パトリック・ジェーンのある一日
「チョウ、寝てるね」
「ここのところ、遅かったしな。チョウの担当してる事件の経過報告書も上げなきゃならないって言ってたしな」
新しい事件の現場に向かうところだ。男ばかりが押し込められた車のハンドルを、リグスビーが握り、その助手席をチョウが占めていた。
わかっている限りの情報交換と、道順の確認が済んだところで、いつも通りチョウの口は閉じられ、それから、しばらくすると、チョウの頭がゆらゆらと揺れ始めたのだ。
移動の間に休息を取るのは、悪いことではなかったが、事件の解決後ならともかく、これから現場に乗り込むという時に、チョウが本気で寝入ってしまうのは珍しかった。
しかも、チョウは、現場までの30分、途中一度も目を開けることもなかった。
現場について、リグスビーは、サイドブレーキを引くと、チョウの肩を揺さぶった。
「おい、チョウ!」
しかし、どれだけ、深く寝入っているのか、チョウに起きる気配はない。
「起きないのかい?」
先に車から降りたジェーンは、面白がって、助手席のドアを開けた。
ドアが開き、周囲がざわめきに満ちても、まだチョウは起きない。
「本気で寝てるね、これは」
ジェーンが覗き込むようにしても、チョウの目はまだ閉じられたままで、軽いいびきまでかいている。
「チョウ、チョウ!」
ジェーンは、肩を叩いて呼びかけた。
「ねぇ、チョウ、チョウってば! 現場についたよ!」
揺さぶっても起きない。
「これだけ、こいつが目が覚めないのもめずらしいな」
リグスビーが呆れている。
「ねぇ、チョウ! 起きないと、リズボンに叱られるよ!」
分厚い肩を叩く、ジェーンの力は、遠慮がちだった最初とは、すっかり違ってきている。
「チョウ! チョウ! もう起きる時間だって!」
ばんばんと、更に、手加減なしで肩を叩くと、突然、ばちりと音がしそうな勢いで、チョウの目が開いた。
頭を急に上げ、はっきりとしたその動作は、瞬時に覚醒したようで、すぐ近くで覗き込んでいたジェーンを驚かしたが、しかし、チョウは、寝ぼけていた。
間近のジェーンの顔を両手で掴むと、力強くぐっと引き寄せ、キスをしようとする。
「ちょっ! 何!? チョウ! チョウー!」
懸命にのけぞって、それを避けたジェーンは、目を見開いている。
「チョウ! 君、何をするんだ!」
大きな声で叫んだジェーンの声に、今度こそ、チョウは、目が覚めたらしかった。
目を顰めて、周りを見回すと、自分の居場所を確認するように、何度か瞬きした。
それから、頭でも痛いかのように、思い切り顔を顰める。
やっと現状を認識しだしたらしく、チョウの顔に、驚きが浮かんだ。
「……着いたのか?」
目の前に広がる森を見つめながら、ぼそりと言ったチョウの声は、深く寝入っていた余韻を残し、掠れている。
ジェーンと同じくらい、驚いていたリグスビーの顔には、同僚の思いがけない一面を垣間見たことを面白がるようにした表情が広がっていく。
「……チョウ、お前、今、寝ぼけて、ジェーンにキスしようとしたぞ……? お前、いつも、恋人にあんななのかよ? すっげぇ、強引だな」
にやにやと笑いながら、肘でつつくリグスビーに、チョウは、思い切り顔を顰めて、短く舌打ちしてみせた。
「……悪かった」
それでも、謝る。
ジェーンは腰に手を当てて、チョウを睨んだ。
「本当に、悪かっただよ。もう、びっくりさせるんだから、チョウは!」
「今度から、チョウを起こす時は、注意だな。あんな寝とぼけ方されて、恋人と間違われてモーニングキスされるなんて、すっげぇ、危険」
リグスビーは、居心地悪そうに、まだシートベルトもしたまま、座席に座っているチョウをけらけらと笑っているが、ジェーンは同じようには笑えなかった。
確かに、チョウは寝ぼけて、あんな行動を取ったのだが、あれは、甘くおはようのキスをしようとしていたなどというものではなく、自室で寝過ごし、ジェーンに起こされたのかと勘違いし、そのばつの悪さを、咄嗟にキスで誤魔化そうとしただけなのだ。
つまり、チョウは、キスでジェーンを黙らせることができるとタカを括っている。
安くみられたものだと、ジェーンは冷たくチョウを見つめる。
「悪かった。……ジェーン」
あまりに冷たくジェーンが、チョウを見つめすぎたせいか、リグスビーが、とりなそうとする。
