朝の約束

 

「ねぇ、ソファーでいいから、寝かせてくれないかな?」

そうやって、夜中近く、ジェーンが電話を掛けてきたら、チョウは、断らなかったが、しかし、本当にジェーンにソファー以上の寝床を与えもしなかった。

眠れない疲労で気弱な顔をしているくせに、まだ笑顔を浮かべるジェーンのためにドアを開け、中に入れれば、もう、自分の仕事は終わりだと、チョウは、そっけなく毛布の用意がしてあるソファーの前を通り過ぎる。

だから、寝室のドアが閉まってしまう前に、慌ててジェーンは、パジャマの背中へと声をかける。

「おやすみ、チョウ」

「おやすみ、ジェーン。さっさと寝ろよ」

ジェーンの取り残されるリビングは、さっきまでジェーンがいた自宅と同じくらいに静かだ。だが、この狭く、寝心地の悪いソファーの方が、自宅のマットレスよりも、幾分かはジェーンに睡眠という休息を与えてくれて、事件の捜査に支障が出そうな程、睡眠がとれなくなると、ジェーンは、チョウを頼るのだ。

 

「おい、起きろ、ジェーン」

朝方近くに、やっとうとうとできたジェーンを、チョウは、容赦なく起こす。

それも、泊れば毎回だ。

ジェーンのいつもの起床時刻よりも1時間は早い、チョウの起床時間とほぼ同じ時刻に、やっと寝付いたばかりであっても、必ず起こされ、髪もくしゃくしゃのまま、ジェーンは、茫然と回らぬ頭で、チョウの家になんて泊ったことを、毎回必ず、激しく悔やんだ。

いや、それよりも、健康的で気真面目な生活を送るチョウになんて、絶対についていけないと怨みがましい気持ちの方が強い。

「お前、今日は、パンを何枚食う気だ?」

まだ、パジャマ姿のチョウは、ソファーの毛布を掴んだまま、睡眠に強い未練を見せるジェーンのことなどお構いなしに、裸足のまま自分の分のつもりなのか、パンを3枚取り出している。

「……僕も、3枚」

朝、チョウは、コーヒーしか入れない。

普段より多めに沸かすお湯なら分けてくれるが、ジェーンのために紅茶を入れる手間をかけない男は、中身のなくなったパンの袋を捨てている。

頭を重くしている眠気を追い払うため、どうしても熱い紅茶を渇望するジェーンは、今にもくっつきたがっている瞼を開けておくために、ぶるぶると大きく頭を振ると、這うようなだらしのない足取りで、ケトルに近づく。

チョウは、焼けたパンを取り出し、皿に載せている。

勿論、次のをトースターにセット中だ。

「バター、塗るか?」

まだ、ジェーンは眠い。大きな欠伸がでる。

「一枚は塗っといて。……残りは、ジャムにする」

「ジャム? この間の、お前が持ってきたのを言ってるのなら、もう俺が食ったぞ」

だが、全く眠気を残していない顔のチョウは、残っているとでも思っていたのかとでも言いたげに、トースターの前に屈みこんだまま、胡乱にジェーンを見上げる。

 

いい匂いのする熱い紅茶を一口飲んで、やっと人間らしい気持ちになれたジェーンは、2枚目のパンに齧りついているチョウと一緒にテーブルについている。

そういうジェーンも、もう、2枚目のパンに手を伸ばしているところだ。

「あのさ、今度の週末に、何種類かジャムを一緒に買いに行くってのはどうかな?」

やっとジェーンが、パンに齧りつくチョウを、今日もいい男だとか、なんだとか、褒め言葉でもって表現してもいい気分になってきたというのに、

「俺は、この間のでいい。あれが美味かった」

チョウは、デートの誘いを断ったうえ、つまりは、お前が買ってこいと、命令までして、またジェーンを、むっとさせた。

週の途中のチョウと話をすれば、こういうことはありがちなことだが、こういうことがある度に、ジェーンは、もう二度とチョウの部屋になんて泊りにきてやらないと思う。

頼まれたことはまだないが、頼まれたってきてやらないと、いつも思うのだ。

だが、チョウは、全くジェーンの機嫌を気にかけず、テレビのニュースに耳を傾けている。

せめてもの気分転換に、何か読むものでもないかと、机の上を探し、ジェーンは、チョウの携帯がテーブルの上に置いてあるのに気付いた。

これは、珍しいことだ。

「リズボンから連絡が入る予定でもあるのかい?」

普段なら、出掛ける間際まで、チョウの携帯は枕元に放りだされたままだ。

「ある」

チョウは、3枚目のパンを手に取った。むしゃむしゃと齧りつく。同じだけ食べるくせに、よく入るなぁと、つい、ジェーンはチョウの口元を見つめてしまう。

「それって、昨日の夕方、少し言ってた事件のこと?」

「そうだ」

途端に、ジェーンは齧りついていたパンを放りだし、席を立った。

「じゃぁ、電話がかかって来る前に、おはようのキスしないと! チョウ、この間、約束したの覚えてるよね? 平日の朝の僕たちの関係は最悪なんだから、ひとつくらいは、恋人らしい行為をしなきゃ、殺伐とし過ぎてる」

