ストーカー
「おい、聞け。昨日あやしい奴が駐車場にいたんだ」
朝の挨拶もなしに、険しい顔つきで、白衣の肩を掴んできたハウスに、仕事を邪魔されたウィルソンは眉をひそめた。ロビーの受付へ辿りついたばかりのハウスは、まだ、手にメットも持ったままだ。外来診察が開始されたばかりの待合は、空気がせわしなかった。うんざりと席を閉めるどの顔にも、自分の順番はまだかと書いてある。
「おはよう、ハウス」
ちらりと時計を見上げたウィルソンは、また5分の遅刻をしながら、いつも通りのハウスの堂々とした態度に、小さく肩を竦めてみせた。だが、朝の腫瘍学部門部長にはやるべきことが山積みで、すぐ視線を手元に戻すと、いくつかのカルテにサインをした。すると、出来上がったそれをまるでひったくるようにして、待ちかまえていた看護士が持ち去っていく。
「……今の見たか?」
「おはようじゃない、ウィルソン。聞け。この病院の駐車場に、あやしい奴がいたんだ!」
この病院最高の診断医が朝の待合で腫瘍学部門部長どれだけ吠えようと、もう一回線コールさせたまま電話中の事務員は平気で、次のカルテをウィルソンへと突き出してくる。ウィルソンにも目もくれようとしない。ウィルソンが受け取ろうと手を伸ばすと、それをハウスが、束ごとひったくった。そして、出来上がりを待つ次の看護士にばさりと押し付ける。ブルネットの看護士は呪うようにハウスを睨んだ。ハウスはまるきり歯牙にもかけない。それがハウスだ。
ハウスは眉間に深い皺を刻んでいた。普段から機嫌のいい顔ではないが、剣のある青い目が暗かった。態度もいつもよりさらにせっかちだ。
やっとウィルソンは、握っていたボールペンから力を抜いた。
「外に、おかしな奴?」
帽子にマスクに、ほぼ人相不明で待合で腰掛ける男を背景に立つ、ハウスは、思い出しているのか、ますます人相を悪くする。
「ああ、おかしな奴だ。駐車場で近づいてきたんだ」
「君に診断を頼みたくて?」
「違う。俺も、そうかと思って、近づいてくる奴に、勤務時間外の診断は10倍取るぞって言ったら、奴は、あっけにとられた顔をしていやがった」
「へぇ」
「それから、あんた、医者なのか?って、驚いた顔して聞いたんだ。そして、俺は病気じゃないから、そういう心配はない。そうじゃなくて、できれば、俺のために時間を作ってくれって言いやがった」
杖でコツコツと床を叩くハウスは、苦い苛立ちを浮かべていた。
ウィルソンはどんな問題をまたハウスが引き起こしたんだと呆れた。だが、何かがひっかかったハウスの浮かべている表情は、苦いだけではない。
「それは、医者である君でなく、ただの君に用があるってことか? ハウス、近所と揉めでもしたのか?」
わけが気になって、頭はハウスがバイクを止める駐車場を思い描いていた。病院の入り口に近いハウスの駐車スペースは、警備員からも見晴らしがいいはずで、何者であれ、杖のハウスに詰め寄れば、確実に、彼らが走り寄る。喧嘩腰の男であれば、なおさらだ。だが、ここに辿りつくまでのハウスに、昨日、何かがあったにしては、警備員はひと声も声をかけなかった。報告が上手くいっていないということも考えられるが、それにしても、彼の態度は呑気で、このロビーの中でただ一人、この朝の天気にふさわしい笑顔で、新患らしき患者に対して、親切な道案内をしている。
「違う。俺は、ごく善良に慎ましく暮らしている。近所となんか揉めるもんか。違うんだ。奴は、俺を口説いてきたんだ。付き合ってくれ、だと」
