初めての朝 4

 

急患を抱えていない時のハウスのオフィスは、多分、病院内で一番の住み心地のよさのはずだ。全く管理主義でない上司のおかげで、部下たちは、それぞれが欲することを仕事としていればいい。外来診察でさえ、それが嫌いな上司のおかげで、病院一、ハウスのオフィスは受け持ち時間が少ない。本来なら、残業する人間などいないというのが、ハウスのオフィスの姿で、その日、仲間たちが帰った後も、チェイスが検査室に残っていたのは、とても珍しいことだった。

試薬を垂らし、顕微鏡を覗き込む。病院の中は、廊下をまたストレッチャーが走って行く、相変わらずの喧騒だが、それでも、昼間よりは落ち着いている。そして、検査室の中となれば、チェイス一人のために、部屋の電灯は灯されているのだ。

チェイスには、書き上げたい論文があって、検証をしなければならなかったのは、確かだったが、それを今晩中にしておかなければならないのかと聞かれれば、そうではなかった。別に、飲みに出かけてもいい。

「……やっと来た」

だが、チェイスが行くような店に、ハウスは現れないのだ。3時までの勤務である上司が、生死の境をさまよう患者を抱えてもいないというのに、夜9時の病院にいることも、とても稀なことだが。

「ウィルソン先生のディナーは、うまかったですか?」

杖の音をさせて、検査室のドアを開けた上司は、苦虫を噛み潰したような顔をして、それでも、チェイスの軽口には、小さくうなずいた。ライダージャケットのハウスは、ドアから入った一番最初の作業台の側に立ち、部下であるチェイスの仕事を監督するために近づくことはしない。ぶっきら棒な態度で、機嫌悪く杖を机の端にかける。

「残業の許可を、どうも」

構わず、チェイスは、握ったペンで、用紙へと検査結果を記入しながら、次の検査の準備をしようと席をたった。うつむきがちに、ハウスが口を開く。

「残業するなんて、無能だと思われるぞ」

突き放したような口調の上司に、チェイスは手頃な試験管を手に取りながらくすりと笑った。

「先生のお宅には、ウィルソン先生がいるし、かといって、先生を外に誘ったところで、出てこないでしょ?」

「夜の病院にも来たくはない」

ぶすりとハウスは口を結んでいる。

「別に俺は、来てくださいとは頼んでませんよ?」

チェイスは、残業を求める書式に入力し、ハウスにメールしただけだ。ただ、上司はそれに許可のサインを入れ、更に人事管理課へと転送しておく義務がある。でなければ、どれだけチェイスが残業したとしても、給料は支給されない。そして、手元にきたメールを、どう受け取るかは、ハウス次第だ。

小さくハウスは舌打ちした。

3本とった試験管を作業台にセットし、チェイスは、置いたままにしていた資料を取るためハウスの作業台に近づいた。ふわりと石鹸の優しい匂いが薫る。ハウスの身体からだ。だが、それを、セクシーなサインだと受け取る程には、チェイスも間抜けではないつもりだ。

「ハウス、あなた、ウィルソン先生に、風呂にも放り込まれましたね?」

ハウスは肌もさっぱりしている。

「あれだけ、忙しそうにしているのに、本当に、あの人は、よく見てますよね。今日、大分、足の調子が悪かったようですもんね。一応、付き合いだしてるんだし、俺は、焼いとくべきですか?」

くんくんとハウスの匂いを嗅ぐように鼻を蠢かせば、チェイスが手に取ろうとした資料は、ハウスが、ばんっと大きく音を立て机に手をついたせいで取れなくなった。

ハウスは、上着の内ポケットをさぐり、中からコピーを取りだす。

「こっちの方が、データーが新しい」

不機嫌にコピーを突き出され、チェイスは、驚きながらも受け取った。正直、ハウスが自分の手がけようとしている論文の内容を知っていたことに、チェイスは驚いている。

「えっ? ありがとうございます……」

「お前は、詰めが甘い」

 

ちっと舌まで鳴らして、顔を背けた上司に、チェイスは肩を竦めた。

最新のデーターがあることを知りながら、手を抜いた自分は、詰めが甘いことも確かなのだが、ハウスが本当に言いたいことに、思い当たりがある。

「先生、でも、先生の家には、ウィルソン先生、職場じゃ人目がある。そして、あなたは出掛けるのが嫌だなんて、恋人同士らしい振る舞いをしろって言われても、先生が協力してくれなきゃ、俺にできるわけありません」

