初めての朝 2

 

ハウスは、ウィルソンの義理堅さに、敬意を表しつつ、大きなあくびを一つした。

かけた覚えのない目ざましで目が覚めてみれば、コーヒーメーカーには、いい匂いのするコーヒーがなみなみと出来上がり、机の上には、パンケーキがおやつのためのプラスティック容器に入った分まで用意されている。

家の中は静かだが、何時に起きたのか、洗濯籠の中身は全てなくなり、畳まれてソファーの上に積んであった。

まさにウィルソンは嫁にぴったりの逸材だと思ったが、昨日拒まれたことを思い出し、ハウスは苦笑することに留めると、一人キッチンのテーブルに座る。

ゆっくり朝食を取っても、十分間に合う仕事に間に合う時間に目覚ましをセットしていく辺りが、ウィルソンらしい。

そして、顔を合わせなくて済むように、先に出勤してしまうのも、まさしくウィルソンらしい行動だと、たった一人の家の中で、ハウスはコーヒーをごくりと飲んだ。

 

「あっ、ハウス先生」

病院の受付を通り抜け、ハウスが正面にあるエレベーターへの道のりを歩いていく、ほんの短い道のりの間に、もう邪魔が入った。

「なんだ、チェイス?」

速度は緩めず、ハウスは歩く。

「ERから、患者がこちらに回されるそうです。意識は回復したようですが、呼吸困難、左足に麻痺あり、ただし、これは、以前からだそうです。発熱なし、急に苦しみだして、痛みがかなり酷いようで、あまりの暴れ方に、家族も打撲と、爪で外傷を負ったようです」

「なるほど。で、チェイス、俺は、魅力的かな?」

ハウスより先に、オフィスの階のボタンを押したチェイスは、上司に言われたことの意味が分からず、思わずその顔をしげしげと見つめた。

額に皺をよせ、今日も世界中の不機嫌を背負い込んだようなハウスは、エレベーターの場所を知らせる階数ランプを眺めている。

「は?」

「どうだ? 俺と、付き合ってみないか?」

もう一度、チェイスは自分の耳を疑った。

「え……?」

チーンという軽快な音がして、エレベーターが開く。中にいる人間は、扉の前に立つハウスの杖に、大きく左右に別れて箱から下りて行った。上司は、さっさと箱の中に乗り込み、チェイスが動きだせないでいる間に、開閉ボタンを押そうとしている。

「ちょっと待って下さい。俺も乗ります」

慌てて乗り込んだものの、動き出した狭い箱の中は、気詰まりな沈黙で押しつぶされそうなほどだった。

エレベーターの上昇がやけにゆっくりに感じられる。

沈黙の中、ハウスが気を引くような咳ばらいをする。

「……わざとじゃないぞ。お前が乗りたくないかと思ったんだ」

上司の奇行には慣れてはいたが、いいわけまで始めるとは、今日は格別だとチェイスは、横目でハウスを窺った。

ハウスは、下唇を何度も噛んでいる。

「どうしてですか?」

「嫌いな上司に、付き合えなんて言われて、一緒のエレベーターには乗りたいのかお前?」

「…………あの、本気で言ってますか……?」

 

 

「あ、はい、わかりました。すぐ行きます。少しだけ待っていてください」

その日、上司から不可解なプレッシャーをかけられた若い医師は、チェイスだけではなかった。

担当患者への意見を求めると、普段なら気軽にオフィスへと顔を出すはずのウィルソンに、一人で検査室へ来てくれと呼び出され、怪訝に思いながらも、キャメロンは席を立ったのだ。

内線の内容を問いただすハウスの視線を避けながらオフィスを後にしたキャメロンは、現在、強い心理的負担をかけられていた。

 