ちらりとハウスはウィルソンの様子を窺うように、いじましい視線を投げかけてきた。だが、ウィルソンは、そんな視線に取り合うことはできなかった。まるで、異次元の言葉でも聞かされたように、聞かされた話を理解し飲み込むことができなかった。ぽっかりと隙のできたウィルソンに対して、ここぞとばかりに、さっきの看護士がカルテの束を突きつけた。彼女も、ハウスの言ったことを聞いていたはずだが、顔色ひとつ変えていない。ウィルソンのサインが貰えないせいで、仕事の始められない彼女はハウスに負けず劣らず、苛立ち、腕を組んだ仁王立ちだ。
「ちょっと、待て、ハウス。今、僕は聞き間違いをしたか? それとも、本当に駐車場におかしな奴がいたのか? いや、……そもそも、何か君の思い間違いってことは……?」
「はっ!?」
思わず頭を抱えたウィルソンの後頭部をつき刺すようにハウスの声はきつかった。
「だって、ハウス、……その、君がナンパされたってことだろう?」
自分で言いながらウィルソンは、その現実味のなさに、言葉尻がついもぞもぞと小さくなっていた。強面のハウスは、初対面で思わず声をかけたて口説きたくなるような親しみの湧くタイプではない。いや、できれば、何事もなくすれ違ってすませたいタイプだ。
「もういい、ウィルソン!」
子供のような癇癪をおこしたハウスは、待合中の視線を集めるような大声を上げて、忌々しげに、ウィルソンを睨みつけた。その声の大きさに、ウィルソンの白衣に注がれた待合の視線には、無駄話をして、時間を過ごす医者に対する苛立ちと非難も混じっていた。だが、一番強烈に睨んでいるのは、やはりハウスだ。
「でも、だって、ハウス」
「なんだ? 何か変なのか!?」
自分の張り上げた怒声にどれだけ患者の非難の目が集中しようと、まるでおかまいなしに退場できる心臓の持ち合わせがあるからハウスはいいのだ。だが、待合中の視線を集めるウィルソンは看護士に、今日の処置を指示したカルテへのサインはまだかと威圧をかけられて、逃げることすら叶わなかった。
「……なぁ、チェイス、聞いたか?」
オフィスに置かれたホワイトボードに新しく追加された症状を記すハウスは、ウィルソンの無駄話が聞こえているはずだが、背中で拒絶していた。現在書かれている症状は発熱も合わせ4つ。外来診察で処方箋を貰って帰宅できる程度の診断も含めれば解釈は10通りはあるはずだ。ハウスは、まるでそこに答えがあるように目を眇め、ホワイトボードを睨んだまま、自分の患者が昏睡を引き起こした原因を考えている。
「聞いてます。っていうか、今朝いきなり、俺を見て、奇声を上げたんで、びっくりしました。それから、聞かされたんですけど、先生、駐車場でナンパされたらしいじゃないですか」
ウィルソンほどには、ハウスのお目零しに預かれないチェイスは、眺めていたホワイトボードから緑の目を短くちらりと上げた。
「なんで、君を見て、奇声を発するんだ?」
ウィルソンは首をひねった。
ウィルソンは、ハウスの部下の誰とも親しかったが、その中でも、チェイスとのつき合いは、かなり微妙で結びつきの強いものだった。育ちの良さを感じさせる容姿のいい彼は、ハウスの部下の一人だが、特別な意味で、ハウスを分け合うウィルソンの仲間でもある。だが、チェイスが、あくまでウィルソンとハウスの仲へとでしゃばろうとしないせいで、ウィルソンは、チェイスが、どういう気持ちでハウスと付き合っているのか聞きそびれたままだ。
ブラックマーカーのキャップを噛んだまま、まるで答えがあるかのようにホワイトボードに視線を据えたハウスの硬い背中に、自分の意見へとまだ疑いを持ったままのキャメロンが病名を投げかけていた。チェイスは、また素早く視線をよこす。
「どうやら、ナンパ男が、金髪の白人みたいですよ」
「へぇ」
「だから、ERに向かって歩いていた俺のこと上から見つけて、いきなりすごい声を上げて」
