面倒で、ちょっと、楽しかった一日
署内の狭いキャビネット前で後ろを通り抜けようとしたチョウに、不意に腰を掴まれ、そっと脇によけられた時、ジェーンは、酷く驚いた。
「ちょっと、通してくれ」
全く、チョウは普段通り、黙々と仕事を片付けている。じっと見つめるジェーンの視線に、むっと眉を寄せ、見るなと言わんばかりの顔だ。だが、自然と両手で腰に触るなんていう動作は、よほど親しい関係じゃなければできることじゃない。少なくとも、シャツの上からとはいえ、リズボンや、ヴァンペルトの腰に触れ、「ちょっと、どいて」なんてやったなら、半日は口を聞いてもらえないはずだ。
肉体関係のある自分たちにとって自然だが、けれども職場では確実に不適切な動作を、うかつにも、チョウがしたことに、された瞬間、ジェーンはひやりと腹を冷やしつつ、そんなミスをチョウでもするのかと、面白さを感じた。
自分のしたことに、チョウが気付いていないのも面白かった。
「何、にやついてるんだ。暇なら、寝てたらどうなんだ」
「君は、何してるの?」
「旅費の点検だ。他所の部署がミスってたのが発覚して、計算法に間違いがなかったか、過去5年分遡れだ、そうだ」
「それは、また、面倒くさそうなことだね」
「ね、チョウ」
ついてくるなと、チョウは、迷惑そうに、今の形式とは紙色まで違う過去の旅費の精算書を捲りながら歩いている。
「倉庫にも行くのかい?」
「行く」
「僕も、探すの付きあってあげようか」
過去5年の段ボール箱を開けて中身をひっくり返すのは、やはり面倒な作業だったようで、猫の手を借りるよりはましかという目で、全身を値踏みした後、チョウは、ジェーンが後を追うことを許した。
滅多に人がいないはずのカビ臭い地下倉庫には、チョウと同じ、面倒な書類点検の災難をこうむった人間が、ちらほらいる。
チョウはそんな彼らに、腕まくりした腕を上げて、軽く挨拶をして通り抜けて行く。
「なんで、点検するのが、ヴァンペルトじゃないの?」
「ミスがあったら、もうここにいない人間相手でも、過不足の取り立てをするんだ。ヴァンペルトだけじゃ、どういう経緯で、どんな人間がうちの経費で動いたのかわからない」
「ふーん。リグスビーは?」
「あいつには、取り立ての電話を掛けさせる。一枚一枚、地道に点検なんて、そのうち放りだすに決まってる」
前に来たとおり、凶悪犯罪班のコーナーは、倉庫のほぼ、どんずまりと言っていいような場所だった。
さすがに、こんな奥には、他に人はなく、蛍光灯の青い光だけが、辺りを薄暗く照らし出す。
ジェーンは、さっそく段ボールを運び出そうと棚の前に屈もうとしていたチョウの前へとするりと近づいた。
そっと腕を掴み、動作を止めさせると、懐に入り込んで胸を合わせるようにして、ゆっくりと唇を合わせていく。
さすがに突き飛ばされはしなかったが、むっと、チョウの眉が寄った。
「……ジェーン、やめろ。ふざけるな」
押しやられる。
「なんで?」
「ここは、職場で、今は、職務時間中だ。そんなことをするつもりはない」
「不適切だから?」
ジェーンはにこりと笑った。
「そうだ」
「だけど、最初に、不適切なやり方で、僕に触れて、僕をその気にさせたのは、君だよ」
しかし、職場の倉庫なんて場所で、温かい唇を触れ合わせキスしたという事実も、チョウの興味をいつまでも留めてはおかず、もう、チョウは、棚の前に屈み込むと、必要な段ボールを事務的に棚から引き摺りだそうとしている。
「何を言ってる?」
迷惑そうにでも、顔を上げてくれたのは、まだ、ましということなのかもしれない。
「君は、さっき、僕の腰を触ったんだ。それも、みんなの前でだよ。僕の腰に手を掛けて、僕を脇に退かせた。それは、もう、こいつの身体は俺のものだと公然の態度で」