 

テーブル越しに身を乗り出してきたジェーンを眺めるチョウの目は、多少呆れ気味だ。

だが、いくらソファーしか貸さなくても、チョウも、キスくらいは、ジェーンに与えるのだ。

「眠れたのか、ジェーン?」

パンを噛みちぎっている途中だが、僅かに、チョウの目が笑っているのに、ジェーンは気付いていた。

満腹になってきたのかもしれない。

「……多少は」

にっこりとジェーンが微笑み返すと、3枚目を腹に収めきったチョウが、立っているジェーンに合わせ、僅かに椅子から伸びあがる。

あと少しで唇が触れるところだった。

携帯の着信音は、聞き逃すなんてミスを許さない上司に配慮して大きい。

テーブルを振動させた携帯を、躊躇なく、チョウは取った。

「はい」

『チョウ、6時00分に協力の依頼があったわ。6時30時には出るから』

「了解です」

『これから、ジェーンにも連絡を入れるけど、拾ってきて』

「了解です。ボス」

短く切れた電話のすぐ後には、ジェーンの携帯がうるさく鳴った。

ジェーンは、ソファーの上に投げ出してある携帯まで歩き、ゆっくりと取り上げる。

「おはよう、リズボン」

『ジェーン、チョウが迎えに行くから、今すぐ出勤してきて頂戴。資料はチョウが持ってるから、車の中で目を通して』

振り返れば、チョウは、もう着替えを始めていて、そのリズボンの言う資料というのも、テーブルの上に投げ出してある。

「今すぐって、急な話だね、リズボン」

『悪いけど、今すぐは、今すぐよ。あなたの顔が洗ってなかろうが、髪が梳いてなかろうが、私はちっとも構わないから、洋服だけ着てきて頂戴。移動中の車の中で、寝なおしでも何でもしてくれればいいから』

有無を言わせない迫力のあるリズボンの声に、ジェーンも、やや飲まれ気味だ。

「……なんだか、君、怒ってるね、リズボン?」

 

「ねぇ……」

電話を切って、ジェーンは、顔を洗いに行こうとしているチョウの背中に声をかけた。

「無理だ。忙しい」

おはようのキスの続きは、簡単に却下され、ジェーンはため息を吐く。

「しょうがないなぁ」

ジェーンは髪をくしゃくしゃと掻いた。

「僕、顔も歯も磨かなくていいってリズボンに言われたから、パン食べながら、事件のファイル読んでるから」

 

チョウが電話のすぐ後に家を出たとしても、コンサルタントであるジェーンを拾い上げて、6時30時前にCBIに辿り着こうとすれば、かなり無茶な運転が要求される。

だが、今回、ジェーンがチョウの家に泊っていたことで、迎えに寄る時間が短縮され、CBIの建物が目に入ったのは、まだ出発の時刻だと告げられた10分も前だった。

昨日の夕方のうちに、多少事件については聞きかじっていたが、だが、それは、若い女性の遺体が発見されたという事実だけだった。ジェーンは、普段より格段にスピードの出たチョウの運転する車中で資料を読み、リズボンの怒りの原因を突き止めた。

女子大生の死体が見つかった3日前の事件は、同じような容姿の若い娘たちが、ほぼ同じ地域で、数年間の間隔を開けながら、行方不明になっている。

遺体が発見されたものは、今回のものと合わせて2体目だ。

前回の遺体が、たまたまキャンプに来ていた女性のものだったせいもあり、連続誘拐殺人事件だとの判断を下すのが遅くなった。

若い娘の家出者も多い。

しかし、20代前半の細身で、ブルネット。景観が美しいキャンプ地として有名だとはいえ、田舎町で、4人も同じような容姿の娘がいなくなっていることの異変を、地元警察がもっと重要なことだと認識さえしていれば、CBIへの捜査協力の依頼は、もっと早かったはずだ。

