アブラカタブラ
曇りで、あと1時間もしないうちに、雨が降り出しそうな天気、そんな今日は、職場で、チョウから望み通りのキスを引き出すには、最適な日だった。
チームに最優先を命じられている事件はなく、だが、被害者のため、解決に向けて手掛かりを求めなければならない事件は、両方の指の数を越えて抱えたままだ。その上、明日、裁判が開かれ、チョウが証言台に立つ予定案件は、自白をもとに逮捕した容疑者が、証拠、証拠とうるさくて有名な弁護士を立ててきた。打ち合わせにちらりと顔を見せた赤毛の検事に、挑発されても感情的にならないでと釘を刺された時、めんどうだと一言吐き捨て、顔を顰めさせたチョウは、ジェーンの目から見れば、愛しいかぎりだ。
「ねぇ、チョウ、ちょっといいかい?」
裁判所に赴く前日のチョウは、無表情な顔にさらに表情が無くなる。そんなに嫌いかよと、隣に机を並べるリグスビーを笑わせるほどだ。席に座ったまま見上げるチョウは、何だと目だけで尋ねてくる。
「悪いんだけど、付きあってくれるかな? ちょっとさ、読みたい資料があるんだけど、場所を教えて欲しくて」
顔を顰めはするくせに、頼み事をすれば、その実、まるで尻が軽く、すぐ動き出すところに、チョウの以前の上司は、部下を仕込むのがうまいタイプだったに違いないと思っている。ただし、結果を急ぎ、手加減もない早さで判断し、指示を出す彼の仕事ぶりを尊敬しつつも、もう組むのはごめんだと、チョウは思っている睨んでいるが。
ジェーンは、ちらほらと傘を手に出かけていく仲間たちとすれ違いながら、腕を振って歩く。
「お前なら、今の5倍は、仕事が出来るはずだって言われた?」
「何のことだ?」
「ん? だから、前のボスにだよ。なまけてるって言われたんだろ。で、一通りは仕事が出来るようになってたのに、もう一回、馬鹿みたいなスパルタで叩き込まれた。違う?」
隣に立って、資料保管庫へともくもくと歩くチョウは、馬鹿馬鹿しいと目も合わせてこない。
「何の資料が欲しいんだ?」
「君、すごく好かれてたんだと思うよ。見込まれたって言った方が嬉しい?」
続く無駄話に、やっとチョウが目を合わせる。ジェーンは、空気が雨の匂いを混ぜ始めた廊下でにこりと笑う。
「あのね、欲しい資料はもう手元にあるんだ。ちょっと、チョウに魔法をかけてあげようかと思って、よんだんだ」
本来、『魔法』の一言は、このチョウ捜査官の前では、避けるべきものだった。ひどく現実的な男なくせに、オカルトめいたことに関しては、驚くほどナイーブな反応をみせる。一瞬で強張ったチョウの顔を、楽しげにみつめたジェーンは、まるで女性にするように、空いている会議室のドアを開け、お先にどうぞとすすめた。
魔法はもう始まっている。チョウが、『魔法』の一言に警戒した一瞬からだ。
チョウは、促されるまま、だが、慎重に会議室へと足を踏み入れる。
実におもしろいと思うのだが、こんないかめしい為りをしてオカルトめいたことへのチョウの対処法は、亀のように首を竦め「決して逆らわない」だった。自分が反応しなければ、厄災は、通り過ぎていくと信じたいらしい。
舌先三寸だけが武器のコンサルタントなど、気に食わなければひとひねりのはずが、緊張しつつも部屋に入り、しかし、いつでも逃げ出せるよう警戒し、ドアの側から動こうとしない。
「チョウ、そんなに緊張してないで、こっちにおいでよ」
サイキックだと偽ったジェーンの過去の仕事を、才能を生かしたうまい詐欺だと満更でもなく受け止めているくせに、オカルトとの区別をうまく認識できないところも、チョウのおもしろいところだ。オカルトめいたことは、すべて一括りにして、目を背けているのだ。コンサルタントの過去を、詐欺だと見下しているくせに、しかし、過去の仕事柄、ジェーンがそういった呪術めいたことに詳しいかもしれないという疑惑を捨てきれずにいる。