ジェーンが見下ろすと、思い出しているのか、しばらく、チョウは、天井の切れかかっている蛍光灯を見上げ続けた。そして、チョウの腕に嵌められた黒い時計の秒針が4分の一周分動いた後、あっさりと口を開いた。
「それは、悪かった」
「覚えはあるんだ」
思わず、ジェーンは苦笑していた。
「ああ、確かに、お前が邪魔で、退かせた時に触った」
そして、もう棚に積まれた段ボールの側面に書かれたメモに集中する。次々と棚から引き摺り出され、積み上げられた箱は、合計6箱だ。
「ねぇ、僕、もしかして、これを運ぶのを手伝うのかなぁ?……台車は?」
「会計課の若い娘たちが、独占してる。……仕方ないだろう」
パンっと、手についた埃を払い、チョウが立ちあがる。
そして、棚を前に立つと、黒い目をジェーンの全身にあて、しげしげと眺めてきた。
「……何? 確かに、僕は、このくらい運べる程度の腕力はあるよ? でも、もっと効率的に物事を運ぶ方法があるはずだって言いたいだけで」
いきなり、チョウにぐいっと腰を引き寄せられて、唇を押し当てられた。僅かの間とはいえ、身体を動かしていたチョウからは、かすかな汗の匂いがした。それよりも、ここに来る前に飲んでいたらしいコーヒーの匂いの方が強かったけれども。
腰を押しつけられたまま、唇を舌でねとりと舐められ、開けるように促される。チョウの目は閉じられている。薄く唇を開ければ、舌が強引に口内に侵入してきた。
驚きよりも、スリルが勝った。
さっき、自分がキスを仕掛けた時に、周りには十分な注意を払ったが、それでも、ここは、いつ人が足を向けるかわからない職場の倉庫だ。
暗いとは言え、蛍光灯にも照らし出されている。
それでも、ジェーンも舌を絡めにいってしまう。
やわらかい粘膜を舐め上げ、刺激してくるチョウの与える快感に喘がされながら、はんっと、甘く鳴いて、舌をからめ合う。
息継ぎのために、軽く顔を離し、また、濡れた唇を押し当て合いながら、ジェーンの指も、ついチョウの腰を這う。
唇を離す時の、名残惜しそうにそっと唇の表面を舐めていくチョウのやり方が、たまらないと、いつもジェーンは思うのだ。
もっと、と欲しくなる。
官能で濡れた唇のまま、はぁっと湿った息を吐くと、その唇をまた、チョウが覆った。チョウは、唇の肉を噛んだまま、ジェーンをじっと見つめる。
強い視線をしたその目が何かを言いたそうで、ジェーンは、うっとりとキスを返しながら、何?と、目で尋ねたのだ。
「先払いは、この位でいいだろ」
「…………チョウ?」
「一つ運んでくれればいい。コンサルタントに、こんな仕事をさせたとボスに知れたら、職務外のことをさせるなって怒られるからな」
「……チョウ!」
「お前に触った時、気持ち良かったよ。だから、キスしたくなった。悪かったか?」
しれっと言う男に、ジェーンは呆れた。
「…………もう、チョウ、君ってね!」
重い段ボールを2箱積み上げて、さっさと先を行くチョウの後ろ姿を見送りながら、ジェーンは、やられたと、くしゃくしゃと髪をかき混ぜる。
「……でも、先払いはこの位でいいかって言ってたよね?」
ふふっと、笑って、ジェーンも一つ段ボールを持ち上げる。しかし、下ろすと、残された4箱の中で、一番軽いもの探して持ち上げ直す。
そして、狭い通路を歩きながら、段ボールと悪戦苦闘している若手職員に声を掛けた。
「ねぇ、君たち、奥の段ボール、持ってついてきて」
強い命令に、逆らえないのは、警察機構で働くものの悪い癖だと思う。
「あなた……!」
全く関係のない部門の若手を従えて帰って来た腕まくりのコンサルタントに、リズボンは目を見開き、ジェーンは、手伝ったのを褒めてよと、相変わらずの笑顔をにこりと振りまいた。
END