかし過ぎるその台詞に、ますますかっとし、ジェーンは眉間へと大きく皺を刻んだまま、正気かと問いただしかけた。しかし、怒鳴る間もなくリグスビーは、すごすごと大きな背を丸める。

「ごめん。ジェーン、そんなに機嫌を悪くしないでくれよ。もう、しない。職場では秘密のはずだったのに、ごめん。約束する」

「いいわけはいいよ。僕は、君をセクハラで訴える!」

ジェーンは宣言して会議室を後にした。

だが、ジェーンは、先にリグスビーを嵌めた手前、勿論訴えはしなかったのだが、その代わり、彼には余力がありそうだとリズボンに耳打ちし、依頼がかかったまま積まれていた事件を彼に押し付けさせたのだ。

降ってわいたような仕事量の増加は、ジェーンのせいだと、リグスビーにもはっきりわかったはずだ。

なのにだ。

 

「わかってる。ジェーン」

リグスビーは、ジェーンの冷たい視線に、困ったように俯いた。ジェーンは紅茶をいれに席を立った給湯室で、リグスビーに捕まったのだ。コーヒーを入れる振りで、現れた彼は、あまりに態度がわざとらしくて、苛立つと同時にその滑稽さには笑いさえ感じた。

あっためるためにミルクを入れた鍋をゆっくりと回しながら、ジェーンは聞く。

「だったら、何の用?」

突き放したその声に、ジェーンまであと一歩のところでリグスビーの足が一瞬止まる。だが、彼は、勇敢にもまた歩みだした。

「ちょっと、顔が見たかったんだよ」

「この顔が? どう? もう見た? 気は済んだかい?」

あったまったミルクを、ティーバック入りのカップに注ぐ。しばらく待って、そこに沸かしておいた湯も注いだ。リグスビーはジェーンの付け入る隙のなさに、もごもごと口を動かした後に、やっと言い出す。

「なぁ、お前、大丈夫か……?」

チョウとの会話の後についたため息のことだろう。リグスビーは、ずっとジェーンのことを気にしている。

「大丈夫だよ。きっと、君よりずっと大丈夫なんじゃないかな?」

ティーバックを取り出し、やっとジェーンはリグスビーを見た。ジェーンのからかい、はぐらかすような返答は、予想通り大分リグスビーを怒らせたようだ。

「心配してるだけだろ」

だが、立ち去ろうとはしない。

「……ねぇ、リグスビー」

ジェーンは給湯室の狭い台の上に手を置き、もうこれは、はっきりさせる頃合いなのかもしれないと思った。

仕事仲間と直接的にもめることは面倒なことだが、こう粘り強さを発揮されては仕方がない。

第一、単純で気のいいリグスビーが相手ならば、怒らせたところで、あとでいくらでも取り返しがつく。

ジェーンは、顎を上げ、リグスビーに視線を合わせた。

「……僕は、君より大分年上だよ?」

まずは、順当な牽制からだ。

リグスビーは唇を尖らす。

「知ってるよ」

「あれは、不慮の事故だったんだし」

あれに、意味深な含みを持たせて発言したあと、心の中で、事故なのはリグスビーだけでなく自分にとってもだと、ジェーンは付け足す。だから、驚きさえ去ったら、大事に扱うことなく、さっさと過去ファイルにしまってしまえばいいのにと、リグスビーを面倒くさくジェーンは思うのだ。しかし、優しげに微笑みながら、もう一押しだ。

「君には責任はないんだよ。リグスビー」

これは、こんな仕切りもない共有スペースでしていていい話題じゃない。できれば、人のこないうちに、ジェーンはこの問題を手早く片付けてしまいたい。しかし、リグスビーはしつこい。

