本を読んで、手を握る。キスもする。

 

ジェーンは、少し落ち着かない気持ちで、チョウの家のドアの前に立っていた。

あらかじめ、インターフォンで尋ねると知らせてあるから、チョウが小さく叩いたノックの音を聞き逃すとも思わないが、時刻の遅さに配慮して、回りに遠慮して叩いたドアが、本当に開くのか、不安な気持ちにさせられる程に、アパートメントの共有スペースは灯りが絞られ薄暗かった。

しかも、霊能者のふりをしていた時のように金色の髪を丁寧に撫でつけ、明るめの色のスーツに皺ひとつないYシャツは、久しぶりすぎて、自分でも少しばかり落ち着かない。思わず、カフスを弄る。

「チョウ」

待ち時間が耐えられなくて、声を出して呼ぶのに、ドアの向こうからは、やっと足音が聞えた。

だが、用心深く、堅実なチョウは、必ず、ドアスコープを覗いてからしか、ドアを開けてはくれない。視認するための、たった短い時間だが、だが、その時間が今日は長く感じられて、ジェーンはいらいらと自分からも顔を近付け、ドアスコープの小さなガラスを覗き込む。

 

チョウは、小さなガラスの球を覗き込んで驚いた。

向こうからこちらを覗き込んでいるのは、いつものシャツに皺を寄せた、気の抜けたジェーンではない。金色の髪がきれいにセットされている。こんな時間だというのにネクタイまでしている。

だが、それを見るチョウはといえば、家でくつろいでいたのだ。色の禿げたTシャツにチェックのトランクスだけの格好だ。一人だけしゃれめかして現れたジェーンと、自分とのあまりの違いに、チョウは、チェーンを外すのが嫌な気分になったが、夜のこんな時間に、廊下にあんなに目立つ男を放置して、隣近所で噂になるのは嫌だった。仕方なく、ドアの鍵に手をかける。

「どうした? 何の用だ? どこか行くのか?」

たとえば、パーティだとか。それほど今晩のジェーンは華やかだ。

つい一時間ほど前まで残業していたチョウ違い、まだ陽も明るかった定時で帰ったコンサルタントは、それからの時間を、風呂と、鏡とクローゼットの前で過ごしたんじゃないのかと思う程、姿を隙なく整えていた。アフターシェイブの匂いなのか、清涼感のあるいい匂いまでさせていて、チョウが、何事だと怪訝に様子を眺めまわすのに、ジェーンの顔には一瞬、落胆の表情が浮かんだが、それは、すぐに消え失せた。チョウが、今、浮かんだ表情の意味を考えようかと思う前に、ジェーンが笑う。

「僕の行き先はここ。僕の用事もここにあるんだ」

そのまるで花でも開いたような華やかな笑顔の威力に、思わず、チョウは目を反らしそうになった。ここは、ただの自宅の玄関だ。こんな派手な笑顔が必要な場所じゃない。ジェーンの細く長い指が家の中を指す。

「入ってもいい?」

「そうか、……じゃぁ、まぁ、入れ。……何か飲むか?」

言った途端、ジェーンの青い目が不思議そうにチョウを見つめた。

チョウも、自分が口にしたことが、不可解だった。部屋を訪ねてきたジェーンに、今まで、わざわざ飲み物を勧めたことなどない。

ジェーンが、派手な外見をしていることはわかっていたはずだが、爪の先まで磨き上げてきたジェーンは、まるで特別な人間だった。どうもそれが、チョウに慣れぬことを口走らせたらしい。

「……じゃぁ、紅茶?」

「……いや、まぁ、飲み物なんて、どうでもいいか。何の用だ? ここでいいか?」

 

ジェーンは、別段、飲み物の要求を退けられたことも、ソファーで座るのも嫌なわけじゃなかったが、自分が味わう予定だった気分とは違う気持ちを味あわされ、勧められたソファーに掛けながらも、自分がどこかでミスしたのかをそっと胸の中で探り始めていた。

チョウの視線は、長く自分に留ったままだ。

だが、先にソファーに掛けた彼の手は、まるで自分を力強く見せるように膝の上で組まれたままだ。

チョウの部屋のソファーは、ジェーンにとって気にいっている場所で、この部屋に来ている時に、ごろごろとして、その場を占領していることだって多かった。

しかし、普段のチョウは、ソファーに座れなんて勧めはしない。今、チョウがこの場に先に座り、ジェーンにも座れと言ったのは、牽制の現れだった。それはまるで初めての客に対する、この部屋の奥にある寝室やキッチンへの立ち入りを制するための、無意識のガードだ。