肩を竦めたチェイスは、背を向けたままのハウスの機嫌の悪い背中を窺うと、口元にだけ軽く笑いを浮かべ、ウィルソンに手招きをした。
「ねぇ、先生、昼休みのことは聞きました? 今日の昼は、ハウス、珍しく外に食べに出たんですけど、そうしたら、歩いてるハウスに黒のバンが横付けしてきて、朝の男だったそうです。朝は驚かせてすまなかったと謝ったんだそうです。それから、もう一度、口説いてきたって」
キャメロンの発言を全く相手にしないハウスの背中に、健気なキャメロンは、またいくつかの病名を上げる。
チェイスが口を聞く間にも、ちらちらと目配せをするフォアマンの気遣わしげな顔がウィルソンの目には入っていた。不穏な気配の前兆は、チェイスも気付いていたようで、出ている検査結果のデーターを素早くめくる。
突然、激しく杖に打たれ、ホワイトボードは大きな音を立てた。
「チェイス! お前、余裕だな。お前はここに何をしに来ているんだ? ウィルソンと楽しくお話をするためにか?」
鋭いハウスの叱責に、チェイスはたまらず肩をびくりとさせたものの、一番ハウスの下で長いだけあって、瞬時にハウスに自分の意見を捻じ込んでいる。
「先生は見当違いです。投薬後にも顔面の神経阻害が見られます。サルコイドーシスです。先生、俺に肺生検をさせて下さい」
「なぁ、ハウス」
いつも、病院の廊下が狭いとハウスは思うのだ。杖をついて歩けば、すれ違う相手の足をひっかけかねない。だが、今日は、こいつの足が杖にひっかかって、みっともなく転べばいいと思えば、決して杖の先は、隣を歩いているウィルソンの足に絡みはしない。
「なぁ、ハウスってば」
昼間の話をチェイスから聞かされても、ウィルソンの顔に、まるで不安のないことが、ハウスを苛立たせていた。残念ながら、ハウスは耳がいいのだ。病名の診断もつかず、患者が死にかけているというのに、人の話で盛り上がっているウィルソンとチェイスの会話は、まる聞えだった。
ウィルソンはまるで気にしてもいないようだが、歩道脇へと急に黒のバンが止まった時、強引な車寄せと停車に何事かと心臓が跳ねあがった。とっさに思ったのは、誘拐だ。今すぐ、バンのスライドドアが開き、有無を言わせず、引っ張り込まれるのだと思った。もう、終わりなのだと。歩くために杖を必要とする足の悪さだ。障害者を攫うのは、難しい仕事ではない。だが、ハウスには払う金などない。では、身代金は誰が払うのか。病院が払ってくれればいいが、そうでなければ、ウィルソンだろう。今、思えば、いい気味だ。
「ウィルソン、お前は、無駄話ばかりで専門医としてまるで役に立ってなかったな。お前の意見はどうなんだ?」
睨むと、ウィルソンは軽く目を伏せた。
「え? 僕かい? 僕はちょっと君の様子が気になったから立ち寄っただけだし、判断は、チェイスの検査結果を待ってからにしたいところだな。とりあえず、熱だけでも下げてみたらどうだい? そうしたら、もう少し、診断がわかりやすくなるかもしれない。ところで」
ウィルソンには、人から良いと、言われる部分と、同じだけ、もしくは、もう少し少ない悪い部分がある。時に、嫌になるくらい、悪気なく無神経なところは、絶対に悪い部分だ。甘い眼差しをした茶色の目が、にやつく顔を優しげな表情に見せている。
「お前の聞き間違いか、俺の思い違いだ」
ハウスは、先手を打って断言した。薬剤カートが廊下を横切り、杖の先が車輪にひっかからないようハウスは足を止めなければならない。
「でも、ランチタイムに現れたんだろう?」