「……そうかもしれないけど」

そんなに拘るのなら、痛いところを突いてやれと思った。

「それにね、君は、同性には大分抵抗がありそうだった」

リグスビーは不服そうだ。唇を噛んだ。だが、しばらくすれば口を開く。

「……だけど、仕方がないだろ」

どうしても食い下がるリグスビーに、やれやれとジェーンはため息を吐いた。

「どう、仕方がないの?」

問えば、リグスビーは答えをためらうように、一瞬口を噤んだ。そして、これから自分の言おうとする内容が、口にしてもいいのかと問うような、不安げな視線でジェーンの様子を伺うと、今まで鍵をかけ大事にしまってあった箱の中から取り出すように、ためらいがちに言葉を吐き出し始めた。

心配げに見つめてくる青い目には、好意のほかと言えば、真剣にジェーンの気持ちを思いやるような不安げな色があるだけだった。口にしようとしていることが言いにくいのか、リグスビーは、軽く唇を噛む。だが、ためらいながらも、真摯にリグスビーは口を動かす。

「だって、……あんた、あんな酔った振りまでして、俺のこと誘ったのは、……俺のこと好きだからなんだろ?」

伏せていた目をリグスビーは上げて、まっすぐにジェーンを見つめてくる。

「俺は、あんたの気持ちに、全然気付けずにいたけど、……あんたに、あんなことさせるほど思い詰めさせて、俺、気持ちを返さずにはいられないよ……それに、その、……寝てから気付くなんて格好悪いけど、あんた、本当にきれいだし、……すごく、身体の相性も良かったよな、俺達?」

おどけるように、ほんの少しだけリグスビーは微笑んだ。そして、またジェーンをじっと見つめる。

「俺でよければさ、あんたのこと守ってやるよ。……考えたんだけど、今まで家庭人だったあんたが、いきなり手を出した相手が俺だっていうのは、不安だってこともあるんじゃないのか? ……つまり、そのRJのことなんだけどさ。……それで、いや、つまり、俺は頑丈だし、あんたのことを守ってやれる程度の訓練は受けてきた。銃もある。……なぁ、ジェーン、あんたさ、自分があんな風に寝ただけなんだからって無理して、身を引こうとしなくてもいい。俺は、ちゃんと考えて、ちゃんと決めた。なぁ、無理すんな。……俺達、付き合おうぜ?」

不器用な言い方で告白すると、リグスビーは、不安げな落ち着かない顔でジェーンからの返事を待ちはじめた。

だが、ジェーンは、あまりのショックでNO!という言葉を叩きつけ、彼を打ちのめすことさえできずにいた。

激しいリグスビーの思い込みに頭から言葉が消え失せた。

あきれ果て、それから、猛烈に腹が立ってきた。台に置いたままだった手を硬く握り込む。

あのセックスは欲求不満のせいだ。

欲望を感じた段階で自己処理していれば、避けられた事故だった。

曲解された怒りにジェーンの胸は激しく脈打ち、思いあがった口をきく若造のプライドをどう叩きのめしてやろうかと、頭脳はフル回転状態だ。

本当にセクハラで訴えてやってもいい。事件の最中にミスリードして、リグスビーを嵌め大恥をかかせてやってもいい。いや、CBIのコンサルタントの職を得るために使ったコネで、リグスビーを左遷させることだって可能なはずだ。だが……ジェーンの頭は回り過ぎた。

怒りに燃えて、彼にふさわしい処罰を考えているはずだったのに、気付いてしまったのだ。

リグスビーが指摘するまで、目を背け、決して認めはしなかったが、RJの異常さに怯える自分は確かにいた。

ただの馬鹿のはずなのに、リグスビーは敏感にそれを感じとり、心を差し出して、ジェーンを大事に包み込んで守ると言っていた。

助けが欲しいというジェーンすら自覚していない思いに、先に気付いた。

リグスビーは、守ると言っている。

けれども、守ると言いながら、年若い彼の瞳は慎み深く、自分には経験が足りず、勇敢さだけではきっと弾よけ程度にしかなれないことも承知している色をしていた。しかし、そのくせ、弾よけとしてならどんな場合でもジェーンの役にたってみせると、現場で鍛え上げられてきた自分への誇りを熱く伝えてもいる。

