キス

 

「また、ジェーンが何か企んでますよ」

目を通し終わった報告書を各自の机に戻そうと部下の机に近づいていたリズボンに、パソコンのディスプレーの後に隠れ、ペンでジェーンを指したヴァンベルトが告げ口した。確かに彼女は新入りだが、まさしく、下級生の告げ口といった態の部下を、リズボンは飽きれ顔で見下ろす。

「一体なんで?」

「見てて下さい、ボス。……ほら、今、ジェーンがチョウ先輩の腕に触ってから離れたでしょう? 話しかけてる最中にも、何度か、肩に触ってるんです。ああいう触れ方をするとき、彼は、人のことを自分の思い通りに動かそうとしてるんです」

「……そうなの?」

真剣な顔で説明しようとするヴァンベルトに、リズボンの眉は疲れたように眉間へと皺を寄せる。確かに、ジェーン・パトリックという男は、似非霊媒師として財を築いていたという生中でない胡散臭い経歴の持ち主であり、だからこそ、その、人の心理の隙を突く能力に長けているという特殊さを買われて、CBIの顧問を務めているわけだが、緊急な懸案事項も抱えていない、今、リズボンは、事件以外でジェーンの鬱陶しい特殊能力につき合いたくはない。リズボンは勤務時間中にするべきことを部下にさせようと、ヴァンベルトの机の置いた報告書のいくつか訂正をしてもらいたい点を指摘しようと、部下に視線を合わせようとしたが、ヴァンベルトは、まだ、頑なにジェーンに目線を据えたままだ。

「ほら、ボス、ジェーン、今度は、リグスビー先輩のところへ行ったでしょう? でも、ほら、見て下さい。全然触ってませんよね? 話しかける距離も、さっきと違うでしょう? あれが、手なんです。ジェーン、チョウ先輩に、何かやらせる気なんですよ」

やきもきと、気真面目な新入りは先輩を心配し、気を揉んでいる。

「チョウなら、自分でやりたくなきゃ、やらないでしょ。だから、放っておいて平気よ」

リグスビーなら心配だが、という喉まで出かかった言葉は、円滑な職場運営を心掛けている上司として、心の中に飲み込んでおく。

「そんなことないんです。そこが、ジェーンの恐いところで、いつの間にか、その気にさせられてるんです。私、もう3回も、ジェーンに言いくるめられて、先輩達の現場行きに置き去りにされました」

それは、現場はまだヴァンベルトには早いというリズボンの指示でもあった。ジェーンに耳打ちした心当たりがあるだけに、上司は、気の毒な新入りを、つい見つめ、それをどう誤解したのか、ヴァンベルトはねっと、今の気分をママに認めて貰おうとするかのように、肩を竦める。

リズボンは、大きな声でジェーンを呼んだ。

「ジェーン! ヴァンベルトが、あなたがチョウに何かやらせる気なんじゃないかって、心配してるわよ。何やるにしても、おかしなことさせる気なら、時間外にしてよ!」

リグスビーと話していたジェーンがふわりと振りかえり、甘く笑う。大抵の時、この男は、余裕を漂わせている。

「何、心配してるの? 僕なら、何も企んでないよ」

ねぇ、と、ジェーンはチョウに視線を向けた。目線が合えば、ジェーンは下がっている目尻を更に下げ軽やかに笑う。ジェーンの脇で驚き顔のリグスビーと違い、あまり顔に表情のでないチョウは、微笑む仲間に、一旦視線を向けたが、軽く頷いただけで、また、そっけなく資料に目を戻す。

「ね。心配するようなことは、全然ないよ。それより、ヴァンベルト、ボスが、君に話したいことがあるみたい。多分、お叱りじゃないかな?」

ジェーンは、涼やかな眼差しをヴァンベルトの机の上の書類に向けている。リズボンが、まだ他にも手に書類を持っているのに、仕事に関係がない話をしながらヴァンベルトの側から離れなかったこと、たったそれだけで、コンサルタントには全く関わりのない事務仕事のことだというのに、報告書に指摘点があることを見抜き、にこにこと笑っていた。それには、やはり、ヴァンベルトだけでなく、リズボンも眉の間に皺を寄せた。

「……全く、嫌な奴よね」

 

「ハピー・バースディ!」

「ハピー・バースディ、ヴァンベルト!」

昼休み、いきなりクラッカーを打ち鳴らされ、名前入りの大きなバースディケーキが目の前に差し出されたヴァンベルトは、息を飲んだ。クラッカーの音を聞いた瞬間、思わず手は、腰の銃に伸びようとしていて、それを、リズボンが押えている。真剣な顔をして、ヴァンベルトに飛びついたくせに、もう、ボスは大笑いで、涙まで流しそうだ。

