初めての朝 1

 

籠の上に盛り上がった山が崩れ落ちそうなほどになっている洗濯ものに、げんなりとため息を吐き出しながら、ハウスは一歩踏み出した。

別居中のウィルソンは、持ち込んだ衣服の数もたかが知れていて、たとえ、洗濯当番をサボったとしても、必ず先に根を上げると思っていたのに、新品の下着を購入してまで、ウィルソンが対抗してこようとは、ハウスも予想外だった。

たが、目の前の汚れものの山を見てもわかるように、結果は、ハウスの予想を裏切り惨敗の憂き目で、汚れた洗濯ものの溜まるバスルームを開ければ、ツンと鼻を突く、異臭がする。

落ち着いて、便座に座っていることもできない。

いまはもう、手を拭くための新しいタオルすらない。

しかし、皿は洗う癖に、今度の当番は君だと、ウィルソンは、頑としてたかが洗濯機を回すという作業をしようとはしなかった。

とうとうハウスの箪笥の中に入っていた下着は、10年も前から奥へと突っ込んだままになっていた白のブリーフに至るまですべて空になった。

もう今日決断しなければ、明日からはノーパンで出勤だ。

ハウスは、清潔な下着を買い求めるため、マーケットに寄ることすら面倒くさく、そのくらいなら、洗濯を理由に遅刻して洗った方がまだマシだった。

洗濯機のふたを開け、乱暴に山の上から、汚れものを放りこむ。パンツも、靴下も、シャツも、タオルも、いっしょくたに放り込んだ。

もともとどうせ、分けて洗ったりはしていない。

毎日、糊のきいたYシャツでご出勤のウィルソン先生は、パンツだってクリーニングに出せばいいだろと思いながら、真っ赤なTシャツを突っ込んだところで、まだ、山は半分にすらなっていないというのに、ドラムの中は満杯に近かった。

これからは、慎重に洗濯ものを選んで入れる必要があると、ハウスは手に掴んでいたウィルソンのボクサーショーツをちらりと見た。

自分のものよりは絶対的に優先順位の低いデザイナーズブランドのそれを、籠に戻そうと考えながら、手は、全く違う動きをしていた。

手に掴んだ下着を鼻に近づけ、匂いを嗅いでいる。

下着の中に突っ込んだ鼻から大きく息を吸い込めば、強くウィルソンの匂いがした。

言い表すのは難しいが、ウィルソンが近くによれば、感じることのできる匂い。

だが、安心感さえ感じる匂いのする下着をまだ鼻へと下着を押し付けたまま、青い目を大きく開けたハウスは絶望的な自分の行動に大きなため息をついた。

その日、ハウスが洗濯機を回したのは、それ一回きりで終わりになった。

 

 

「やぁ、おかえり、ウィルソン、疲れただろう。それじゃぁ、やろうか」

「…………………はぁ?」

部屋のドアを開けただけで、上着も脱いでいなければ、鞄さえ置いていないウィルソンは、投げ出した足の上に本を置いて、見上げてくる年上の友人の冗談に眉を寄せるしか出来ることがなかった。

「おい、どうしたんだ、ハウス?」

とりあえず、鞄をソファー近くの机へと一旦置き、上着を脱いでクローゼットを開ける。シングル用の部屋は、残念ながら十分な収納スペースがあるとは言えず、ハンガーにかけたジャケットを無理やりクローゼットに押し込んでいると、ウィルソンと同じだけ眉間に皺を寄せたハウスが、文句を言いたげな顔をしていた。

「ハウス、君、このジャケットなんてほとんど着てないだろ? バザーに出す気はないか?」

「お前が、二枚出すってのなら、考えてもいい」

遅刻してきた上に、契約通り3時までの就業で帰ったハウスと違い、ウィルソンは疲れていた。何か言いたげなハウスの視線は感じていたが、ネクタイを緩めながら、キッチンに向かう。手を洗って、水を飲んだ。身についた習慣に従い、ポケットの中からハンカチを取り出し、洗濯籠の場所に向かって移動する。取り出したハンカチには、まだ製造元のシールが付いていて、貰ったままデスクの中に溜められているハンカチが、あとどれだけあったかと、眉を寄せる。

