かくれんぼ
オフィスの床へと苦労して屈みこんでいる上司をみつけて、正直二人は呆れた。
「何してるんです、ハウス?」
ハウスは足に負担のかかる姿勢に額に皺をよせながら、ドアから、左方向へと2歩ほど進んだところに慎重に輪にしたロープを置いている。ちょうどいい位置を探すように、何度もドアとの位置を確認している。
「何してるように見える、フォアマン?」
「とりあえず、仕事をしているようには見えません」
位置が決まったのか、一人頷いたハウスは、今度、輪の中心にブーブークッションを置く。
「もしかして、それは、罠ですか?」
「そうだ。キャメロン。お前らはかかるなよ」
輪から伸びたロープを慎重に探りながら、フォアマンとキャメロンの上司は、自分の椅子へと戻って行く。
「なんでそんなものをオフィスに仕掛ける必要があるんです?」
「そのうち誰かが、ロープでつまずくだけですよ」
「お前らは、もうこの仕掛けを知ってるじゃないか。なのに、うかつにもロープに引っ掛かるほど馬鹿なのか? ……朝、ちょっと、女のことでウィルソンをからかったら、あいつ、短気にも怒りやがって、それから呼んでも返事もしやがらないから、奴をとっ捕まえるんだ」
「は?」
とんでもないことを聞いた部下二人は、まるで双子のように同じだけ眉が寄った。
「そんな罠でウィルソン先生が捕まるとでも思ってるんですか?」
「第一、機嫌が悪くなってるっていうなら、このオフィスに顔を出したりしないでしょう」
ハウスは、ロープの端を手に持って、椅子に座ると机の上に足を投げ出す。
「ウィルソンには、急患が運び込まれて、どうやら癌の可能性が高いとメモを残すようあっちの秘書に言っといたんだ。あいつは、どれだけ怒っていようと、仕事に対しては真剣だからな。それから、この罠だが、……これは、お前らが思いもよらないほど、詳細なデーターによって仕掛けてあるんだ。キャメロン。思いだしてみろ。この部屋に入ってくるウィルソンは、いつもどっちにむかって歩いてくる?」
「……左、ですね」
「そう。俺は、あいつの行動をしっかり分かってるからな。あいつはいつもこの角度で部屋の中に入ってくるんだ。間違いなく、あいつはこれにひっかかる。と、いうわけで、俺は、ウィルソンが罠に掛かりにやってくるまで、このロープをしっかり握ってなくちゃいけない。お前らはちゃんと仕事をしろ」
罠の中心に置かれたブーブークッションは、仕掛けの餌ではなく、獲物の接近を教えるベルの役目をするものだったようだ。
天才ではあるが、人格に大変問題を抱えた医師の部下たちは、互いに目を通しておかなければならない臨床資料を広げ、ロープ片手に居眠りする上司へとため息を吐き出しながら、自分たちのなすべきことをこなしていた。
ドアが開き、二人が顔を上げる前に、ブーっと思わず気の抜けるような音がした。
「あああああ」
居眠りをしていたハウスは、キャメロンやフォアマンを驚かせるような大声を出しながら飛び起きると、慌ててロープを引く。
「ええええぇぇぇっ?」
踏んだブーブークッションにも、上司の奇行にも驚いていたチェイスは、いきなり右足をロープに取られ、床へとひっくり返っていた。手に持っていた検査結果がひらひらと空に舞う。
「……あれに、かかる人間がいるとは思わなかったわ……」
「いや、資料を読みながらだと、俺達でも危なかったかもしれないぞ」
「なんでこんなものが!?」
「なんでじゃない。なんで、お前がこの罠に引っ掛かるんだ!」
「……え、そんなこと言われても」
切れ方は、いつだってハウスの方が激しい。そのせいで、床へと転ばされたチェイスの方が、いつの間にか劣勢に立たされている。
「これは、ウィルソン用の罠だ!」
「……す、みません」
「そこで、謝るか……だから、ハウスがつけ上がるんだ」
「ウィルソン先生は、あんな罠、自分専用に作って欲しいなんて全然思ってないはずよね」
ヒソヒソやるキャメロンたちへと、助けを求めるようにチェイスは視線を送っている。
「ハウス先生は、朝からずっとウィルソン先生に逃げられてるものだから、捕まえるつもりなのよ」
顔を顰めるキャメロンの説明に、チェイスは首をかしげる。
しかし、
「あっ、そうだ。ウィルソン先生から、メモを預かってます」
胸ポケットから取り出したものをチェイスは、ハウスに渡すと、スボンについた皺を気にしながら、自分の足に巻きついたロープを緩めだした。
「けっ!」
メモに目を通したハウスは、丸めたそれをチェイスの頭へと投げつける。
「何するんですか!」
「こんなちゃちな罠に引っ掛かる注意力の足りないお前がアホだからだ!」
チェイスの頭にぶつけられたメモは、広げてみれば、こう書いてあった。
『ハウス、僕には友好な交遊関係がある。急患が運び込まれたという事実はない』
「くそっ! チェイス、病院内をうろつきまわって、ウィルソンを探してこい!」
午前中の全ての時間、そして、昼休みの間も、ハウスはとうとうジェームズ・ウィルソン医師を捕まえることができなかった。
内線はすべて、会議中のためお繋ぎできませんという、秘書にシャットアウトされる。オフィスを急襲しても、そこは不在のがらんとした空間だ。
「……あいつは、どこに逃げたんだ」
「仕事をしてらっしゃるだけなんじゃないですか?」
腫瘍学部門は、多くの長期入院患者を抱えている。そのすべての人たちが、部長であるウィルソンと話をすることを望んでいる。
