CJ2
このくらいの縄なら、すぐ抜けられるよと、ふざけていたジェーンが、思っていたよりも結び目のしっかりとしたチョウの拘束に、顔をむっとさせたのは、10分前だ。
「もう諦めろ。ジェーン」
「ちょっと手間取ってるだけ。縄抜けなんて久しぶりだからね」
「お前、笑顔が引きつってるぞ。自覚あるか?」
「は? チョウ、ちょっと僕が上手くやれないでいるからって、君、いい気になるのは早いよ」
腕に縄をかける時、べらべらとしゃべって注意を引きつつ巧妙に手首をずらして、縄に余裕を持たせようとしていた金髪の腕の一番細いポイントをきっちり押させて、チョウは縛った。締められた瞬間、しまったとジェーンが思ったのもわかっていたが、そしらぬ顔をした。
「もう手品は終わりにしろ」
「助手の候補に美人の名前をいろいろ挙げてたのが気に入らなかった?」
ジェーンは、座らされている椅子の背にのけ反るようにして、チョウを振り返る。笑う金髪が、気持ちを逆撫でようとしているのにも、チョウは気付いていた。腹を立てたチョウが、この部屋から出て行くのを待っているのだ。寝室にでも引きあげたら、成功で、その隙に、ペン立てに立っているナイフで縄を切ろうとでも思っているのだろう。
「……ジェーン。お前に付きあってると、日が暮れる。ちょっと買い出しに行ってくる」
だから、チョウは、その時間をたっぷりとジェーンに与えてやることにした。嘘だ。金髪が買い物についてくると、支払いは彼のカードになるが、代わりに、余分なものをいくらでもカートに入れようとするから、面倒くさいのだ。
「えっ!? 嘘だろ。チョウ!」
「ゆっくりやってろ、ジェーン」
バタンと扉が閉まって、カチリと鍵が締まるのに、ジェーンは、ぎりりと自分の唇を噛みしめた。もう、チョウの目がない以上、縄抜けに優雅さは必要ない。思い切りがたがたと椅子を揺らして腕に赤い跡が残るほど、縄を引っ張ったが、拘束目的の捕縛の仕方をどこかで習ったとしか思えないチョウの縄のかけ方は、まるで緩みもしなかった。
ジェーンは、チョウが出て行く前に、たった一言、この縄のかけ方では抜けられないと自分の負けを伝える言葉が、吐き出せなかった自分の勝ち気を悔やんでいる。
誕生パーティーの余興にほんのちょっとした手品を披露しようと思いついただけだ。
練習でさえない、今、縄から抜けられなかったとしても、どうということはない。だが、軽々と縄抜けしてみせる自分を脳裏に描いていただけに、この事態はショックだった。
瞬きする間に縄から抜けて見せるつもりだったから、この余興の前にトイレにいっておかなかったことも悔やんでいる。いや、現在、一番心を占めているのは、この膀胱をつよく圧迫してくる強い尿意にどう対抗するかという問題だ。
そもそも、トイレに行きたかったというのに、チョウをからかうことについ夢中になって、ゲームを始めてしまった。両手さえ自由であれば、トイレにいってジッパーを下げることなど、とても簡単だというのに、後ろ手に縛られていては、それができない。
髪を振り乱すほど、暴れてみたが、やはり、縄は解けそうにない。それよりも、がたがたと揺れる椅子から倒れ落ちるほうが早そうだ。出掛ける前、チョウは、からくりを知っているとばかりに、ペン立てのナイフを視線で示していったが、残念だが、あれは先週、ジェーンが自分で、チョウがDMの封を開けるときにでも困ればいいと、悪戯用のゴム刃のものとすり替えた。万事休すだ。
この場で漏らしてしまうことを考えて、羞恥と同時に、チョウに怒鳴られるんじゃないか思いついて情けなくなる。自分で掃除させられることを想像して、ジェーンは、せめてバスルームに移動しようと、ふらつきながら、椅子を立った。
ああ、もう、漏らしそうだと、イライラしながら、移動中に自分の携帯がソファーの上に放り出されているのが目に入って、いそいそと方向を変える。だが、低いソファーの上の携帯は、取るのが非常に難しく。しかも、最悪なことに、せっかく掴んだと思ったら、取り落とした。唯一の救命道具は、ソファーの下に転がった。おまけにジェーンも尻もちをついた。
「……チョウー!」
だが、叫んだところで、家人は買い物中だ。今日も買い物についていって、邪魔になるに違いないスパイス棚をこの部屋に設置しようと思っていたのに、その当ても外れた。
本当に情けないと思いながら、額で床を擦りながら、なんとか、身を起こす。柔軟とは言い難い身体だから、足を使って、床下の携帯を拾うのは諦めた。いや、諦めざるを得ないほど、膀胱が激しく主張している。もう選択肢は、ここで漏らすか、せめて、バスルームまで行って漏らすかだ。