「おっ! ハウス、君、とうとう洗濯をしたのか?」

臭うのを覚悟で開けたバスルームのドアを開け、もはや、いつ崩れ落ちても仕方のない汚れものの山の上へとさらに一枚を積み重ねるつもりだったウィルソンは、その山の標高が随分低くなっているのに目を細めた。だが、もちろん、全部はなくなっていなくて、やっぱり、ハウスだなと思う。

「やっと、君も意地を張る自分の馬鹿バカしさを認めたか」

「いいや、馬鹿なのは、新しい下着を買ってまで洗濯をしようとしないお前だ、ウィルソン」

背後からは、杖の音をさせながら、不機嫌そうにハウスが近付いてきていた。

だが、とうとうハウスに洗濯をさせたウィルソンの笑顔は、その程度では陰らない。

「だって、それは、洗濯まで僕がしたら、全ての当番が僕ばかりになるじゃないか」

「おかげで、俺はいらん決断をさせられた」

 

仕事帰りで、まだゆっくり座ることもしていなくて、もちろん、腹は減ったままで、そんな状態で聞くには、大きな青い目でしっかりと見つめてくる友人の告白は、ディープ過ぎる種類のものだった。

しかも、場所は、衣服に染みた汗や汚れで繁殖した雑菌たちが醸し出すつんとした嫌な匂いがするバスルームだ。

「……落ち着いてくれ、ハウス……」

ウィルソンは、真正面から見つめてくる大きな青い目を避けるように目をそらしたまま、友人の胸を両手で軽く押しとどめた。それは、まるで友人の気持ちを抑えるための動作に見えたが、その実、その体から無意識に逃げようとするための防御行動だった。

急にハウスがウィルソンを押しのけ、奥へと進むとしゃがむ。ハウスが動いた一瞬は、ビクリと慄かせたウィルソンだったが、ハウスが洗濯機の蓋を開けただけだとわかると、ほっと息を吐き出した。

ハウスは、ドラムのなかからくしゃくしゃに乾いたタオルを引っ張り出す。

「汗を拭け」

「……ありがとう」

洗剤のいい匂いは、ウィルソンに束の間の安らぎを与えた。しかし、汗をかくほど動揺している自分も思い知らされた。

「落ち着いたか?」

全く落ち着いてはいなかったが、まだ冷静なれず、物事を適切に対処できないのを知られるのが嫌で、ウィルソンはこくこくと頷いた。

すると、ハウスは、ウィルソンを見上げ、ぐるりと首を回した。そして、なんでもないことのように口にする。

「じゃぁ、さっさと、セックスしようか」

思わず、喉が干上がり、ウィルソンは無理やり唾を飲み込んだ。

「ちょっと、待ってくれ、どうして、そういうことになるんだ?」

「うん? もっと詳しい説明が必要か、ウィルソン? あー、じゃぁ、今日の9時15分頃だったと思う、時間はちょっと正確じゃないがな。つれない友人が、自分だけさっさと出勤した後」

「僕は、起こしたし、朝食だって用意しておいてやったじゃないか」

何度もドアの外から声をかけたウィルソンは、カチンときて、思わず口を挟んでいた。言ってからしまったと思った。話がずれる。

「ああ、スープも、サラダも申し分なかったとも。ウィルソン……サンキューは、必要か? それとも、話を続けてもいいか?」

しかし、ハウスは、脱線しなかった。口を挟んだことに対してなのか、ハウスの額には迷惑そうな皺が寄っていて、それが、ウィルソンの眉間にも皺を作らせる。

「時間は必要ない。もっと簡潔に話しを進めてくれ」

「そう。じゃ、簡潔にまとめるとこうだ。前々から俺は、どうもお前のことが好きなんじゃないかと、自分の気持ちを疑っていた。そして、今日、洗濯をしながら、お前のパンツの匂いを嗅いじまった。それも1分以上もな。それがいい匂いだと思ったんだ。俺の気持ちは、本物だろ?」

「は!? はぁ!? 僕のパンツの匂いを嗅いだ??」

ウィルソンは叫んでいた。全くハウスの行動は奇想天外だ。

ハウスは顔を顰める。

「おい、大きな声で言うなよ。変態みたいだろ」

「十分変態だ。いいよ。わかった。そこまでプライドを捨てた言い訳を考えて、洗濯が嫌だっていうんだったら、僕がやる」

しかし、あまりにハウスの言いだしたことが予想外で、それが、反対にウィルソンを落ち着かせた。

好きだと告白してきた友人に震えあがっていた気持ちは、事の顛末が冗談だったとわかってほっとするあまり、嫌味となって口をついて出る。

「言いわけってわけじゃない」

「いいよ、もう。君には負けた。料理に洗いものに、掃除、洗濯、まるで僕は君の奥さんだな」

しかし、長い間、ハウスは、困ったようにじっとウィルソンを見上げていた。開いたままの洗濯機の扉からは、赤に、黒に、白に、青のシャツ、いろんな色が複雑に絡み合っているのが見えていた。何度か瞬きを繰り返し、珍しく目をそらしたまま、ハウスが口を開く。