「わかりました。では、ウィルソン先生の意見をハウス先生にお伝えします。けれど、ご本人に直接お話しになった方がいいんじゃないですか?」

ウィルソンのコロンが臭いのだ。

ここが検査室という狭い部屋だからという理由ではカバーしきれないほど匂いがきつすぎて、その匂いは香害といっていいレベルだった。化学薬品に対するアレルギーを持つ患者への医師としての適切な配慮から、普段のウィルソンからはこんな匂いはしない。せいぜい、石鹸の匂いだ。それが、まるで一瓶ぶちまけたような強烈な匂いをさせている。

直属の上司であるハウスと違い、患者への気配りを忘れないウィルソンだけに、本当にどうしたというのか、鼻をつまむわけにもいかず、できるだけ失礼のないように口だけで息をしながら話そうとしているキャメロンは呼吸困難に陥りそうになっていた。

カルテを返すウィルソンは、申し訳なさそうな目をしている。

「……ごめん。臭いんだよね」

「ご存じでした?」

やっと、キャメロンは鼻をつまんだ。そして、すぐドアに近づき、大きく開け放つ。

「どうしたんですか? 今すぐシャワーを浴びられた方がいいですよ」

「僕の匂いって、変じゃないか?」

酸欠気味の脳みそのために、何度も深呼吸した。

「シャワーを浴びれば、もう少しましになると思いますよ。そりゃぁ、全部が消えるってところまではいかないかもしれませんけど」

ウィルソンの表情から、自分のコロンがどれほどひどい匂いをさせているのか、分かっているのだとほっとしたキャメロンはドアのそばから戻らなかった。

「そうじゃなくって、」

ウィルソンは、目をそらした。

「僕の体臭って、変な匂いがするんじゃないかと思って」

 

キャメロンは、どう返事をしていいのか迷った。

「……私は、いい匂いがすると思いますけど?」

下ろされたままのブラインドを見つめ、何台も並んだ顕微鏡を眺めた年若い女医が、答えに惑ったのは、この言葉をセクシャルな意味あいでの好意だとウィルソンが受け取ったら、面倒なことになるせいだ。

正直にいえば、キャメロンは、腫瘍学部門部長の体臭になど興味はなく、どんな匂いだったかも思いだせない。

 

「あの、やはり、ハウス先生に直接、お話いただく方がいいと思います。少しあとで、ハウスのオフィスに来ていただけませんか?」

 

 

「ええっと、何故、僕がここにいるかと言いますとですね」

「わかってるよ、チェイス。僕がハウスのオフィスに顔を出さないからだろ?」

しかし、腫瘍学部門部長は、オフィスに立てこもったまま、キャメロンの願いを無下にした。

「そうなんです。あそこ、あの窓の側で立って、怖い顔して睨んでる人が見えますか? あの人は、今日は格別に変なんですけど、先生の首に縄をつけてでも連れて来いって」

「まぁ、そうだろうね。……患者は、癌みたいだしね」

せっかくチェイスがズボンのポケットから手を出し、指差したというのに、深いため息をつく、ウィルソンは一ミリも窓の方へは顔を向けようとはせず、その態度はかたくなで、とりあえず、チェイスは話題を変えることにした。

「コロンの匂いが消えたようですね」

ちらりウィルソンが、カルテから顔を上げる。

「……キャメロンに、聞いたのか。彼女に謝っておいてくれ。……彼女だけに来てくれって言ったけど、もしかして、ハウスも付いてくるんじゃないかと思ったら、たまらなくって」

誠実そうな茶色い目を潤ませ、申し訳なさそうに細めたウィルソンの答えは、ほぼ意味不明だが、ハウス絡みなら追い詰められて、プレッシャーのあまり意味不明の行動をとりたくなる気持ちはわらかなくもなかった。

そういうチェイスも、今朝のこと以来、どうしてもハウスの行動が気になって落ち着かない気分でいる。

ハウスは、怖い上司であり、けれど、診断医として天才的な判断を下す彼の元で学んだというキャリアは、チェイスの人生に大きな意味をもたらすはずだった。それだけの存在だったはずなのだ。

