初めての朝 3

 

死にかけていた一人の患者が、天才的な解析医の診断と適切な処置を受け、腫瘍部門の短期入院患者へと変わり、それと同じように、酷くぎこちなくなってしまったハウスと、ウィルソンの間柄も、何もなかった以前と同じように落ち着いたかのように見えていた。

ウィルソンは、最後の砦だった洗濯すらハウスがしなくなり、仕事も忙しいというのに休日の家事量は圧倒的に増え、友人との同居のメリットについて、真面目に考え始めている。

けれど、あちこちに脱ぎ捨ててある靴下を拾い上げるウィルソンの眉間の皺を見たハウスが、優雅にピアノを弾きながら「洗濯は俺がしようか、ウィルソン? ただし、お前のパンツの匂いを嗅ぐけどな」とからかうせいで、ウィルソンは、全ての家事を投げ出すわけにはいかなくなっている。

 

ブー、ブーと、ブザーが鳴った。

ちらばった雑誌を積み重ねているウィルソンは、不機嫌にハウスに顎をしゃくった。

「客だぞ、ハウス」

この上、配達人とのやり取りまで押しつけられたら、今すぐ荷物をまとめて出て行ってやると思いながら、ウィルソンは乱暴に音を立て本を重ねた。

「怖い嫁だな。お前は」

「誰が嫁だ!」

「掃除して、洗濯して、昼は手作りのサンドイッチだ。なかなかいないぞ。お前みたいに出来た嫁は」

ハウスは足を引きながら、ドアに向かう。

だが、勢いよく引かれたドアは大きく開かれなかった。戸惑ったようなハウスの小声がする。

「……なんだ、お前か。……本当に来たのか」

「来ますよ。行くって言っておいたじゃないですか」

ドアの前に立ちはだかる足の悪いハウスを押しのけない育ちの良さは彼生来のものだろうが、同じ遠慮のなさでスマートに上司の代わりにドアを押し開け入ってきた人物に、ウィルソンは驚いた。ハウスの部下だ。チェイスだ。ラフなグリーンのボタンダウンシャツに、薄いベージュのジャケットを合わせたチェイスは、物おじすることなく部屋の中に足を踏み入れると、こんにちはとウィルソンに挨拶をした。

病院内で見かけるのと同じくらい、チェイスは感じのいい笑顔だ。

「や、やぁ」

だが、ハウスとの付き合いは長いが、休日の家へと部下を呼ぶような友人のふるまいは、ウィルソンにとって初めてだった。

ハウスの家の部屋数は多くない。

「出ていくか?」

押しかけ同居人としてプレイベートな会話を邪魔するわけにもいかないと、戸惑いのまま、二人を前にウィルソンは外を指差した。

ハウスは横へと首を振った。

「別にいればいい」

「でも、その……何か話があってチェイスを呼んだんだろ?」

病院内では話せない部下との話というのが何なのか、いくつかウィルソンの頭に浮かんだが、転院にしろ、解雇にしろ、同院の医者というだけで別部門のウィルソンまでが首を突っ込んでいい話だとは思えない。

チェイスは、興味深そうに本棚に並んだ医学専門書の背表紙を指で辿りながら、部屋の中を見回している。

「きれいにしてるんですね。ハウスの自宅っていうから、どんな巣窟かと思えば」

「こいつが、強迫神経症気味のきれい好きなんだ」

杖を手に顔を顰めているハウスに指差されたウィルソンは、頼まれたわけでもないのに、チェイスのためにコーヒーを用意しようかとキッチンに向かう途中で、急に、自分の行動を恥ずかしく感じて立ち止まった。チェイスは、ハウスの客だ。ハウスがもてなせばいいのだ。

「やっぱり、僕は外に行くよ。どうする、チェイス、夕食までここにいるかい?」

「もしかして、ハウスが一口も分けてくれないパンケーキの腕前を披露してくれるんですか?」

 

だが、ただいつまで時間をつぶしていればいいのか、聞くだけのつもりだったというのに、成り行きでそういうことになってしまったウィルソンは、自分の部下から渡され、この休みの間に目を通そうとしていた論文の一ページ目にすらまだ、目を通していないというのに、結局、夕食の食材を買い求めるため外出することになってしまった。

全く、休日の過ごし方としては最低だが、ハウスがやろうとはしない掃除をしている最中だったウィルソンは、瞳の色と合わせたストライプのシャツが似合っていたチェイスの出現に恥ずかしく思うような、トレーナーにジーンズ姿であり、出駆けられても、精々家から3ブロックまでだ。

ウィルソンは、車をハウスの家の側の路肩に止め、サイドブレーキを引いた。

助手席に置いた袋には、たっぷりと食材が詰め込まれている。

しかも、それは、スーパーマーケットでカートを引いている最中になど誰にも会いたくなかったウィルソンの願いもむなしく、親切で思いやりにあふれたキャメロンが選び取ったものもいくつか混じっている。