「……そうか、じゃぁ、ジミー、もう一つ、セックスってのをつけ足してくれないか? そうしたら、完璧な俺のワイフだ」

「……冗談もいい加減に」

ハウスが開けた扉からは、洗剤のいい匂いがバスルームに広がっていた。だが、それだけだ。ハウスが何も言わなくて、また、ウィルソンの気持ちは縮み上がっていく。

「おい、もしかして、冗談じゃないのか……?」

立ち上がったハウスが、ベッドに先に行ってると、肩を叩いてバスルームを出て行った。

ウィルソンは、泣きだしそうな声で叫んでいた。

「おい、ハウス、本気で、僕の下着の匂いを嗅いだっていうのか!?」

 

ハウスには悪いと思ったが、ウィルソンが、やっと寝室のドアを開けたのは、それから1時間以上たってからのことだった。

その間に、ウィルソンは、鍋に残っていたスープを温め、だが、さすがにメインを作る気になれなくて棚を開け、夕べよりきっちり一食分減っているレンジディナーを温めた。だが、食べていても音のしない寝室が気になって落ち着かず、コップの水を捨て、ブランデーを注ぐ。

それでもまだ、プラスティックの容器の中身が全てなくなっても、ウィルソンが寝室のドアを開けるには、さっきのハウスの目の色は青すぎてできず、シャワーを浴びに行った。

濡れた髪を拭きながら、テレビでニュースをチェックしていても、全く頭に入ってこない。

 

「……ハウス」

かちゃりとドアを開けると、ベッドボードに背を預け、読んでいた医学雑誌から目をあげたハウスの表情は不思議そうだった。

「ごそごそしてるから、荷物をまとめて出て行ったかと思ったぞ」

「飯を食ってた」

長年の友人は、見なれた顔でにやりと笑う。

「なるほど」

そして、ウィルソンの方を向き直ると、大きな青い目は率直な質問を投げかけた。

「で、やる気になったのか?」

ウィルソンは、大股でベッドに近づいた。

「なぁ、ハウス、僕をからかってるだけだろ。僕に出て行って欲しいのか?」

それしか、ウィルソンには考えられなかったのだ。

しかし、ハウスは首を振る。

「……いいや、ウィルソン。出ていくんじゃなくて、俺は、このベッドの上に来て欲しいと思ってる。ほら、見てみろ。エッチな気分になるジェルに、刹精剤入りの抗菌性ゴム、それから、ティッシュ。俺の真剣さ具合がよくわかるだろう?」

枕もとにはハウスが言ったものが、全て陳列してあった。だが、ウィルソンはそれに見覚えがある。

「これ、僕が貰った試供品じゃないか。ハウス、僕のポケットを探ったのか!」

それは、どれだけ親しくとも、されたくない行動のうちの一つだ。

「あいにく、手持ちがなくてな。それにしても、腫瘍学部門に出入りする業者ってのは、サービスのつぼを心得てるな」

けれど、ハウスは気にかける様子もなく、ネームカードに書かれた手書きの文章を読み上げる。

「弊社の製品をお試しになりませんか? 携帯のナンバーに大きなハートマークがついてる。赤毛か? ブロンド? 胸はでかい?」

「ほっといてくれ」

「それが、ほっとけないんだ。俺は、お前の下着の匂いを嗅いじまうくらい、お前に惚れてるらしいんでな」

「それなんだが、ハウス」

イライラした気分のまま、ウィルソンは、冗談をやめようとしない友人を問い詰めようと、腕組みをしてベッドに座るハウスを見下ろした。

だが。

「しっ、長い付き合いなんだ、親友のために、一度くらいは試してみようって気にはならないか、ジミー?」

 