同じように足を止め、気を付けたほうがいいんじゃないのかと親身そうな発言をするウィルソンの唇は、それにふさわしく誠実そうに慎ましく、柔らかそうで、もう長い間お預けを食らっているハウスにとってはこの場で齧りつきたいくらい魅力的だった。だが、ウィルソンは、昼間ハウスが体験した恐怖を少しも想像していなかった。車の中に、昨日自分を口説いてきたおかしな男の顔が見えた時、ハウスはぞっとするよりも、思わずほっとした。誘拐でないとわかった時のあの安堵には、もう一度、この軽薄な笑顔を浮かべたウィルソンの顔がみられるという幸運への感謝も含まれていた。
「ああ、あれなら、俺の妄想だ。気にするな」
ハウスは、ウィルソンの笑顔から、そっと目をそらした。
にやにやと笑うウィルソンは、その発言を曖昧に受け入れている。
「君の話を、チェイスは 僕たちを不安にさせるための嘘なんじゃないかと考えているのは知ってるかい?」
思わず、ハウスはかっとしてウィルソンを睨んだ。まだ、つき合いの短いチェイスは、何度も騙されたことのあるウィルソンほどには、ハウスの言動に疑いを抱かないのだ。疑っているのは、ウィルソン自身だ。
「何が言いたい? ウィルソン、それは、俺になんて、告白してくる奴などいないという意味か?」
「まさか!」
ウィルソンは大げさに否定した。
厳しく問うたハウスの容姿が、魅力的でないなんて、ウィルソンも思っていないのだ。だが、生まれもった幸運だけで、人よりも労の少ない人生を歩むに違いないチェイスや、キャメロンのように、親しげで心地よい配置に鼻や目が置かれているわけでもない。もの好きは勿論いるだろうが、ハウスの外見には、性格と同じくらい癖がある。青い目の色は、魅力的だったが、厳しく澄んでいる。彼の頭の良さをなによりも強く示すその二つの目は、彼の機嫌によって目まぐるしく色は変わる。今は、猜疑心で特に色が薄い。だが、この目は、ごくプライベートな時間には、知性などどこかに置き忘れたようにとろりと潤んだ。それは、ウィルソンにとって、かなり興奮をそそられるものだったが、まさか、初対面でそれは見抜けるはずない。
「どういう奴だったんだ? もしかして、精神的にちょっと……?」
ウィルソンの質問に、ハウスは、瞬間、傷ついた表情を浮かべた。だが、すぐにそれを打ち消す。
「頭は、フォアマンや、キャメロンほどじゃないだろうけどな、チェイスほどには足りてそうだったぞ。顔もちょうどあんな感じだ」
「会ったことのある奴なのか?」
「あるわけない。……ところで、俺は、チェイスの奴が惨敗の検査結果を持って戻ってくる前に、便所にいくつもりなんだが、お前は俺と連れションがしたいのか?」
入院患者の部屋から出たばかりのウィルソンを見つけて、チェイスは足を早めた。中の患者たちに気を使うようにそっとドアを閉めたウィルソンは、ラッキーなことに一人だ。
「検査結果はどうだった?」
「はずれです。……絶対にそうだと思ったんですけど」
声をかけてきたウィルソンは、答えを聞いても、軽く笑ったままだった。それで、チェイスも察した。
「ウィルソン先生、最初からサルコイドーシスだとは思ってませんでしたね? なんだと思います?」
「診断はハウスに任せるよ。ところでさ、チェイスは、昼間のアレ、君はどう思ってるんだ? ハウスの狂言なんじゃないのか?」
「え? なんでです? でも、ハウス、食った気がしないって嫌ってた一番近い自然食品の店でサンドイッチを買って帰って来てましたよ。本当なんじゃないですか? ウィルソン先生は、疑ってるんですか?」
曖昧に笑ってウィルソンは、歩き出す。促されて、チェイスも足を進めた。