「ジェーン、チョウも、疲れてるんだよ。許してやれよ」
そして、キスくらい、いいじゃんと、自分がされるのは絶対に嫌なくせに、いい加減なことを言おうとしたところで、無線が鳴った。
『あなたたち、どこにいるの?』
きついリズボンの声に、すぐさま、リグスビーと、チョウは動いた。
「いますぐ、行きます」
初動の現場では、事件をかき回し背景を探ることは出来ても、チームメイトの前でチョウの失態について軽口を叩いてからかう暇はなく、だったらと、ジェーンは、帰りの車の中で、きわどくチョウをからかってやろうと楽しみにしていたというのに、最後の聞き込みから車に戻ろうとする時に、突然、雨に降られた。
雨足はみるまに強くなり、そういう時に限って、車を停めた場所までが遠い。
「走れ、ジェーン!」
勿論、捜査官たちは、車までを全力疾走するが、鍛えてもいないコンサルタントの身では、それはきつい。
「も、……無理、……先、行って……」
途中で、足がもつれそうになって、顔を打っていく雨の酷さを諦め、受け入れて歩きだしたジェーンは、スコール並みの雨に、あちこちにできた水溜まりで靴の中までびしょぬれで、車に乗り込もうとすると、座席の上に引けと、新聞紙を渡される。
ぽたぽたと髪から落ちる水滴が、尻の下に引いた新聞紙を濡らしていく。
「……タオルくれるっていう優しさはないのかな?」
「あるんなら、俺たちだって使ってる」
ジェーンほど酷くはないが、Yシャツが透けて、下に着たシャツが見えるほどには、チョウも濡れている。不機嫌にシートベルトを締めている。
リグスビーは、ぶるぶると頭を振って、顔についた水滴を飛ばし、不機嫌なチョウの顔を更に顰めさせている。
ぶるりと震えたジェーンの尻の下では、濡れた新聞紙が、ぐちゃりと皺を寄せている。
「風邪引きそうだよ……」
「暑いけど、ヒーターをいれていくから、本部に着いたら、着替えを貸してやるよ。ジェーン」
リグスビーは大抵の時、親切だ。しかし、その親切心が、おおざっぱ過ぎるのが、問題だ。
本部につき、ロッカーを開けたリグスビーは、あ、しまったという顔をしたのだ。
「悪い。ジェーン、こないだ洗濯しようと思って、持って帰ったんだった。あるのは、これだけだ」
出てきたのは、リグスビーが着替えるための上下一揃えのスェットと、一枚のトレーナー、それに、ブルーのジョギングパンツだ。
しかし、身体を使うような仕事をする予定のないコンサルタントロッカーには、どうしても必要がある時のためのネクタイの他、何もなく、チョウのロッカーにも自分の着替え以外には用意はなく、ジェーンは、肩が落ちてしまうリグスビーサイズのグレーのトレーナーに、太腿も丸出しのジョギングパンツのなんだか、恥ずかしいような情けない姿だ。
靴の替えも勿論なく、凶悪犯罪班のコンサルタントは、裸足で本部のなかを歩きまわっている。
「ハクション!」
濡れた髪を拭くことはできたが、まだ寒くて、ソファーの背にかけてあった毛布を腰に巻き、とうとうジェーンは、巻きスカート状態で、データー検索をしているヴァンペルトを背後から覗き込んでいる。
「まるで、キャンプにでも来たみたい」
濡れた服から着替えて、泊り込み用のスェット姿に、スニーカーでうろついている男どもに、リズボンがため息をついている。
そんな状況では、さすがのジェーンも、今の自分たちの姿以上に、面白く今日のチョウの失態をみんなに披露し、やり込めることなどできなかった。
それどころか、
優しげな振りをして、自分用のコーヒーを入れるついでに、ジェーンに紅茶を持ってきたチョウが、耳打ちした。
「ジェーン、そのまま、毛布を巻いていろ。お前、腿の付け根の辺りに、いくつか跡があるんだ」
毛布を巻いたまま動きまわるのは、さすがに鬱陶しくなってきて、取ろうとしていたジェーンは、恥ずかしい自分の身体の状態に赤くなって、慌ててきつく毛布を巻きなおした。
それにしても、当然というチョウの態度には、腹がたった。
「……誰が付けたんだろうね!」
責めるように言うと、気分を害したのか、チョウがかすかに顔を顰め、それで、少し、ジェーンの溜飲は下がった。
だが、
「ハクション!」
「ジェーン、私たちにうつしたら、わかってるわね。覚悟してもらうわよ!」
END