信号を曲がり、最後の角を視野に入れた車はそのまま駐車場に滑り込むかと思われたが、チョウが、ブレーキを踏んだ。

「何? あんまり早いとおかしいから、時間調整?」

ジェーンは、現在までにわかっている事実が載った資料から目を上げもせずに、皮肉めいてチョウに尋ねた。

「違う」

「だったら、早く行こう。……え?」

シートベルトを外したチョウの身体が近づいてきて、ジェーンは驚く。

チョウの厚い胸板がジェーンを押し潰している。

キスされそうになって、思わず、ジェーンは自分の手で自分の口を覆う。

リズボンが不機嫌になるのも当然なほど、事件は深刻で、残忍だ。

さすがにふざける気にはジェーンもなれない。

「ご褒美だったら、事件が解決した後でいいよ、チョウ」

嫌味っぽい口調と、ジェーンのきつい眼差しに、チョウは一瞬顔を顰めたが、拒まれ、離した顔を、また近付け、口を覆うジェーンの指へと、軽く唇を触れさせた。

唇はそっけないほど、すぐ離れる。

だが、やわらかな唇の感触は、確かに指先に触れた。

まさか、そんな触れ方をチョウがしてくるとは夢にも思わず、ジェーンの青い目が、思わず、唖然とチョウを見た。

チョウは、リズボンからの電話を受けた後、ずっと厳しい顔つきのままなのだ。

今も、身体を包む痛いような緊張感は、変わらない。

それが、なんで?と、考え、そして、ジェーンは

「もしかして、おはよう……?」

あまりにも現実的な朝しかこない平日のチョウとの関係に、注文をつけたジェーンの求めを、約束を交わしたにも関わらず、さっきチョウは拒んだ。

「仕事中は、余裕がないんだ」

チョウが言った、それは、ただの事実だった。だが、謝罪の言葉だ。

じっとチョウが見つめている。

なんだか、恥ずかしくなって、ジェーンは、思わず目を反らした。

「……え、あ、うん。おはよう。チョウ」

少し寝れたんだろ、よかったなと言ったチョウは、ジェーンの家に寄り道したにしては早すぎる時間だというのに、もう前を向き、アクセルを踏むと、最後のカーブを曲がる。

目指すCBIの建物までは短すぎる距離だというのに、アクセルを緩めない。

前と見つめる顔つきは、あんなつまらない約束を守ってくれるとも思えない、厳しい捜査官の顔だ。

ジェーンは、思わず、身体の力が抜けてしまった。

「……なんか、僕、チョウが、優しいんだか、そうじゃないんだか、わかんなくなる時があるんだよね」

チョウは、横も見ない。だが。

「いい具合に、緩んだな、ジェーン。お前が思いつめたような顔じゃ、事件が解決しないんじゃないかとボスが心配する」

なんだ、そういうわけかと、もう、ジェーンは資料も放り投げた。

「……リズボンのためなんだ?」

車は、約束の7分も前に駐車場に滑り込んだ。

絶対に、ジェーンの家に寄っていては、辿りつけない時間だ。

キィを引き抜くチョウは、事件解決のためだと言った。

だが、ちらりとジェーンの方を向き、僅かに唇を引きあげる。

「お前にキスする権利が、俺にはあるんだろう、ジェーン?」

それは、ジェーンがチョウに、僅かな甘さを求めて、キスか、ハグか、もう握手でもいいから、出勤前の朝にも、必要だと訴えた時に言った台詞だ。

ダメだったか?と、もう、こちらを見る気も、謝る気もないくせに、適当にチョウはいい、先に車を降りて駐車場を走り出す。

「チョウ!」

駆けて行くチョウの背中を、遅れてジェーンが追う。

 

「リグスビーが5分遅れるそうだから、おいていくわ。ヴァンペルトは、ハィウェイで合流する」

建物の入り口で、リズボンが待ちかまえていた。バックを手に、もう歩き始める。

ジェーンは、はぁはぁと、身を折り曲げながら、おはようと声をかけた。

「リグスビーは、きっと顔を洗ったんだね」

「ジェーン、資料は読んだ?」

振り返りもせず告げるリズボンの声が固い。

「僕は、君の指示通り、顔も洗ってないからね」

チョウは、ジェーンが顔を洗ったことも、髪をセットしたことも知っている。

顔を上げて、にっこり笑ったコンサルタントに、思い切り顔を顰めたリズボンの歩調が緩んだ。

緩んだのは、歩調だけではない。厳しいだけだったリズボンの瞳が、目まぐるしく嫌味なコンサルタントへの罵詈雑言を喚き立てている。

チョウはひそかにジェーンに感心する。

「ジェーン、顔だけ今すぐ、洗ってらっしゃい! チョウ、リグスビーが到着次第、出発するから」

 

 

事件は、2日後、犯人の射殺という形で、解決を得た。

 

 

END