「面白いわ。あなた、やっぱり」

「えっ、だって、そんな」

普段は厳しいボスに、親しげに銃のグリップを握る手を叩かれ、ヴァンベルトは慌てた。

「誕生日パーティをして貰えるなんて夢にも思わなかったから?」

ロウソクの火を吹き消してと、まだ、驚きを処理しきれずにいる主役の前にケーキを目の前に差し出しながら、ジェーンは笑っている。

くるりとリズボンも目を回す。

「私は、意外にヴァンベルトが鋭くて、せっかく計画したこの秘密の企画がばれちゃったのかと焦っちゃったわ」

ますます、ヴァンベルトは驚いた。

「えっ、ボスが、このケーキを?」

ヴァンベルトは、自分より小柄な同性の上司を見降ろし、感激に頬を染める。見つめ合い硬直したような二人の女性の間に、さりげなくジェーンが割り込む。

「ほらほら、喜んでてもいいけど、ヴァンベルトは、ロウソクを吹き消して。このケーキは、チョウが買ってきてくれたんだよ。君が僕のこと疑ってたのは、このケーキのことで打ち合わせてた最中」

「そして、ジャジャーン! この花束は、野郎どもからのお前へのプレゼントだ、ヴァンベルト。これは、俺が買って来たんだ。安心していいぞ。お前が今晩、用事があるのは知ってるから、花は、ジェーンとチョウがお前の家に届けとく」

みんなが自分の誕生日を祝ってくれているという事実に、頬を紅潮させたまま、ロウソクの炎を拭き消したヴァンベルトが、え?と、顔を上げる。ジェーンと目があった。

「だって、ヴァンベルト、二日前に友達と電話して、今日の予定を決めてたよね? 本当は、リズボンは、今晩、皆でご飯でも食べに行こうって言ってたんだけど、だから、こうやって、ランチを」

ケーキと、花束の後からは、食べ慣れたピザのテイクアウトの箱が現れた。魔法使いのように、次々と品物を取り出し驚かすジェーンは、机の上に、白いランチョンマットをふわりと敷く。席に座らされて、同じように椅子を引かれているリズボンと目が合った。

「ありがとうございます。ボス」

「二年目はないわよ。あなたに早くなじんで欲しいから、今年だけ、特別。こうしてランチパーティにしてあなたの予定を邪魔しなくてすんで、よかったんだけど、でも、やっぱり、ジェーンは、何でも知ってて怖いわね」

「友達と電話してたのなんて、5秒です」

女二人は、肩を竦め、ピザとケーキを取り分ける男たちを眺めた。ジェーンが、チョウの背中越しに覗き込むようにして、自分のはこのチェリーの乗ってないのにしてほしいとねだっている。

「ヴァンベルトは、チェリーのケーキが好きなの?」

「ええ、実はそうなんです。ボス。でも、言ったことありませんよ?」

眉を寄せるヴァンベルトに、リズボンは苦笑した。

「でしょうね」

 

友達と予定通り会いに行ったヴァンベルトの家へと、花束を届けたチョウとジェーンを乗せた車は、夜道を走っていた。

「ねぇ、チョウ」

「なんだ?」

「実は、お願いがあるんだけど」

車内には、ヴァンベルトの花束がかすかに甘く匂いを残している。

ハンドルを握るチョウは、殊勝そうな顔で隣に座るジェーンに目をくれたが、すぐ視線を前に戻した。

「いやだったら、いいんだけど……僕に、キスしてくれないかな」

唐突なジェーンの願いに、チョウは返事を返さなかった。なんのリアクションもなく、それどころか、何台もの対向車のヘッドライトが見える前方に視線を据えたまま、視線もくれない。

幹線道路沿いのいくつかのガススタンドを通り抜け、しばらく車の中は沈黙が重くのしかかいた。もう、なんらかの、救済を施さないといけないかと、ジェーンが口を開きかけたところで、やっとチョウの口が動く。

「それが、ヴァンベルドが言ってたあんたの企みか?」

ジェーンは自分を笑うように薄く笑った。

「うん。そうかな。もうちょっと上手くやるつもりだったんだけど、ちょっと露骨だったみたいだ」

まだ、チョウの視線は動かない。

「今晩、こうして一緒にドライブできるところまでは、うまくいったんだけどね。……気付いてた? 人ってさ、実はあんまり触れ合わないものなんだよ。だからね、軽くでも、タッチすると、相手を親密な人だと誤解しちゃうんだよ。つまり、そんな相手からされた頼み事は断りにくくなる。チョウ、散髪に行くでしょ? 理髪店のおやじさんとは、一月に一回会うかどうかってとこだろうけど、親父さんが、ぽんぽんって腕を叩きながら、耳元で、他の客の顔を当たってこなくちゃならないから、悪いが少しだけ待っててくれって言っても、なんだか、すんなり待てるだろ?」