つきあうという約束はしたものの、一週間以上、二人の間に進展していないのだ。

最初はチェイスもワクワクしていたのだが、意外にも、ハウスが一人きりになることは極端にすくない。常にオフィスには誰かがおり、そして、たまにいないとなれば、今度腫瘍学部門部長が遊びに来ている。そして、自分から声をかけてきたくせに、ハウスから機会を作ろうとする態度はどこにもなかった。

チェイスは、やっとふたりきりになれた上司の腰にまわした。背の高い彼相手では、少し見上げる格好になるのが、初めてのことで不思議な気持ちを感じたが、顔を顰めるだけで文句を言わない上司を間近でしげしげと見つめる行為は、新鮮だった。上から見下ろしているくせに、ハウスはチェイスを上目づかいに窺う。殊勝な態度をとってはいるが、青い目には苛立ちがちらついている。

「質問があるんですけど、付き合うって、具体的に、先生は、何をしようって思ってます? ランチ? ハグ? キス?」

ハウスは、顔を背けた。

「……セックスだ」

予想通りの答えで、チェイスは、逆に安心した。質問を重ねた。

「それは、触りあうだけですか? それとも、オーラル? もっと、直腸のなかまで、俺のを入れてもいいんですか?」

抱き寄せた身体を煽り立てるように、腰を擦りつける下品さで押しつけたところで、ハウスに兆しは全くない。目も合わせようとしないハウスは、酷く、難しそうな顔をしているだけだ。

チェイスは、そっとハウスの腰から手を離すと、座っていた椅子へと戻って行った。

背中に強い視線を感じる。

「先生、そこだと、外から見えますよ」

 

 

チェイスがハウスのジッパーに手をかけようとすると、払われ、反対に、ハウスの長い指が白衣の裾ボタンを外し、チェイスのジッパーを開けていった。大胆だと言えば、興奮できそうな気もするが、ハウスがしているのは、作業だ。

「そんなに好きな相手だったんですか?」

ズボンの中に入れていたシャツをめくあげるハウスの耳へとチェイスは、囁きかける。

「だったんじゃない。今も、好きだ」

「振られたのに?」

下着越しにハウスは、チェイスのものをぎゅっと握るが、これから職場でいけないことをしようとしている雰囲気はない。そんな相手に、チェイスはアレを握られている。

「予想サイズより……?」

ハウスの態度は、あまりに優しくなく、チェイスは準備がよすぎて、場違いな程だ。

「長い」

どのくらいを予想していたのかを考慮する余地はあるが、今日初めての、いい反応だった。

「ということは、一応合格ですね」

雰囲気はまるで甘くならないが、下着の中へ、手はすぐに入って来た。大きな手の動き事務的だが、もともとハウスは器用だ。先端をカウパーで濡らすチェイスのものを、指を汚しながら、ハウスの両手が撫でていく。医者はセックスに無遠慮なタイプが多いが、まさしく、ハウスもこのタイプで、上手い。幹を扱きながら、柔らかな親指の腹でしつこく雁首のくびれを弄られて、早々にチェイスは軽く呻いた。だが、途端に、もういくつもりなのかと、ハウスが先端の穴をぎゅっと押えつけくる。呆れたような目付きで見られてチェイスは苦笑するしかない。

「まだ、ですけど、性能のテストを受けてるわけじゃないんで、気持ちよくなったら、意地悪しないで、いかせてください」

まだ、疑い深く、ハウスは見ている。

「早漏なのか?」

チェイスは顔を顰めて苦笑した。

「違いますけど……」

肩を竦めて、険しい顔で眉を寄せているずいぶん年上の男のズボンの前をさぐる。

「先生が、試したいのは、男のものが触れるかじゃないでしょう? そんなの手袋越しに、触ったこと何度でもありますもんね」

ズボンの前を開けて、肌をさらせば、風呂に浸かったハウスからは、ふわりと清潔な匂いがする。薬液の匂いが充満する殺風景な検査室の中では、それは幸福の匂いにも近い。

「ウィルソン先生と暮らすのは、先生の生活レベルの向上のためには、ベストなんじゃないですか?」

ハウスの腹が、その年齢に不似合いなほど出ていないことは、日々の生活からもわかっていた。だが、かさついているだろうとばかり思っていた肌触りがこれほど柔らかだとは、チェイスにとって予想外だった。いや、肌がというよりも、薄くついた脂肪が、年齢に見合いの少し張りを無くした肌の手触りを甘いものにしているのかもしれない。とにかく、初めて触れたハウスの肌は、チェイスの予想をはるかに上回る滑らかな手触りだ。