「手をひいてあげないと、怖くて僕の側に寄れないのかな?」
ジェーンの人を食ったような挑発は、本来、気の強いチョウを奮い立たせ、チョウは、まだ警戒心を解かないままだったが、眉に力を入れた面持ちでジェーンの側の椅子を引いた。
ジェーンは、本当におもしろいよね、チョウはと、内心にやつく思いだ。
付き合いきれないと部屋を出ていく手だってあるというのに、チョウはいいなりだ。
使う時を見極めなければならない手だが、全く『魔法』はよく効く手だ。
チョウがかけることを選んだ椅子の位置も、ジェーンを楽しませる。距離をとり、優位に立てる机を挟んだ正面にだって椅子はあるというのに、心理的なプレッシャーが、無意識にチョウを劣勢に立たせ、その位置を選ばせない。だが、意地があり、隣には座らない。わざわざ、机の角を挟んだ90度の角度は、警戒心と親しみが混在している。
ジェーンは、すかさず机の上の手を握る。チョウの頬がありありとひくついた。ジェーンは落ち着かせるように微笑んで見せる。
「チョウ、緊張してるね」
「ドアが開いてる」
「ああ、そっか。ごめん。ちょっと閉めてくるね」
ジェーンは、うっすらと湿ったチョウの手を離し、ドアを閉めに立ちあがった。ばたんと音を立てて閉まった扉は、ジェーンがかけ始めている魔法の呪文の一部だ。チョウは、自分が大きく見えるよう、肩に力を入れて振り向く。緊張で過敏な程ナーバスになっている彼の状態は、全く魔法にかけやすい。
「ねぇ、チョウ。明日の裁判の準備はもう出来てるのかい?」
「それが、お前に関係あるのか?」
「うーん。あるとは、言えないかな。でも、僕は、明日、チョウが勝てるようにするための魔法ならかけられるよ」
椅子に座りなおせば、チョウは、はっとしたように、机の上に置いたままだった手を膝に隠す。
「手を貸して」
「いやだ」
「緊張してるのを知られたくない?」
「オカルトは嫌いだ」
「そうだね。苦手なのを知ってるよ。でも、魔法にもいい魔法と、悪い魔法があるのを知ってる? ほら、白い衣装を着た魔法使いと、黒いマントの魔法使いといるでしょう?」
「お前は、絶対、悪い方の魔法使いだ」
「えー、そうかなぁ。グレー程度だと思うんだけど」
ジェーンは笑って、自分からチョウへと椅子を寄せる。
「おいでよ。キスしよう」
「なんで、今?」
撥ねつけるような言葉を言いながらも、ジェーンの態度が自信に満ちていて、様々なプレッシャーをかけられている今、誘いかけてくる恋人に知らず気持ちを預けたくなっているチョウの頭は近付いてきている。
「僕には君に魔法をかける力があるから」
魔法という言葉がもつ不気味さで、一瞬びくりと強張り止まったチョウの唇に、ジェーンは自分から近付き、唇を押し当てた。職務中のチョウの唇を味わうことが出来ることなんて、めったにできるものじゃない。ジェーンは、うっとりと、チョウがキスすると柔らかで気持ちのいい唇を持っていることを自分が知っている優越感に浸る。規則に従うことの苦手なジェーンが、時には驚かされる程、思い通りの結果を手に入れるためなら、チョウは柔軟な方法をとることをためらわないが、大抵の場合、この年下の男は、面倒だからという、ただそれだけの理由で決まりを守れとうるさい。それなのに、キスを許している。
ジェーンは、青い目を細め、チョウをみつめながら、繰り返し、柔らかな唇に唇を押し当てる。