「いや、ハウスがまるっきり嘘を言っていると言いたいわけじゃないんだけど、……でも、チェイス、ハウスだぞ? なぁ、君と見間違うっていうくらいなんだから、相手は若い男だろう? 診察室のハウスに何かの気の迷いを起こした若い娘ならともかく、彼を医者だとも知らない若い男が、わざわざハウスに声をかけたりすると思うか?」
温かみのあるウィルソンの茶色の目が、チェイスの表情を探っている。
チェイスも、確かに、奇声を上げた後、言い訳めいた昨日の話を聞かされた時は、少し疑った。だが、昼のことまで聞かされてしまえば、疑いを持つ余地はなかった。公私ともに忙しくしている腫瘍学の専門家をひっかけるためならともかく、ウィルソンのスペアでしかない自分を嵌めるためにしては、真昼間にバンで横付けなんて、あまりに嘘臭い。
「さぁ? 確率は低い気がしますけど、ハウスがナンパにあうってのも、皆無ってわけじゃないんじゃないですか?」
チェイスは肩を竦めた。
「君は、ハウスの話が本当だと思ってる?」
「ええ」
笑顔で頷いた。
「……ああ、わかった。ウィルソン先生は、信じられないんじゃなくて、ハウスがナンパされたなんて信じたくないんでしょう。不安になったんですね? もしかして、ハウスに声をかけてきた男に、ハウスがひっかかるんじゃないかって」
「え? それは、ないよ!」
ウィルソンの否定は大げさだった。思わずチェイスは笑った。
「酷いな。それは、ハウスに失礼ですよ。ウィルソン先生、大丈夫です。ハウスがウィルソン先生以上に好きになる相手なんているわけないじゃないですか」
「君と、共有しているはずだけど?」
ウィルソンは、切り返してきた。ガラスの間仕切りの向こうに、ハウスのオフィスが近くなり、ウィルソンが急にまじめな顔を作る。おかしかったがチェイスもそうした。顰めた顔を突き合わせていれば、声の聞こえない向こうからは、病状についてでも話し合っているように見えるだろう。だが、話しているのは、ハウスを挟んだ互いのセックスについてだ。ウィルソンが自分の患者のカルテを広げる。
「そうだ。共有といえば、君はいつハウスと?」
書き込みもしないのにペンを動かす。
「さぁ?……そうですね、ここのところ、一月くらいは、ないですよ。向こうから、誘いがないんで。ウィルソン先生は?」
思わず顔を見合わせた。
「僕も、ハウスと、一月以上寝てない」
いつの間に、賭けをしていたのか知らないが、今回の病名当てゲームで勝ったのは、プレインズボロ教育病院の院長であり、死にかけていた患者は、ハウスのチームの診断によって、この世に踏みとどまった。チェイスは、カディもハウスも自分に賭けていなかったことに、かすかに傷ついていたが、検査結果を待つ間の短い仮眠をとっただけだった長い30時間勤務は、ともかく終わった。だから、さっさと家に帰って眠るなり休むなりしたいところだが、どういうわけか、ウィルソンに、ハウスの家へと引っ張られた。
独特のルールによって物の配置が決まっているこの家は、観客席としては、それほどよい場所とは言えず、飲み物も出なかったが、しかし、目の前の出し物はおもしろい。
「どうして、こんなことをしているんだ、ハウス?」
すい臓がんに傾いた診断が覆った後、こっそりと脳腫瘍の可能性をキャメロンにほのめかし、カディを勝たせたウィルソンは、この30時間の間に、すっかりハウスの発言が狂言だとの思いに凝り固まったようだ。
「……こんなこと?」
疲れが足を痛ませるらしく、ただでさえ機嫌の悪かったハウスの眉がさらに角度を変えている。
「嘘なんかつかなくても、素直に誘えばいいだろう。確かに最近の僕は、何度か君の誘いを断ったかもしれないが、だけどあれは、飲みにだったり、ボーリングだったり」
「あいつはなんでいるんだ?」