一秒でも早く、トイレに行きたいという切迫した身体の事情と、胸の仲を探ってみたところで、自分には、この場でこのままというだけの度胸はなさそうだという情けなさの極みで、ジェーンはよろよろとバスルームに向かう。
だが、必死に後ろ手でバスルームのドアを捻り、たどりついてみたところで、目の前に便器が見えるだけで、やはり、両手の縄はほどけない。焦がれていた便器を目の前にした分、余計に尿意が切迫してきた気がして、込み上げる排尿感に、頭がおかしくなりそうになる。
「これは、やむを得ない事故って奴だ」
独り言をつぶやいて、落ち着かない息で乾いた唇を何度も舐める。
「事情を説明すれば、チョウだってわかってくれる」
もう、我慢できなくて、便座に座った。間髪置かず、ペニスの先端から熱いものが溢れだし、口からは、安堵のため息が漏れる。下腹が楽になっていくのにしがたい、スラックスの前は、大きく尿の染みが広がって行った。それは、太腿を伝い、ズボンの尻の辺りにたっぷりと溜まる。
温かなものが尻を包み込んで、ジェーンはたまらなく気持ちが悪い。腹の中を痛くなるほど占めていたものが排出される快感を殺いでいくほど気分が悪い。最初に大きくズボンを伝い広がったものは、空気に触れて冷たくなってきているから、腿にできた染みと尻との温度差が余計に気持ち悪かった。
「あー、なんかなぁ。もう……」
自分を包む、汗と、尿の匂いもうんざりする。だが、今、立ち上がれば、バスルームが酷い有様になるのは、目に見えていた。
「ジェーン?……おい、ジェーン?」
ドアを開ける音と、チョウの声が聞こえたのは、ジェーンが珍しくも自分の性格を責め始めそうになってから、3分もしないうちだった。
「チョウ! ここ、チョウ! ここだよ!」
大きな声をジェーンは上げる。こんな惨状で顔を合わせたくないという気持ちは、身体的な気持ちの悪さが凌駕した。大きなジェーンの声に驚いたのか、荷物を投げ出す音と、ドスドスという慌てた足音がして、バスルームのドアはすぐに開けられた。
「……やぁ、チョウ」
ジェーンは、力なく笑いかけた。
「……お前、どうした……?」
だが、質問の直後には、現状を認識して、チョウの目がいままで見たこともないほど、大きく見開かれたのに、自業自得とはいえ、後ろ手に縛られたまま、失禁したという状態でも、少しばかりジェーンは楽しかった。
「どっちを先に報告しよう? 漏らしちゃった。結局、縄は解けなかったんだ」
ジェーンが打ち明けると、茫然と見開かれていたチョウの目が、やっと普通の大きさに戻る。チョウの口は、はぁっとため息を吐きだした。
だが、チョウとしても、ほんのちょっと買い物に出ただけだったのに、しかも、万が一、ジェーンが縄抜けできない事態を想定して、後で買い直しすることも頭に入れた最低限の買い物だけで戻ったというのに、ジェーンときたら、想像のはるか上をいく事態を引き起こしてくれている。部屋ではなく、トイレで漏らしているのだから、金髪が恥ずかしい思いをしただけで、チョウの被害はほとんどないが、たった一言、出掛ける前に「トイレに行きたいから、お願い、縄を解いて」と言っていたら、この事態は避けられた。
「呆れた……」
「呆れててもいいけど、とりあえず、着替えるのを手伝ってよ。すごく、気持ちが悪いんだ」
「だろうな。まず、腕の縄を解いてやる。……臭うぞ、お前」
チョウに苦笑されて、ジェーンは情けなく笑った。
「当たり前だよ……漏らしたんだよ」
あれほど、解けなかった結び目は、チョウの手で簡単に解かれる。
「縄抜けは、こんどの手品でやるなよ」
「だよね。チョウにこのこと思いだされて、にやにやされても困るし」
縄が完全に解かれて、もうジェーンは立ち上がることだって可能だというのに、金色の頭が俯いている。
「どうした? ジェーン?」
ジェーンが僅かに顔を上げ、上目づかいにチョウを見る。
「……ねぇ、……僕にキス出来る?」
不安そうにしたその様子は、この勝ち気な金髪にとっても、さすがに失禁はダメージが大きかったのかと、チョウはにやりとした。嫌味にじっと目を見つめたまま、チョウは、ジェーンに顔を近付け、短く唇を触れさせた。ジェーンがやわらかい唇を押し付けてくるのを、さっと顔を引いて逃げる。
「さぁ、お漏らし坊主は、さっさと後始末してくれ」
これ見よがしに、青い目をじっと見つめ目を離さない。
「チョウがあんな風に、縛ったからだろ」
「洗濯機はあっちだ。その前に、そのままシャワーで全身流してから、洗濯機に突っ込めよ」
END
すみません……。