情けなく笑いながら説明するジェーンに、やっとチョウが視線を向けた。彼は怒っていたり、気分を害しているという表情ではない。ただ、黒い目が表情をみせないだけだ。

「なら、なんで、今、あんたは俺に触りながら、言わないんだ?」

すぐ、チョウは、前方に視線を戻す。大きなトレーラーが対向車線を走って行った。

「もう充分、チョウを操れるだけ、タッチした後だから、かな」

だが、チョウ自身に、その意識はなかった。言われてみれば、確かに、近頃のジェーンは、ドアをくぐるときに、ふざけたようにチョウの背中を押してみたり、話の終わりには親しげに肩を叩いていきはする。そして、思い返してみれば、ジェーンの手が肩に置かれたままの時に、このドライブの運転手を引きうけていた覚えがあった。しかし、ジェーンに触れられていない今、ジェーンは、自嘲気味につぶやいているが、チョウには、自分が彼の意思に逆らえないとは思えない。

車は、誕生日の花束の匂いを残したまま、道路を折れると、住宅街を迷いなく走り、静かに、ジェーンの家の近くで速度を落とした。

ジェーンがそっと笑う。

「送ってくれて、ありがとう、チョウ」

「なぁ、ジェーン」

チョウは、エンジンをかけたまま車を止め、ジェーンを見つめた。ジェーンの笑顔が他の表情と変わってしまう前に、チョウの唇は、ジェーンの唇を覆う。

思いもかけず、いきなり近付いたチョウに、啄ばむように唇を吸われ、ジェーンは、自分から口を開いてしまった。緩く開いた唇の中には、すぐに舌が入り込んできた。決して女たらしには見えないというのに、チョウの舌は巧みに動き、いつのまにか、ジェーンは年下の男に主導権を譲り渡して、されるがまま舌を絡め、ついていくだけで精一杯になっている。はんっと、鼻から、甘ったるい声が漏れていて、自分でもジェーンはそれが恥ずかしい。熱心に絡められる舌は、少し動きが強引で、そろそろ付け根が痺れを訴え始めている。だが、そのじんじんと疼くような痺れにさえも、性感を煽られた。そして、最後に唇の薄い粘膜を優しく擽るように舐め取ってチョウの舌が離れて行った時、ジェーンは、年甲斐もなく自分がキスだけで欲情し、顔を赤くしているに違いないという自覚があって、恥ずかしさのあまり、思わず目をそらしてしまった。

チョウの手が伸びて、顎を掴まれる。

「どうした?」

チョウは、予想以上だったジェーンの口内の淫らなやわらかさに、ちょっとした感動を覚えていた。いつもは、飄々と正体を掴ませないコンサルタントが、目元を興奮で赤くし、やましげに目を背けている。こんな顔は、見たことがない。

「君はどういうつもりで……」

顎を掴まれていることが不服なのか、ジェーンは視線を上げようとしない。

「今は、彼女がいない。それに、特にこだわりはない。それよりも、ジェーン、お前は? どういうつもりで?」

質問に答え、自分も質問をぶつけると、ジェーンはやっと目を上げた。

「チョウなら、僕をお姫様のように扱ってくれるかと思ったんだよ」

「……は?」

石でも食わされた時のように、チョウの眉は盛大に寄った。

ジェーンの話は時々、理解しにくいが、今回も、チョウはまるでジェーンの言い出したことがわからない。

「お姫さま? ……よくわからないんだが、それは、お前の女装趣味に付き合えるかということか?……それは考えたことはなかったが、……多分、……俺は、服のことまでとやかく言うつもりはないから」

「違うよ。チョウ。僕が言いたいのは、めでたし、めでたしの後の、何の悩みもなく、幸せに暮らすお姫様のことだよ。チョウは、人の気持ちにずかずか入り込むような真似はしないから、僕に干渉しない。それって、僕にとっては、とっても心地いいことなんだよ。感情的にならない相手と、僕は寝たい。……それよりも、僕は、チョウ、君を読み違えてた。君のこと、もしかしたら、性別の壁に心理的な負担の少ないタイプなんじゃないかとは思ってたんだけど、……君、経験があるんだね……?」

「大学の時のラグビー仲間に、頼むと頭を下げられた」

今、同性であるチョウと寝たいと言っているジェーンが相手なのだ。隠すことでもないから、チョウは答える。ジェーンは、何かを読みとろうする時のように、じっとチョウの顔を見たままだ。青い目が視線を外すことなく、チョウに質す。