「足、どうなんですか? あったまったから、少しは、調子がよくなりました?」

チェイスの手が、下腹を撫でれば、緊張のためか、ハウスの息が浅い。

「……悪くはない」

僅かに白髪の交じる陰毛の中で、ハウスのものは、力なく、少し頭をもたげるだけだった。

チェイスの手がそれに触れれば、びくりとハウスの腰に力が入る。

ハウスの警戒心が解かれるまで、チェイスはただ触れるだけにして待った。

はぁっと深く息が吐き出され、ハウスの腹に入っていた力が抜ける。

「俺は、先生みたいに意地の悪いことはしませんよ?」

「わからん。お前は、仕事が雑だ。俺の大事なところまで雑に扱うなよ」

 

そして、付き合い始めたばかりの二人は、手元にあって目についたチェイスの検査結果の杜撰な誤差について、罵りあいに近い口論を戦わせ合いながら、互いの指を汚した。

「そもそも、こんな実験で、何の証明ができると……!」

はっと、先に苦しげな息を吐き出したのは、ハウスで、射精したそうにした男は、首元と頬を赤くし、口も開きっぱなしになっている。熱っぽく潤んでいる目が、握られ、扱かれているチェイスのものの根元の辺りをぞわぞわとさせる。

口うるさく恐いだけのはずの上司の媚態は、予想以上の色気で、チェイスは内心舌を巻いた。

あっ、と短く声を上げ、びくりとハウスは丸みを帯びた腰を震えさせる。

「先生、……いきそうですね」

「くっそ、黙ってやれ……お前もだろっ!」

奥歯に力を入れ、ハウスは、潤んだ目でチェイスを睨みつける。

「俺は、まだ、ちょっと余裕があります」

「うるさい。っ、……こっちは、人にされるのは、ずいぶん、っ、久しぶりなんだ」

毒づきの最後には、ハウスの身体にぎゅっと力が入り、はぅっと、大きく息を吸い込むと、ぬるぬるに濡れていた先端がぶるりと震えた。チェイスが射精口を手で覆えばすぐに、手のひらを生温かいものが打って行く。どろりと溢れたものは、ハウスの幹を伝い落ち、まだ緊張に固い太股を濡らした。

心地よい射精感に身を任せるハウスは、目を閉じ、だらしなく口を開いたままだ。

口の中に行儀よくおさまっている舌が頼りなくもかわいらしかった。

出しきると、満足げに、深いため息を、ハウスは吐き出す。

チェイスのものを、ハウスはまだ握ったままだが、その存在は忘れ去っている。

「久々の快感はどうでした?」

チェイスは、ハウスに口づけようとした。そう言えば、直接的に触り合っただけで、まだキスもしていない。

だが、ぎょっとしたように身を引かれて、チェイスの方が驚いた。

「え? あの……?」

「ああ、……平気だ」

ハウスの顔が近づき、怪訝な思いのまま、チェイスは唇を重ねた。薄く酷薄な印象の唇だったが、意外に感触は悪くない。

だが、舌を挿しこもうとしても、口が開かれない。

「もしかして、……キスはしないというルールとか……?」

 

 

ジェームス・ウィルソン医師は、久々に、一人で過ごす夜の時間を、満喫していた。

散らかっていた部屋は、帰るなり、物を元の位置にもどした。洗濯機を回しながら、夕食の準備をして、ハウスに食べさせれば、彼を風呂へと放り込み、その間に、洗いものもすませる。