「大丈夫だよ。チョウ、君は、弁も立つし、度胸だってある。明日の裁判、きっと勝てるよ」
チョウは、キスを嫌がりはしないが、あいまいな態度だった。唇が重なった数が片手の指の数を超えても、積極的になりはしない。
「ナーバスなんだね。かわいいな」
ジェーンは、チョウの頬に手を当て、優しく撫でる。チョウが撫でる手を掴みにくる。
「……ジェーン」
ジェーンは優しく瞳を見つめる。
「……そうだね、チョウ。でも、君は、実は、その度胸があって、弁の立つところが、弱みだ。自分でそれを知ってるんだから、弁護士が、どうでもいいことをつつきまわしてきても、カッとして、言い返しちゃダメだよ。実直で馬鹿な刑事だってふりで梃子でも事実のみにしがみついてないと、裁判をひっくり返されてせっかくの皆の苦労が無駄になるよ」
ジェーンは今までと同じだけ、優しく唇に触れただけだが、今度のキスは苦かったかのように、チョウは顔を顰めた。ジェーンは、くすりと重ねた唇の上で笑う。
裁判前に、チョウの機嫌が悪くなるのは、めんどうな証言が嫌いだからじゃない。苦手なのだ。証言台の上で、自分を律しきれる自信がなくて、だから、不機嫌なのだ。
けれども、自信のなさを押し隠そうと、威嚇的になり、不機嫌になるチョウは、ジェーンにとって、面白くもかわいらしいだけだった。
チョウの鼻に、自分の鼻を擦りつけ、よしよしとあやすように甘くキスを繰り返す。
ナーバスなチョウは、親密で心地のいい肉体的なスキンシップに安心感を覚えるのか、無意識に求めていて、こんな時だけは、いいなりだ。
「大丈夫。僕がついてる。べらべら、べらべら、どうでもいいことばっかり、むかつくほどよくしゃべる奴なんて、すっかり慣れただろう?」
「ジェーン」
「なんだい? 僕が好き?」
チョウは、黒い目をぴたりとジェーンの青い目に合わせるとじっと見つめ、覆いかぶさるように唇を押しあててきた。
ジェーンは、その強く熱を発した身体を、両手を広げて受け止める。
「大好きだよ。大丈夫。かわいいね。チョウ」
「ああ、酷い雨だ」
会議室を出た途端、目に入った入り口の外は、スコールの勢い雨が道路を打っていた。
「明日の天気は、晴れにしとくね」
ジェーンは、差しているのが無駄なほどの傘を片手に車まで駆けていく人影を見つめていた目をチョウに向けてにこりと笑う。ジェーンのおかげで余裕を取り戻したチョウは、腕を組み、目を眇めた。
「それが、お前の魔法が?」
「そう。君が裁判に勝つ日の天気は、いつも晴れなんだよ。君にキスされてる最中に、僕は君の髪の毛を一本盗んで、勝てる条件を揃える魔法をかけといた。この分なら、大丈夫そう」
ジェーンのオカルトじみたもの言いに顔を顰めたチョウは、どしゃぶりの玄関を指差す。
「こんななのにか?」
玄関に飛びこんできた同僚は、靴を脱いで、中に溜まった雨水を流している。情けない目をして、ぶるぶると体を揺する様子は、まるでずぶぬれの犬だ。
だが、ジェーンは気楽に肩を竦める。
「僕が信じられない?」
だが、翌日、天気予報も酷い雨が続くと言っていたのに、雨は、本当に上がっていた。
「ほら、僕の魔法が効いた」
「……魔法なんてない」
裁判で勝ちを収めてきたくせに、書類を詰めた鞄を手にしたチョウの顔が強張っている。ジェーンの顔は、楽しげに綻ぶ。
「そうかな? アブラカタブラ。ほら、魔法をかけたから、今晩、僕らはセックスするよ?」
「なっ!?」
チョウは慌てて周りを見回す。
「あれ? するでしょ?」
ソファーのジェーンは、不思議そうにチョウを見つめる。
「ジェーン……!」
「あれ? 効かない? 昨日から、ずっと僕、君と寝たいんだけどな」
END