ジェーンは、じっと自分をみつめるその情熱的な目から、心が勝手に何か感じとろうとしているのを感じた。

それは、嬉しさ……もしかしたら、幸福感という奴だ。

気持ちのいいその感情に、すかさず飛びつこうとしている自分を感じて、ジェーンは舌打ちしたくなる。だが、心の中にいる食い意地の張った小憎らしい金髪の悪魔は、くすくすと嬉しそうに笑うと、いやらしい棘付きの尻尾をくねらせて、ためらうことなくおいしい餌に食いついた。

うまかった。

決着は瞬時についた。

悔しいが、肉体の欲求よりはるかに、心の方が満たしてくれるものを求めていた。単純なくせに、純粋な心まで持っているリグスビーは、セックスの相手だけじゃなく、こんな時にも、まったくもってぴったりだ。

勝負が呆気なさ過ぎて、ジェーンの口からは気の抜けたため息が突いて出る。

「大丈夫か、ジェーン?」

思わずがくりと身体から力を抜いたジェーンに、リグスビーはすかさず声をかける。

「……君に、それだけの覚悟があるんだったら、……僕も、考え直すよ……本当にいいのかい、リグスビー?」

まるで、遠慮をしていたかのような口をジェーンがきくと、リグスビーは、まかせろと照れ臭そうに笑う。

「本当かい? 僕、君より大分年上だよ?」

「あんた、それ、大分気にしてるよな? 今だけで、もう二回も言ったぞ。大丈夫だ。俺は、あんたが好きだし……それに、あんたはすごくきれいだ」

リグスビーは、ジェーンが台についていた手の指先にだけ、そっと触れる。だが、してもいない約束『職場じゃ秘密』を守る気なのか、それ以上は触れてこない。

職場の給湯室であるここで告白までしておいて、そのおかしな気遣いが、ジェーンの心をくすりと擽った。

ほんの少し、ジェーンの口元が緩んだのに気付いたのか、リグスビーの肩に入っていた力が抜けた。

そして、不器用な彼は、ジェーンをもっと笑わせようとでも思ったのか、余計な事を言い出す。

「ジェーン。なぁ、お前、今更ダイエットシュガーはやめろよ。せっかく、あんたの触り心地のいい身体が減っちまったら俺が寂しいだろ」

確かにジェーンがミルクティーに入れようと用意していたのは、ダイエットシュガーだ。かわいい恋人をのろける間抜け男の顔で目尻を下げるリグスビーは、励ますように、ジェーンにウィンクまでしてみせる。

ジェーンはリグスビーの大きな手の下から、するりと自分の手を引き抜いた。

リグスビーはきょとんと瞬きする。

ジェーンは、リグスビーの勧め通り、戸棚から本物の砂糖を取り出し、ティーカップに入れた。そして、ふわりと身を寄せ、性的なほどリグスビーの耳へと唇を近付けた。途端にドキドキとリグスビーの鼓動が速くなる。

「ありがとう、リグスビー。でも、君がこの気持ちいい身体に触れられる日はまだ先かもしれないね。……身体の相性がいいって君はいうけど、僕はそれには賛同しかねるかな。言いにくいことだけど、……君にはもう少し努力が必要だと思うよ」

リグスビーが息を飲む。そして、タフガイのこの色男はそんなことを言われたのが、初めてだったのか、驚愕に目を大きく見開く。

ジェーンは、その目を慈愛に満ちた目でじっと見つめると、やさしく微笑み、砂糖入りのミルクティーのカップを持って自分のソファーにむかった。

気になる腹なんかをちょっと撫でてみながら。

 

 

「どうした? 腹でも痛いか、ジェーン?」

だから、ガサツな現場の捜査官など嫌いなのだ。人がナイーブな問題で悩んでいるというのに、気にせず声をかけてくる。手荒な毎日に慣れていている自分達の心が頑丈だから、相手への配慮を忘れがちなのだ。

ジェーンが無視していると、あっけなくチョウは背中を向けた。

「……君の心配は、それで終わり?」

「十分心配してやった」

「……ねぇ、僕、太ってるかな?」

「誰に言われた?」

「……リグスビー」

「だったら、そうなんだろ」

「えっ? ちょっと、チョウ!?」

 

END