友人について 2

 

ハウスの家の寝心地のあまりよくないカウチで一晩眠った翌朝、朝の準備をしていると、ドライヤーの音に耐えきれなくなったハウスが、この世の全てを呪っているかのような顔で近づいてきた。

「……うるさい」

くしゃくしゃのパジャマのズボンに、Tシャツ姿の彼は、裸足のまま背後で立ち止まる。

寝むそうに瞼の垂れ下がった目は、今にももう一回最愛の相手とのエンゲージを繰り返そうだ。髪の毛は寝ぐせで乱れぼさぼさ。最愛の友人は、ドライヤーとくしを両手に構えたウィルソンを鏡の中から睨みつけている。

「おはよう。ハウス」

返事はなかった。ただし、100ワード以上の恨み事をじっとりと睨む青い目が鏡の中から言い立てている。

「もう、起きる時間だ。君だって、起きた方がいいとは思ってたはずだろ?」

「起きる気になった時に、俺は起きる」

つまりは、まだ起きたくはなかった。

とても、9時から勤務の医者相手の8時15分の会話とは思えない。

「うるさくして悪いとは思ってるよ。でも、身だしなみを整えるってことも重要だ。君の頭もやってやろうか?」

「ふわふわっとさせて、禿げ隠しか? 結構だ。俺の頭が薄いって言いたいんだったら、はっきり言え」

「君、今、僕の頭がヤバくなりかけてるって、さりげなく言ったな?」

いや、ハウスは何も言ってはいない。だが、もの言いたげな嫌味な目付で、じっと鏡に映るウィルソンの生え際を眺めていたのだ。

「俺が? 俺が何か言ったか、ウィルソン? それは、お前の心の声だ。まず第一にそれほどドライヤーに執着するのが、毛髪と男性ホルモンに関する恐怖に満ちた妄想に取りつかれている証拠で、」

ハウスは、ここぞとばかりに言いたてようとして、だが、寝起きの頭は、ハウスの口の回転速度についていけなかったようだった。友人をイビるために相応しい嫌味が浮かばなかったらしく、つまらなそうに肩をすくめ、くるりと背を向ける。

「おい、ハウス! そっちは寝室じゃないか。また、寝なおすつもりか?」

「うるさいっ!」

 

怒鳴り声と共に、少し足を引きずるようにして去っていく友人の視線が、鏡の中になくなって、やっとウィルソンは力を抜き、寝起きのハウスの姿をじっと見つめることができるようになった。

鏡の中の背中はゆらりと揺れて、寝室に向かおうとしていた行き先をキッチンに変更した。

友人が職場に向かう気があることがわかり、ウィルソンは、自分の身支度の続きを始める。

ドライヤーの音がして、すぐさま、ハウスの大きな舌打ちが聞こえたが、キッチンには、パンケーキとコーヒーの用意がしてある。

これさえあれば、気難しい友人の機嫌も直す。

 

 

「ハウス! もう出ないと間に合わないぞ!」

 

時計の針は、ぴったり8時45分を指していた。

ウィルソンが車を出す約束だが、車では、ハウスのバイクほどコースカットをして無謀な時間の短縮を図ることなど無理だ。

少し前まで、ハウスの姿が見えないことを気にしつつ、ウィルソンはネクタイを結んでいたのだ。ハウスを探し、キッチンを覗いたが、焼いておいたパンケーキは、山が全て消えてなくなり、コーヒーが半分残ったカップは机の上に置き去りになっていた。

うるさいほどバスルームのドアを叩いても、ハウスが文句を言って来なくて、とうとうウィルソンは寝室のドアを開けた。

「ハウス!」

そこに、友人がだらしないパジャマ姿のままベッドに中に潜り込んでいる姿を想像し、腰に手を当て、怒鳴る準備を万端に整えたウィルソンは拍子抜けした。

ハウスは、出勤のための準備を整えていた。

相変わらず、髪はくしゃくしゃのままだが、お気に入りのライダージャケットを羽織り、靴下を片手にベッドに腰掛けている。

だが、

「どうしたんだ、ハウス?」

友人はいきなりドアを開けたウィルソンを睨むでもなく、酷くバツの悪い顔をしていた。

思わずウィルソンは、ベッドルームというプライベートな空間に入った自分の無礼を謝罪すべきかと思ったが、自分はハウスの親友じゃないかと思いなおした。何度か泊りにきたものの、今日初めて足を踏み入れたハウスの寝室をしげしげと眺めます。

確かに、さっきまで人の寝ていた雰囲気を色濃く残す部屋の中は、侵入者であるウィルソンに居心地の悪い思いをさせたが、ハウスの部屋の中に隠さなければならないものは見つからなかった。