だが。

「冗談でしょうけど、今朝、俺、エレベーターの前で、ハウスに交際を迫られたんです」

ウィルソンの気分を変えられるかと、何気なく言ったチェイスの言葉に、ウィルソンはがばりといきなり席を立った。その勢いは、鐘を鳴らされたリングのボクサーの迫力で、目を見開くチェイスを尻目に、腫瘍学部門部長は、ドアではなく、窓に向かって突進していく。

「えっ、ウィルソン先生……?」

跳ね返る勢いで、窓を開け放ったウィルソンは、広いベランダに出ると、ハウスのオフィスとの境ある仕切りのレンガを跨ぎ、一直線に、ハウスのオフィスの窓まで近づいた。

いきなりハウスの部屋の窓を大きく叩いた腫瘍学部門部長の背中を、チェイスは唖然と見送るしかない。

窓の外のウィルソンは、普段の慎み深さなど、全く忘れたような大きな声で怒鳴っている。

「ハウス!」

「おい、開けろ、ハウス!!」

 

バンバンと、窓を叩くウィルソンを、ハウスは鼻に皺をよせて見ていた。

ウィルソンお手製のパンケーキは相変わらずうまかったが、患者が生死の境をさまよっているというのに、ミーティングの招集に応じない腫瘍学の専門家の態度はいただけない。

だが、何かに頭にきているようで、眉を吊り上げたウィルソンはハウスが窓の鍵を開けようとしなくても、そこから立ち去ろうとはしなかった。あんなに逃げ回っていたくせにその態度の急変は何だと、腕組をして仁王立ちの腫瘍学部門部長とのガラス越しのにらみ合いを、ハウスは長く続けたが、ハウスが折れる前に、はぁっとため息をつくフォアマンが二人の間に割って入って窓の鍵を外した。

その時、誰が一番に話し出したのか、わからなかった。

「入ってください。ウィルソン先生」

「遅かったじゃないか。何回連絡したと思う、一体、お前のオフィスはどれだけ離れて」

「ハウス! あれは、僕をからかうための冗談だったんだな! だったら、そうだって早く言え! くそっ! 僕がどの位悩んだと思ってるんだ!!」

だが、怒鳴るウィルソンの声が、一番大きかったのは、確かだ。

ウィルソンの剣幕には、フォアマンとキャメロンは、目を見開いている。

怒鳴られたハウスも、滅多にみせないウィルソンの剣幕に思わず息を飲んだが、それでも、一拍後、言い返した。

「冗談だと思った根拠はなんだ?」

「チェイスだよ! チェイスが言ったんだ!」

あのおしゃべりめと、ハウスは床を杖で突いた。

その音に、やっとウィルソンは、このオフィスにいるハウスの部下たちが、何事かと聞き耳を立てていることに気づく平常心を取り戻したようだ。悔しげに口ごもり、下を向く。

「こっちに来い」

手招きされて、ハウスは、ウィルソンに近づいた。ウィルソンはハウスの耳元で囁く。

「……チェイスに付き合えって言ったんだろ!……」

擽ったくて、ハウスは肩をすぼめた。

「違う。お前が俺と付き合うのが嫌なようだから、他のみんなもそうなのか、聞いてみたんだ」

睨みつけられながら、耳の穴を小指で掻いた。

その態度に、ウィルソンがいらつきを溜めこんでいることは、一目でわかる。

「はぁ?……聞くなよ、そんなこと! 本当は、冗談なんだろ。だから、チェイスにも言ったんだ」

「なるほど、お前が、待ってくれって言った答えの、本当の意味は、冗談で済ませたいってことなんだな」

「……いや、……それは、」

正直に揺れる茶色い目を、ハウスはじっと見つめた。

 

それから、足を引きずり、ホワイトボードに近づいた。

「わかった。……それじゃぁ、腫瘍学部門部長も現れたことだし、今後の治療方針について、話し合おう」

 

続く