今まで一度だって、休日に顔を合わせたことのないキャメロンとの偶然の出会いは、ウィルソンに、ハウスの家が、自分の自宅と違い、病院の東側に位置することを、まざまざと思い知らせた。

 

「あら、ウィルソン先生じゃないですか」

リラックスした表情の美女からかけられる声は、ウィルソンにとって望むところだが、ハウスの家に近いスーパーマーケットで、知り合いとは会いたくなかった。特に、訳知りのハウスの部下などとは。

「買い物ですか? 料理は、ウィルソン先生が作ってらっしゃるんですね」

だが、明日の朝食用のパンまで乗せたカートを押していては、素早く逃げることなど無理だ。

「ハウスがやらないんだ」

せめてもの慰めは、面白そうに笑いながらカートの中を覗き込む、キャメロンの胸元が大きく開いていることくらいだった。

「おいしいんですってね、ウィルソン先生の手料理は。ハウスは、ランチを持ってきてても一口だって私たちにわけてくれないんです」

「仕方なくやってるだけだよ。ハウスときたら、全く何もしないんだ」

「そうなんですか?」

美人は、色艶のいいオレンジを、自分の籠に入れながら、ウィルソンにも勧めるように一つ手に取った。

お勧めのオレンジはウィルソンが頷く前に籠に入れられる。それに、苦笑すると、キャメロンはいたずらに笑う。

「きっと、ウィルソン先生が優しいからですよ。普段の先生は、あれで、最低限のことはするんですよ。自分が最後にオフィスを出る時は、自分のマグは洗っておくし、皺くちゃだけど、かならず洗濯はしてるみたいだし」

ウィルソンは、聞かされたことが意外な気がして、そんな自分に驚いた。確かに、一人で暮らしながら、特にハウスが不自由そうにしていた記憶はない。思わずため息が出る。

急に、くすくすとキャメロンは笑いだす。

「でも、ここ、何日かは、それいつの流行りなのって、すごいシャツ着てました。あれは、どうして?」

「二人で、我慢勝負をしてたんだ。どっちが先に音を上げて洗濯機を回すかって。その我慢勝負にもとうとう僕が負けて、洗濯も僕がする破目になった。当番制にするはずだったのに、これで家事は全部僕の分担なんだ」

「私、この間、泌尿器科のナースから、そんな愚痴を聞きましたよ。彼女、新婚二か月めなんです」

「二週間で化けの皮が剥がれたハウスよりは、彼女の夫は誠実だね。でも、そんな最低の奴とは早めに別れたほうがいいって、彼女に助言してあげるといいよ」

 

事実、他人の家なのだが、まるで他人の家にでも入るような遠慮がちな気分で、ウィルソンがそっとドアを開け、キッチンに重い荷物を置いて料理の準備に取り掛かりながら、話しが弾んでいるらしい会話に耳を澄ませてみれば、二人は、心臓内膜弁がどうだ、こうだと、何も休日にまでする必要のない話をしていた。

遠慮していた自分が馬鹿らしくなり、ウィルソンは、なんだか腹立たしい気分で、フライパンを叩きながら、友人の名を呼んだ。

「ハウス!」

だが、キッチンに現れたのは、ハウスではなく、チェイスだ。

「すごいですね」

色々嫌になり、焼いただけの肉をメインに、大したことはしていないのだが、皿に盛りつけられた料理を言いつけられたわけでもなく運びながら、チェイスは顔をほころばせている。

「ハウスは?」

しかし、呼んだはずの家主はといえば、テーブルに全てがセットされてから、ゆっくりと顔を出した。

ハウスは右手に持つ杖へと体重を乗せた姿勢で、机の上の料理を眺めると、特に感謝した様子もなくウィルソンに視線を移した。

ハウスが口にしたのは、告白というよりは、宣言というのが正しい。

「ウィルソン、チェイスと付き合うことにした」

ウィルソンは、びっくりしたような顔のチェイスと目があった。育ちのいいお坊ちゃんは、自分のために引いた椅子に座ろうとしながら、上司の行動の意味を読み取ろうとしているのか、しきりにハウスの表情を窺っている。緑の目が揺れている。

「……ハウス?」

「それはまた唐突だな」

ウィルソンは、自分の席に掛け、ハウスが椅子に座るのを待った。

ハウスが大きな音を立てながら、椅子を引き、座る。正面の友人の顔を見据えながら、ウィルソンはフォークを取った。

「冗談だって、この間言ってなかったか、ハウス?」

「そんなことは言ってない。粉をかけてみたら、チェイスもちょっとは興味があるみたいだし、付き合うことにした」

ハウスは、肉を切り分け、頬張っている。サラダのボールも、自分の側へと引き寄せた。

だが自分の分を取るだけで、人にサービスしようと言う気はまるでない。

ドレッシングのボトルまで自分の手元に引き寄せて、それきり誰のためにもテーブルへと戻さないのを見て、ウィルソンは、鋭く舌打ちした。

「ハウス!」

しぶしぶテーブルの中央へとサラダボールとドレッシングを押し戻したハウスを、ウィルソンが睨みつけていると、チェイスが肺の中に溜まっていた空気をすべて吐き出すように長く息を吐く。