メイドを雇うことすらできる医師としての給料を貰いながら、なんで家に帰ってまでこんなに働かなければならないんだと思うのだが、目の前にやることがあれば、つい片付けたくなってしまうのは、性分だ。いや、ウィルソンは、やらなければならないことを山積みにして平気でいるハウスが悪いと、自分に言い聞かせた。

クリーニングから引き取って来たものを、窮屈なクローゼットに苦労して掛けていると、顔色を良くしたハウスがバスルームから戻ってくる。

「足の調子は?」

「……うるさい」

続きを読むつもりで昨夜伏せて寝た本を、読むことすらかなわぬほど、足が痛み、ソファーにただうずくまっていたくせに、友人は、本当に強情だ。

「……ウィルソン、ちょっと病院まで出かけてくる」

「え?」

「チェイスが、実験の検証をしているんだ」

ハウスは、Tシャツを手に取り、着替えれば、ライダージャケットを羽織る。

「へぇ……」

二人が付き合うと言いだしたのには、ウィルソンも驚いたのだが、どこにも進展が見られなくて、なんだか、気が抜けた気分だったのだ。だが、部下の学術論文など、全く興味のないはずのハウスが、様子を見に行くという。上司と付き合うということの効果は、こういうところに現れるというわけかと、ウィルソンは、チェイスのずるさをどこか腹立たしく思った。

もうバイクの鍵を手に、ハウスは、部屋から出て行こうとしている。

「気をつけて行けよ」

ハウスはわざとらしく立ち止り、振り返る。

「オーケー、ママ」

 

ハウスが出掛けたおかげで、ウィルソンは、テレビだって見放題だ。洗濯の乾燥が終わるまでには、後、一時間はかかるはずだ。

しかし、ウィルソンは、見つけてしまったのだ。

風呂に入って、少しは足の加減も良くなったようだが、彼が座っていたソファーの端には、薬の容器が転がっている。オフィスの机に、予備を隠し持っているはずだと思いはするのだが、昼間、見掛けた顔色の悪さは、ウィルソンを落ち着いてテレビの前へと座っていさせない。

「ああ、もう、本当に、ハウス、君って奴は!」

もう、ウィルソンは、車のキーを手に持っているのだ。

 

 

自分がいってしまえば、やけに冷静なハウスの手は、的確で無駄のないやり方でチェイスを射精に導いた。

強引でなく、しかし、手間取りもしない手淫の成果に、若い身体は満足の深い吐息を吐き出す。

しかし、二人の間の空気はぎこちない。

チェイスは、白衣の襟を直した。

盗み見れば、深いキスを拒んだ、上司の唇は薄いピンク色だ。

「先生、俺たちって付き合うんじゃなかったんでしたっけ?」

黙々と手の汚れを落としていた上司の手に、チェイスが指を絡ませれば、ハウスの身体は、ぎくりと強張った。格好の悪い真似がしたいわけではなかったが、あまりにもはっきりと拒まれたことは、思わぬ深手でチェイスを傷つけていた。見つめても、目を逸らすハウスの顔へとじっと視線を当てたまま、チェイスはハウスの唇を奪った。

今度はチェイスも舌を差し込む真似はしない。

眉間に皺を寄せ、ハウスはキスに耐えている。

 

不意に、とても近く足音が聞えた。

勿論、唇は離された。

慌ただしく、服は整え始められ、二人は、適切な距離まで離れるはずだった。

しかし、足音に聞き覚えがあった。この歩き方は、ハウスのたった一人の友人であるジェィムス・ウィルソン医師の足音だ。

「あれ? なんで、ウィルソン先生が……?」

誰かを探すように、手前の検査室のドアが開けられ、違うと、足音はまた続く。

チェイスは、この時間にウィルソンが検査室に誰かを探しまわることを、不思議に思いながら、服の乱れを直す作業を続けようとしたのだ。

しかし、ハウスの手は止まったままだ。

「ハウス?」

開いたドアから顔を出したのは、やはり、ウィルソンだ。声をかけ、ウィルソンは乱れた二人の姿に目を見開く。

慌ててたように部屋に入ると、大きな音を立てドアを閉めた。

腕を組んだ腫瘍学部門部長は、ドアのそばから一歩も踏み出そうとはせず、茶色の目が酷く冷たい。

「……なぁ、こういう場所で、そういうことするのは、危険じゃないのか……?」

 

続く。