杖を持つハウスに指差され、チェイスは、小さく肩を竦めた。チェイスこそ、ここに連れて来られた訳を知りたかった。
「俺が嘘つきだとお前が糾弾するところを見せるための、観客か? それともあいつが、俺たち二人のどっちが正しいことを言っているかを決めるための審判なのか?」
「僕は、てっきり、君が彼と、……その、しているんだと」
「しているって、何をだ? お前に相手にされないのを、あいつとセックスして埋め合わせていたかってことか?」
ハウスは噛みつくように、困惑に眉を寄せているウィルソンに詰め寄っていた。だが、大きな声でウィルソンは言い返した。
「だって、ハウス。したいんなら、したいって言えばいいだろう。こんな手の込んだことをしなくっても。僕は彼がいるから、てっきり君が、彼としているんだと思っていて、ここまで君が追い詰められているなんて考えもしなかったんだよ!」
大声で怒鳴り返したウィルソンは、後悔するように眉を寄せ、引き寄せたハウスをぎゅっと抱きしめた。
「……ハウス、悪かったよ」
だが、ウィルソンが謝るということは、口説かれたというハウスを嘘つきだと言っているのと変わらない。
しかし、ハウスは、屈辱に顔を赤くするだけで、ぎりりと歯を噛みしめ耐えていた。嘘つきのレッテルを貼られても、目元を怒りで吊り上げるだけだ。やはりこの出し物は、見ごたえがある。
「ウィルソン、お前は、俺が嘘をついていると思っているんだな」
「僕とも、彼とも、一月以上してないって言うじゃないか」
ウィルソンの手が、ハウスの背をなだめるように撫でている。
「欲求不満のせいで、俺が妄想を見たって?」
「妄想とは違うだろう? ただ、ちょっと僕たちの気を引きたかっただけだ」
優しく微笑みかけたウィルソンは、許しを請うように、そっとハウスへと顔を近付けて行った。唇が近づくと、ハウスは自分から求めるように軽く口を開いてウィルソンに近づいていった。ウィルソンは最初から目を閉じていたが、ハウスは唇が触れて、初めて、目を閉じた。悔しげだったハウスの顔が、瞼を閉じた途端、せつなく、頼りないものに変わった。ウィルソンをひたすら求めるその表情を、ウィルソンが見ようとしないのが間違いだった。
しかし、繰り返しキスする他人のラブシーンを見ていて、楽しいのは、それがポルノである時くらいだ。
「俺の役目は、二人のラブシーンを見守ることですか?」
チェイスは、こほんと咳払いをした。
自分が連れてきたくせに、ウィルソンは、チェイスの存在に、いまやっと気付いたようにはっとして口付けをやめ、ハウスは、迷惑そうに目を開いた。ウィルソンが目をそらす。
「……あ、悪い、チェイス」
漂った気まずい空気を破ったのは、ブー、ブーとうるさく鳴ったブザーの音だ。
誰がドアを開けるのかで、一瞬の目配せが行われ、大きな態度でソファーに腰掛けているチェイスは、にっこりとほほ笑みかけてくることで、ウィルソンへとその役目を押し付けた。
「……わかったよ」
ハウスにはまるで来客を迎えようと言う態度はなく、しかたなくウィルソンはドアへと近づいた。スコープ越しに、人影はない。
「ハウス、本か何か、配達される予定か?」
チェイスが立ちあがって、ハウスに近づいていた。顔を顰めたハウスに耳打ちをしている。ウィルソンは二人の話の内容を気にして、振り返りつつドアに手をかけた。
「まさか、二人して、僕をひっかけるつもりで、話を作ってたんじゃないだろうな」
ハウスの話を信じる気のないウィルソンは、今回の騒動をそう疑ってもいた。しかし、気もそぞろに開けたドアの向こうには、ハウスの部屋にはまるで似つかわしくない、小さな花束が床に置かれている。
「花?」
その違和感に、ウィルソンはぞっとした。
「おい、ハウス!」