その半分でもハウスに、教育病院医としての自覚が欲しいキャメロンは、溜息をつきながら、全く理解できない執着心をウィルソンへと見せ、イラつく上司を振り返っていた。
心根の優しい女は、ハウスにウィルソン以外の友達がいないことを憂いている。
しかし、ハウスは、イライラと落ち着きがないだけだ。
「チェイス、キャメロン探偵の推理によれば、ウィルソンは病棟で患者をナンパ中だそうだ。お前、行って探して来い!」
「なんで俺が?」
「お前が一番暇そうだからだ」
「そんなことないです」
「じゃぁ、言い換えてやる。ハンサムで、素敵なチェイス先生なら、スタッフも、患者も、つい口が軽くなる違いないから、有益な資源を活用して上司の役に立ってくれ」
「そんなにわざとらしく褒めてもらっても……」
ぐずぐずとやり合っていたが、結局、チェイスはオフィスから放りだされていた。けれど、あちこち探し歩いているというのに、ウィルソンの姿を見つけることができない。
だが、我儘な上司のために、病院内を訪ね歩くチェイスの機嫌はそれほど悪くなかった。
「残念だけど、ウィルソン先生はこの階では見かけなかったわよ」
「ありがとう」
「私、さっき、検査室に寄ったんだけど、ウィルソン先生はいらっしゃらなかったわ」
「そうなんだ」
いくつかのフロアを歩き回るうちに、チェイスがウィルソンのことを探していることが、スタッフの間で話題になったようで、みんな優しく自分から情報を提供してくれるのだ。
しかし、患者であふれ返る忙しさの病院だ。こんなにスタッフに優遇される医師など少ないはずだ。
まぁ、僕はちょっとしたハンサムだしと、また、女性スタッフから声を掛けられ、礼を言ったチェイスが、心温まる誤解をしながら、オフィスに戻ると、顰面の医師が青い目で鋭く睨みつけながら待ち構えていた。
「どうだった?」
「どこにもいないようですね」
「そうか」
やけにあっさりとハウスが引き下がる。
「本当ですよ。全フロアのスタッフに聞いたんです。なんだか、みんなすごく親切で」
チェイスは驚いた。
「だろうな……」
ハウスが手招くのを、同僚たちが気の毒そうな目で見つめていた。理由のわからなさに、居心地の悪い思いをしながら、チェイスは上司に近づいた。
「俺に八当たりしないでくださいよ。俺は努力したんです」
「知ってるさ。俺も、少し手助けした」
「は?」
ハウスの手が白衣の背中に回り、その手は、一枚の紙を掴んでいた。
「何っ!?」
「ジェームズ・ウィルソン医師を探しています。字が読めないのか、チェイス?」
「ハウス、あなた、俺の背中に、こんなのを貼ったんですか!?」
「みんな、優しくしてくれただろう?」
本当に、ジェームズ・ウィルソン医師は、どこにいるのか?
夕方4時、本物の救急患者が運び込まれるまでの間、ハウスの3人の部下たちは、うんざりする気持ちでその行方がわかることを願っていた。
「もう一度、検査するべきです!」
「データーはここに出ている!」
「でも、あなただって、検査結果を疑うことがあるじゃないですか!」
「奴は死にかけてるんだ! 悠長にもう一回なんてやってる間に、死んじまう!」
しかし、何か有効な手を打たなければ、すぐさまにでも死神に連れ去られそうな患者が運び込まれてしまえば、お遊びは終わりだ。
部下たちと怒鳴り合いながらハウスは廊下を歩いている。原因を特定したものの、確信の持てないハウスはイラついている。
「間違っていたら?」
「奴は死ぬ。だが、俺は合っている!」
ハウスは前を見ていなかった。そして、ハウスが歩くために用いる杖は、意外と人の通行の邪魔になる。
杖の医師がせかせかと廊下の角を曲がると、目前に人がいた。
カルテに目を通しながら歩いていたその医師は、杖に躓き、廊下に転び、そして、ハウスも杖を蹴られたことによって、バランスを崩してその白衣の上へと覆いかぶさるように倒れて行った。
ゴツン!と、気の毒なほどの大きな音がした。
「ハウス!」
「ハウス先生!」
慌てた部下たちが、ハウスを助け起こすと、その下敷きになっていたのは、あれほど探し求めていたジェームズ・ウィルソン医師だ。
ウィルソンは、口元を押さえ、恨めしげにハウスを見上げる。
「これは僕に対する報復なのか?」
ウィルソンを助け起こしたフォアマンは、腫瘍学部門部長の口元から血が滴っていくのに目を見張った。
「大丈夫ですか、ウィルソン先生!」
ハウスも、呆然と唇を触る。
「キス、した……か?」
「するか! 君の歯が、僕の唇に当たったんだ!」
「……ハウスは、どこだ?」
まるで風邪の患者のようにマスクをつけたウィルソンが、ハウスのオフィスを訪ねていた。
「いや、……その、どこかな?」
あの事故で、切れたウィルソンの唇は翌日にはすっかり腫れあがって、全く人に見せられない面相になっているのだ。激しく迷惑そうな顔のウィルソンが、今度はハウスを捕まえようとしていた。
誤魔化すのに失敗したフォアマンをくすくすとキャメロンが笑う。
「ハウス先生は、先生とキスしちゃったことが恥ずかしくて、顔が合わせられないみたいなんです。だから、すぐ、逃げちゃって」
「違う、あんなのはキスじゃない! 全く、あいつは! 絶対に捕まえて謝らせるって、伝えといてくれ!」
大きく音を立ててオフィスのドアが閉められた。
「だ、そうですよ。今度の鬼は、ウィルソン先生ですね」
チェイスは、自分の足元に入り込んで隠れている上司を見下ろしながら、やれやれと思った。
END