「……で、付きあった?」

「恋人もいなかったしな」

返された返事に、はぁっと、重く、ジェーンは息を吐きだした。

「ちょっと、騙された気分だ」

チョウには、まるで騙したつもりはなかったから、小さく肩を竦めることで、せめて同情をジェーンに示した。

だが、さっさと気分を切り替えたのか、するりとジェーンがチョウへと手を伸ばす。花の弦のように、たおやかにチョウの首には、ジェーンの腕が巻きついた。

「でも、チョウ。僕は、初めてなんだ。優しくしてくれる?」

誘いかけるように、ジェーンが唇を重ねると、チョウは受けいれたものの、ジェーンが期待していたような、さっきまでの下腹をゾクゾクとさせるようなキスとはまるで違う、おざなりなキスしか返してこなかった。

「どうして?」

「キスして、即、寝るほど、俺は安くない」

すこし堅苦しく見える黒いチョウの目が答える。

「それは、嘘だね」

指を付きつける真似までして、はっきりと決めつけてくるジェーンに、つい、チョウは笑っていた。

「あんたには、敵わないな。まっ、その通りだけどな、でも、このまま寝たら、俺は、あんたに操られるままにセックスしたってことになるんだろう?」

チョウは、コンサルタントの愛嬌のある垂れ目をじっと覗き込むようにして見つめてやった。痛いところを突かれたようで、珍しくジェーンの目が泳いだ。

「……それは、」

「それは?」

普段、かすかな痕跡から遠く離れた結論に飛躍し、常人にはわかり難い行動をとるせいで、困らされることが多い分、困ったジェーンの顔を見ているのは楽しかった。情けなく下がったジェーンの眉はかわいらしい。

「確かに、チョウに、タッチを繰り返して、親密な関係だと誤解させるような行動は取ったんだけど、実は、こんなお願いを叶えられるほど、僕は、君を操ってない」

「だろうな」

「……じぁ、なんで?」

「操られてないというのなら、俺は、俺の意思で、お前とセックスするかどうか、決められる。……明日は、出張で、朝が早いんだ。今晩は嫌だ」

「……そんな、理由……」

がっくりとジェーンは肩を落とした。

「今日、どうしても抜きたいんなら、これから、それ用の場所まで連れてって、車から降ろしてやる。安眠用に俺と付き合いたいって言うんだったら、明後日まで待ってろ」

「待てないかも」

ジェーンは言うなり、もう一度、チョウに腕を伸ばし、引き寄せると、自分から仕掛けるようなキスをした。甘さを漂わせる目を伏せ、熱心にチョウの口内を貪る。さすがに年上のエロティックな舌使いは、ジェーンの身体から香る官能的な匂いも重なり、チョウの欲望を刺激した。ざらりとした舌の表面を合わせて、ジェーンは、チョウの舌を舐める。キスしながら、耳を擽ってくる指先の動きに、チョウの腰は、重いぞくりとした痺れを感じた。股間で起き上がってくるものがある。ジェーンはそれをもっと勃たせようというつもりなのか、唾液で溢れるチョウの口内を啜り、まだキスをやめようとしない。

「初めてなんだろ? 男に抵抗はないのか?」

チョウは、ジェーンを睨んだ。

「それは、なくはないんだけど。でも、ほら、僕、結婚もしてたし」

「それは、満足のいく結婚生活だったな」

言いながら、口を拭ったチョウがしまったと思うより前に、ジェーンが、少し寂しげに笑った。

「うん。そうかも……ねぇ、チョウ、それで、僕と寝てくれるの?」

「明後日なら」

取りつく島もなく、鼻で括ったように、変化のないチョウの返事に、ジェーンの目元にあったはかなげな笑みは、楽しげなものに変わった。

「やっぱり、僕、すごく、チョウと付き合いたいよ」

チョウは、車をジェーンの家へと向け、そろりと動かしだした。一つ角を曲がるだけで、そこは、もうジェーンの自宅だ。

「俺は、あんたと寝てから決める。相性が悪かったら、やめにする」

「やっぱり、チョウのこと大好きだよ……ねぇ、チョウ、僕のキスは気に入ってくれた?」

100メートルも走らず、車を止めたチョウは、ジェーンの視線が自分の盛り上がっている股間を見ているのに気付いていて、ジェーンの身体に覆いかぶさるようにして、助手席のドアを開けた。

「さっさと降りろ」

ジェーンがチョウの身体を避けて、思わず両手を上げたままでいたが、冷たい視線に車を降りざるを得ない。

「うん。知ってるけどね。一応、聞きたかったというか……」

チョウの声は冷たい。

「おやすみ、お姫様」

 

車を降りたジェーンに、軽く手を上げ合図すると、チョウは、もうアクセルを踏む。

「おやすみ、チョウ」

ジェーンは、バックミラーにひらひらと手を振り見送る。

「優しいね、チョウ。お姫様には、おやすみのキスをしていくんだ」

触れられた唇に触りながら、ジェーンは、くすくすと笑っていた。

 

 

END