「……言うとは思ってませんでした。……本当に、先生たちの間では、何でもしゃべるんですね」

チェイスは、いまだ料理には手もつけず、ただひたすら、ブレインズボロ病院の部長たちの顔を見比べている。

「何でもは、しゃべらない。こいつはケチだから、お勧めの投資先を俺に教えないんだ」

「言ったところで、君には、その投資するための金がないだろ」

「その、……ハウス、いいんですか? ウィルソン先生は、俺や、ハウスについて、誤解なさったりしない……んですか?」

「したら、どうだっていうんだ?」

ウィルソンは、感じはいいものの意味のない曖昧な笑みを浮かべているチェイスに視線を合わせるために、フォークを止めた。

「チェイス、誤解……?」

「その、つまり、……俺は、ハウスと付き合おうとしているわけで」

チェイスは途中で、口をつぐむ。

「ああ、この間、エレベーターの前で口説かれたっていってた奴が、本当になったってことなんだろ?」

そう言ったのをどう受け取ったのか、目に見えてチェイスの肩に入っていた力が抜けた。

「ええ、そうなんですけど」

「もの好きだなとは思うけど、僕には関係のないことだし、君たちがいいなら、それでいいんじゃないか?」

 

この家に来て、初めて、ウィルソンは他の誰かと一緒に皿を洗った。

残り物をゴミ箱へと払うと、チェイスは、手際よく皿の汚れを落としていく。それを受けとって拭きながら、ウィルソンは、客人をもてなすべき家主は、一体、何をしているのかと苛立っていた。二人が付き合うというのなら、ウィルソンは今晩はこの部屋から出て時間をつぶさなければならない可能性もあるわけで、その居心地の悪さが、さらに苛立ちに拍車をかける。

しかし、チェイスは、料理を振る舞ったウィルソンに感謝を示している。そして新しい恋人の親友との間に、友好な関係を築こうとしているようだった。

「あの、ウィルソン先生、……俺たちが知らなかっただけで、ハウスは、前から、……つまり、そう、だったんですか?」

ウィルソンの眉は寄った。

「えっ?」

「いえ、あのですね。ハウスは、生涯で初めて男に告白してみたら、見事に振られたから、何が原因で振られたのか知りたくて、俺と付き合ってみるって言うんです。本当ですか?」

皿を拭くふきんの動きは止まる。

「あいつがそう言ったんだろ?」

チェイスは肩をすくめる。

「ええ、そう言いました。珍しく、ハウスが殊勝な態度にでてくるものですから、なんだか、面白いような気になってOKしたんですけど」

「だったら、そうなんだろ。僕だって、ハウスのこと全部を知ってるわけじゃない」

新たに渡された皿を、ウィルソンは乱暴に拭いた。

だが、チェイスは聞いてくる。

「ウィルソン先生は、ハウスが振られたっていう男のことは知ってますか?」

 

「ハウス!」

二人しかいない家の中で、チェイスとのことを問い詰めるのが気詰まりで、夕食の後、チェイスが行儀よく帰って行った後、ウィルソンは早々に毛布を掴んでソファーの上で丸まったのだ。

だが、やはり、仕事が終わった後のハウスの部屋で、そのことを口にするのは気が重く、病院内の廊下を歩く友人の姿が見えるなり、後を追って声をかけた。

振り返った友人の顔は、いつもと変わらぬ不機嫌さだ。

「何だ?」

「チェイスと付き合うって、ハウス、本気なのか? チェイスは部下だし、……その、ちょっと、性別に問題があるだろう」

ハウスは杖をついて歩き出す。

「なんだ? お前、反対なのか? ……俺の知り合いの中じゃ、あいつが一番扱いやすくていいんだ」

自分の部下を指して、ちょっと、ここが足りないだろ? だから、実に具合がいいと、ハウスは頭をトントンと叩く。

「面白いとさえ思えば、何にでも手を出す。この俺にでもだ。奴は、普段酷い目にばかり合される俺を自由にできるかもしれないと思って、ワクワクしてる」

「そんな奴と君は付き合うつもりなのか?」

「そうだ。俺は、どうして俺がお前に振られたのかが知りたい。それに、ずっとお前と寝てみたいと思ってたが、実際、自分が男と寝られるものなのか、試してみたい」

「……馬鹿じゃないのか、君は?」

実際に頭痛がしてきたような気がして、ウィルソンは眉間を揉んだ。

「じゃぁ、もう一度、告白して、お前を困らせてやろうか、ジミー? 嫌だったら、大人しく静観してろ」

 

 

続く