慌てて掴み上げれば、カードに、細かい文字でメッセージが書かれている。
『怖がらせるような真似をして悪かったよ』
走り書きに近い乱れた文字に、目を疑った。
「ハウス! 奴だ! 奴に家を知られているぞ! こいつは、僕たちの後を付けたんだ。警察、警察に連絡しよう。いや、しばらくこの家から出たほうがいいのか? 奴は、君の家も、職場も知っているということだぞ、どうしてこんな!」
花束を掴んだまま、パニックを起こしたように、ウィルソンは目まぐるしく考えを口にした。呆気にとれるハウスとチェイスの前を、ウィルソンはぐるぐると歩きまわる。いきなり窓に駆け寄ると、外を睨みつけるようにしながら、大きな音を立ててカーテンを閉めた。
「ハウス、窓に近づくなよ!」
そして、机にぶつかる勢いでどたばたと部屋を横切りドアに戻ると、せわしなくドアチェーンをかけた。しかも、チェーンのチェックは、3度だ。
「おい、ウィルソン……?」
ウィルソンは、ドアスコープに左目を押し当て、じっと外を窺っている。
「君を付けまわしていた男が、花を置いていったんだ。奴は本当にいるぞ」
「……そりゃぁ、いるだろ。実際に俺は二度も会っているんだ。いないと言っていたのはお前だけだ」
散々覗いて、やっとスコープから離れると、今度ウィルソンが向かったのは電話だ。ためらいもせずに、番号をコールした時には、さすがにハウスは呆れた。
「警察に通報するつもりか?」
「一番、ストーカーの存在を信じてなかった人が」
そんなハウスの肩をくすくすと笑うチェイスが抱く。引き寄せてきた若い男は、耳もとへと唇を近付けてきた。
「ハウス! 自体がこんなに深刻だなんて、どうしてもっとはっきり言わなかったんだ!……あ、もしもし、不審な男が家の周りにいて……」
しかし、通報を入れるのに、忙しいウィルソンはそんなことに気付きもしない。
「ええ、若い白人の男です。そいつは職場も知っていて」
「先生、ウィルソン先生は、まだしばらく用件が片付きそうにありませんから、先に俺たちだけで始めときません?」
「お前、面白がってるだろう?」
チェイスの滑らかな唇が耳から項へ辿っていき、ハウスはぞわりと背中を震わせた。それに、にやりと笑うチェイスがまだウィルソンの感触が残る唇にキスする。
「実際、面白いじゃないですか」
ハウスは顔を顰めた。
「パトロールの回数を増やす? 一体、何回から、何回に増やして貰えるんです? こっちは足の悪い障害者なんです。もしなにかあったら、抵抗もできない身なんですよ!」
「どうして、ハウス先生は、あんな人のことが好きなんです? まぁ、確かにいい人ですけど、あれですよ?」
チェイスの言葉どおり、ウィルソンは、全くもっていい奴だ。ハウスを嘘つきの欲求不満だと決めつけていたくせに、今になってパニックだ。
「だけどな、3つ病名をあげて、その全部が掠りもしなかったお前よりは、あいつの方がずっとましだろ?」
嫌味に、チェイスは、鼻の頭に皺を寄せた。だが、いい気味だとハウスが思うより先に、もうチェイスは不満を飲み込み隠した。にこりと感じよく笑いかけてくる。
「ハウス、ウィルソン先生に信じてもらえてよかったですね」
いまからセックスしようという気の男は、実に寛容だ。さっきまでのハウスもそうだった。
ハウスは、ふんっと鼻で鳴らした。
「どうだか。俺がやりたがってることを、奴が思い出してくれた方が、もっといいに決まってる」
ところで。
その後、どう気が変わったのか、ストーカー男は、ハウスの後を付け回したりしていないようだが、もう3カ月、病院の入口から、バイクを止めた駐車場までの短い道のりを、警備員がハウスをエスコートする。
END