しかし、ハウスは、ウィルソンの目に映ることを恥じるかのように避けている。

「ダッチワイフでも隠してるのかと思ったのに」

ウィルソンはにやりと笑った。

「あったら貸してくれとでも言う気だったか?」

 

ハウスは、裸足の片足をぶらぶらつかせたままだった。ベッドボードに置かれた時計が、また一枚めくられ、時刻が過ぎたことを教えたが、靴下を履き終われば用意が終わるというのに、履こうとしない。

「どうしたんだ、ハウス? 急がなきゃ遅れるぞ」

声は苛立っていたかもしれない。

「んー。履こうとはしているんだけどな」

どうして、こういう時に、ハウスが笑うのか、ウィルソンは悔しいのだ。言いながら、靴下をつま先まで持って行ったハウスは、バランスを崩し、ベッドから落ちそうになった。落ちる直前、痛みに耐えて、食いしばられた白い歯が見えた。

バランスは取り戻したものの、ハウスは怒りの唸りを上げ、たかが靴下一枚履けない自分を罵っている。

ウィルソンは、自分が避けていたハウスの寝室に、こんな秘密が隠されていたことに愕然とした。

泊まった翌朝、用意の遅いハウスを急かし続け、やっと車に押し込めて、髪に寝ぐせがついたままだと口酸っぱく注意したことがある。

髪の寝ぐせを直すのを、歯を磨くことより優先させればよかったか?と、ハウスはうそぶいたが、あれは、まさしく本当のことだったのだ。足の調子が悪ければ、着替え一つとっても、非常な困難を強いられる彼には、歯を磨く時間が精いっぱいで、ドライヤーで寝ぐせまでを直せと言うのは酷だ。

 

ハウスは、まだ靴下を履こうとしている。思い切り鼻に皺をよせ、引き寄せた足の先にひっかけようとするのだが、痛みがひどくて、その数秒が耐えられない。

癇癪を起したように、床を蹴り、その痛みでまた呻く。

「くそっ!」

ウィルソンは、年上の友人の足元へと膝をついた。

「ハウス、貸せよ」

ハウスの手にある靴下を取り上げようとすると、ハウスは酷く頼りない目をしてウィルソンを見つめた。

ウィルソンは、こんな目をして、ハウスに見つめられるのが苦手だ。

落ち着かない。

ハウスの手から、強引に靴下を取り上げ、ベッドから垂れ下がるハウスの足へと近づける。

ハウスの足は、指の爪が伸びていた。

それが、さらに、ウィルソンの心を傷つけた。

見ていられなくて、さっさと靴下を履かせようとしたが、他人に履かせるという作業はなかなかうまくいかない。

「……ブレインズボロ病院の腫瘍学部門部長が、俺に靴下を履かせるのか……」

「友達だろ。靴下くらい、いくらでも履かせてやるさ。なんだったら、今度、パンツも履かせてやろうか?」

ウィルソンは、ハウスが性質悪く笑うかと思って、友人を見上げた。

どうしても靴下は、甲のあたりで丸まって上がっていかない。

ハウスは、少しも笑っていなかった。ただ、ぼんやりしている。

ウィルソンは顔を伏せ、ハウスの足を自分の膝の上に乗せた。

 

「ほら、できた」

膝の上に乗せた足に丁寧に、丁寧に靴下を履かせ、ウィルソンは顔を上げなおした。

無精ひげに覆われたハウスの唇が僅かに動き、その動きは、感謝の言葉を口にしそうだった。

「ウィルソン、……」

その時、ウィルソンの中には、耐えがたい衝動が湧きあがり、自制心の強いつもりでいたハウスの友人は、ベッドに座るハウスを抱きすくめると、強引に唇を奪っていた。

 

何度泊まろうと、ハウスの寝室にウィルソンが近付かない理由はこれだ。

 

いきなり強く抱きしめられ、唇をふさがれたハウスは、びっくりしたように目を見開いたままだ。

予想よりはるかに柔らかかった唇から離れ、ウィルソンは、ハウスに謝ろうとした。いや、謝るべきだと思った。

 

すると実に迷惑そうな顔をしたハウスが先に言った。

「たかが、靴下一枚履かしてもらうのが、こんなに高価くつくとはな」

靴を履き、杖を取って立ち上がった。

「ウィルソン、お前はのろま過ぎる。置いて行くぞ」

 

ドアのところで振り返ったハウスは、ウィルソンには、全くわけのわからない理由で、勝ち誇ったように笑っていた。

 

END

 

 

追記

車の中で、突然ハウスが聞いた。

「ウィルソン、お前、俺のことが好きなんだな?」

助手席に座るハウスがあまりに得意げな顔をして聞いたせいで、ハウスの友人である実は勝気な医師はむっとして、好きだという真実のその一言を口にしないまま、意地を張り合うようにして、病院の駐車場に着くまで、二人はずっと無言のままだった。