「それで何だ? 何の話だ?」

短くチョウが言う。

「……ねぇ、もしかして、僕の格好のせいで落ち着かない?」

自宅にいながらの、チョウの緊張は、それ以外考えられなくて、ジェーンは黒い目の中を覗き込もうとした。

「こういうの……好きじゃなかった?」

ジェーンが指先で金色の髪を弄るのに、チョウが瞬きする。ジェーンの顔を直視して、口元をひくりと動かした。多分、笑ったつもりだ。

「嫌いなわけないだろ。どうして嫌う必要がある?」

「じゃぁ、どうして、いつもみたいに、本を手に取らないんだい? 僕が来た時に、伏せた本がここにある。君、いつも僕がしゃべってる最中だろうが、すぐ、本を机の上から取り上げるだろ」

あれ、すごく失礼な態度だと思うんだけどね。

チョウの視線が一瞬、ジェーンの目から逸れた。

すぐそれは、いつもの強さでもって、ジェーンの顔へと戻って来たが、言い負かされるのは、チョウにしては珍しいことだ。

「ねぇ、なんで?」

「そんなことより、用事は何だ?」

チョウの仕切り直しは、ジェーンを落胆させた。

だが、チョウの目は、答えを得るまで力を緩めそうになく、仕方なく、ジェーンは口を開く。

「……用事はないよ。……チョウに会いたかっただけ」

口にすれば、酷く馬鹿げた内容だが、これ以上に、ジェーンがここを訪ねた理由などなかった。

ドアを開けるまでの落ち着かないものの楽しかった気分が殺げ、椅子に深く腰掛け直し、ジェーンは足を組む。磨き上げられた自分の靴の先を見つめながら、独り言をつぶやくように言葉をつづける。

「チョウ、君さ、近頃、忙しくて僕が側に来るのを迷惑がってただろ。だから、きれいにしてきたら、大事に扱ってくれるかなって」

自分で口にして、実に馬鹿馬鹿しい思いつきだったと、ジェーンも思う。しかし、用意をしている間は、酷く気分が浮き立ち、にやつきが止まらなかった。容姿には自信があった。ピークが過ぎた自覚もあったが、今だからこその色気を認めていた。久しぶりに袖を通したスーツと、糊のきいたYシャツの自分が鏡に映るのを、満足の気持ちでジェーンは見つめた。これなら、チョウだって、眠いや、疲れたは言い出さないはずだと。

だが、ドアを叩いてみれば、確かに、チョウは、眠いも、疲れたも言いはしなかったが、同時に、まるで期待とは違う扱い方をした。

ジェーンが期待していたのは、賛美と欲望の眼差しだ。全身を舐めるように見つめられるかもしれないと思った。値踏みされた後には、そのままベッドへと連れ込まれることだって期待した。

「ここが、僕のいるべき場所? 僕はベッドまで手を引いていってもらえるのを期待してたんだけど」

やっと、チョウの表情が変わる。

「お前、何を考えてるんだ?」

身体が発していた緊張感が消え、ガードが緩む。途端に、すごいと思ったが、無意識なのか、手がテーブルの上の本に伸びている。

「僕が、考えてること? そうだね。君に優しくしてもらいたいってこと位かな? 行ってもいいって聞いたら、即答でOKの返事が貰いたいし、来てる時だって、眠いや、邪魔だは言われたくない」

急に、チョウが、席を立つ。

手を差し出されて、びっくりしたまま、ジェーンが握り返すと、チョウはベッドルームまでを先導した。

ドアを開けると、ジェーンに促す。

「皺になって困るものは、脱いでかけろ」

ジェーンがYシャツと下着一枚の姿になるまで、チョウは、じっとジェーンの前に立っていた。

期待はしていたが、実際、こうされると、ジェーンは落ち着かない。

「ジェーン」

だが、手を伸ばされて、ジェーンはその手を握った。

チョウは、ベッドへとジェーンをいざなう。

「お前、きれいだぞ」

頬にキスされた。

「だけどな、明日の朝は早いんだ。本を読んでやるから、一緒に寝ろ」

まるで予想外だった。

だが、ベッドに寝転がると、大真面目に本を読んでくれるチョウの声がおかしくて、ジェーンはくすくすと笑ってしまう。

「きれいな僕に興味ないの?」

チョウの目が文字を離れ、ちらりとジェーンを見る。

「興味はある。……今度またしてくれ」

せっかくセットした髪を、チョウの手が撫で、乱していった。

「また、今度? しょうがないなぁ……特別だよ」

 

END