キスだけなら、試すもなにも、今までにもふざけて何度かしたことがあった。

その中でも、一番忘れられないのは、二度目の結婚式当日、向こうの親族も、友人も全て揃った式直前の会場でのキスだ。祝いの言葉を述べにきたはずのハウスが、照れくさそうに花嫁へと短い言葉をかけると、いきなりウィルソンを引きよせ、周囲の目を見開かせるようなキスをかました。

ウィルソンの祖母は、動気がすると言って、教会の椅子に座りこんでしまった。

あの時と、同じように、ハウスはウィルソンを引きよせ、唇を押し付けている。薄い唇はかさつき気味だ。

 

「気が済んだか……?」

あの時と違うのは、タキシード姿で、腹を抱えて笑うハウスがいなくて、青い目が真剣にウィルソンの表情を窺っていることだ。

「その気にならないか、ジミー?」

「……残念ながら」

「実は、別居する前から、EDだとか?」

失礼にも、ハウスの右手がウィルソンの前を探るように押し当てられて、ウィルソンは思い切りその手を払った。

「ちゃんと勃つ!」

「そりゃ良かった」

ハウスは、少し落とした肩を竦めるようにして、ウィルソンを見上げていた。

その目が、ウィルソンを寝室に引きとめた。

「ちゃんと話し合う必要があるかみたいだな、ハウス」

ウィルソンはため息を吐き出した。

だが、ハウスは、全く、ウィルソンの困惑を考慮しない。

「そうかもな。でも、俺としては、話をするより、お前とセックスしたいんだがな」

 

ハウスのベッドに二人並んで腰かけて、話をするなんていうことは、初めての経験かもしれなかった。

「ハウス、君は、一体いつから?」

それも、まるでティーンのカウンセリングみたいな内容だ。

「……難しい質問をするな、ウィルソン。お前を好きになったのは、いつかってことか? はるか昔だが、前世からとか、そういうカルトっぽいことは言わないぞ」

答えも、ティーンと同じくらいねじくれている。

「そうか、へぇ、ありがとう」

「気のない返事だ。傲慢な奴だ」

「君の好きは、すごくわかりにくい。僕をいじめて楽しむのが、君の好きなら、確かに、僕は出会ったときから、君にとても愛されてたと思うよ。でも、君は、苛めて楽しむ相手とセックスしたいと思う性向の持ち主だったのか?」

「……それは、どうかな? いろんな奴をいびってきたが、やりたいと思って興奮したのは初めての気がするな」

 

はぁっと、ウィルソンはもう一度ため息を吐きだした。

「僕と寝たいと思ったのはいつなんだ?」

友人へする質問のむず痒さに、ウィルソンは思わず髪を掻きむしる。

「それも、はるか昔かな? ……でも、決断したのは、さっきだ」

「つまり、僕の下着の匂いを嗅ぎながら……?」

怖々、隣のハウスを見上げると、ハウスはふてくされた子供のように唇を突き出していた。これで、この男は、ウィルソンより年上で、40をいくつも越えている。

「いい匂いがするんだぞ。お前、知らないのか?」

しかも、医学会では、天才の異名すら取っている。

「たとえ、僕の股間が、いい匂いがしたとしても、僕の下着の匂いを嗅ぐな!」

怒鳴りながら立ち上がり、ウィルソンがハウスとの間に距離を取ろうとしたのは、肉体的な接触を望むハウスに恐怖を感じたからではなく、あまりにハウスが匂いにこだわるからだ。

けれど、ベッドから腰を浮かせると、ハウスはとても傷ついた顔をした。

その顔が見ていられなくて、ほんの少し位置をずらすだけのつもりだったウィルソンは、結局、ベッドから腰を上げてしまった。

ついでに、目に入るベッドのまくら元に並んだ、ゴムやジェルも見ていられず、つい、ドアの方へと顔を向ける。

けれど、背中からのしかかる沈黙が重すぎて、そのまま出ていくことはウィルソンにはできなかった。

ウィルソンにとって、ハウスは大事な友人だ。

 

「……その、なんだ。ハウス、告白を受けて、すぐ、はいそうですかと、寝れるほど僕たちは、若くはないだろ。……時間をもらってもいいか? ……とりあえず、今、僕はとても混乱している。君が嫌いじゃない。本当だ。その証明のために、明日の朝は、パンケーキを焼いてやるから!」

 

 

続く。

 

 

連載は苦手なので、途中でくじけるかもしれません。申し訳ありません(初回から、ごめんなさい)