ファースト・アクシデント

 

チャーリーが、スーザンと別れたのに、最初に気付いたのは、ネイサンだった。

 

「こんにちは」

「やぁ、こんにちは。入れば?」

元サミット西高校の校長は、にこやかな顔で玄関まで迎えに出た。チャーリーが、ためらうようにドアの内側を覗いていても急かしはしない。開けたドアに手をついて、やけに楽しげな笑みを口元に浮かべて立っている。

「……スーザンなら、いないよ。30分前に出かけた」

「そうだろうとは、思ってたんですけど」

光の差す、家の中は静かだった。

チャーリーの肩から、やっと力が抜ける。

それをまた、楽しげに笑って、厳しい父兄の目に晒される教師という立場にいる以上、買い物に出ることも難しそうな、楽な格好をしたネイサンは先に家の奥へと進んでいく。少し襟の色がはげたネイビーのポロシャツは、チャーリーも貸してもらって着たことがあるものだ。

何度か入ったことのあるキッチンで、ネイサンは、ポットからコーヒーをカップに移しかえながら、チャーリーに、ごく自然にテーブルの上のリンゴを顎で示し、勧める。

ハウスキーパーたちの手が入るチャーリーの家と違い、テーブルの上は雑然としていた。鍵、コップ、請求書、新聞、スーザンが置いたらしい服。

「お前たちが、こんなに早く別れるとは思わなかった」

タイミングを計っていたと思しき、少し緊張した広い背中だ。もう少し、時間をかけてくるかと思っていたのに、ネイサンは意外とせっかちだった。

「……僕だって、こんなに早く別れる気はなかったです」

答えると、くるりとネイサンは振りむいた。コーヒーを注いだマグへと口をつけている。マグの上から覗く目は、この間の舞台では主演女優を務めた娘よりもさらに大きい。

「やっぱりだ。お前、振られたんだろ」

それが、いかにも満足そうに輝いてチャーリーを見る。

「あなたは、僕をいじめるために、ここへ呼んだんですか?」

ごくりと喉を鳴らしてコーヒーを飲むと、人でなしの笑顔でにこりと笑ったネイサンは、りんごを剥いてやろうかと、ナイフを取った。

「やっぱりな。さすが、俺の娘だ。見る目がある」

 

結局、リンゴとコーラを持たされて、チャーリーはガードナー家のキッチンを出た。ネイサンが向かうのは、彼の部屋だ。

「それが聞きたかったの?」

チャーリーは、彼の後に続いた。電話にすればいいのにと、背中に言いながら、もし電話で聞かれていたならば、絶対に答えなかっただろうと、チャーリー自身思っていた。と、いうか、別れたようだと見当をつけた娘のBFを家へと呼んで確かめる、ネイサンのずうずうしさに、少し呆れる。

大きな仕事机に、彼が座れば、机の上にあるスコッチの酒瓶が目についた。

音を立てながらリンゴを齧るチャーリーの視線に気づくと、少しばつの悪そうな顔をして、ネイサンは、スコッチを引き出しの中へとしまう。そして、誤魔化すように本を手に取り、場所を変え、さらに、眼鏡まで手に取る。

ネイサン・ガードナーには、飲酒癖がある。

「まだ、たくさん飲みますか?」

彼は大人だが、スーザンの喫煙癖より、性質の悪いそれは、よほどチャーリーの気にかかっていた。決して糾弾しないチャーリーの質問の仕方は、ネイサンの顔を顰めさせる。

「チャーリー、セラピスト気どりのカウンセリングは、君の学校のトイレだけにしてくれ。……少しだけだ。新しい学校に、まだ慣れないから、多少緊張しているからね」

それでも、きちんと答えるのは、彼が教職者だからかもしれない。

チャーリーは、彼が、校長の職から解任されるきっかけとなってしまったことで、自責というものを学んだ。彼が、校長時代によく口にした、今日の言葉なんてものよりはるかに、重く。

ネイサンはリンゴを齧る子供から視線を逸らしている。

スコッチの残量について、気にはなったが、チャーリーは、ネイサンに敬意を払って、話題を変えることに同意した。

「スーザンの新しい彼氏についての情報が欲しくて僕を呼んだ?」

とぼけた顔で、笑いかけてくるネイサンは、あきらかにほっとしている。

「そんなことは言ってないぞ」

だが、

妻の浮気が原因で、離婚した父親は、鬱になっていた時期もあって、自由を愛する娘の行動に対して、寛大とは言い難いのだ。なかなか口を割ろうとしないチャーリーに、ネイサンは唇を曲げるようにして、机へと肘をついている。彼は戦法を変えてきた。

「スーザンもなぁ……お前にしとけばよかったんだ。……少なくとも、お前と付き合ってる間は、成績が良かったたのに」

椅子へと大きく反り返えりながら、チャーリーとの距離を計っている。

「僕のことで認めてくれるのは、成績だけ?」

じとりとチャーリーが睨むと、ネイサンは椅子から立ち上がる。

「他に、何を認めろって言うんだ? 騒ぎを大きくする才能? ダーティービジネスに対するセンス? やたらと人の悩みに首を突っ込みたがる鬱陶しさか?」

ネイサンは、校長を辞めてから、チャーリーに対して、あまり気を使わなくなった。土産に買ってきた飴を娘がいらないと言えば、じゃぁと、チャーリーの口に突っ込んでいってみたり。

「この間のスーザンのレポートが悪かったのは、資料が手に入らなかったからだけだ」

そのせいで、チャーリーは、よほど、ネイサンに親しみを感じるようになっていた。今も、ネイサンはチャーリーの隣に椅子を引き寄せ、ぴたりと隣に座ると、目の中を覗き込んでくる。

「つまり、チャーリー・バートレット先生が、ついてなかったからってことだろう?」

懐柔が、ネイサンの選んだ方法だ。気持ちを擽ろうと優しく笑う目の大きさは、ちょっとドキリとする。だが、優しく笑うネイサンは、実のところ娘以外どうでもいい。

「振られたのは、僕だ」

そうなのか?と、確かめてくる目は、大きすぎて恐いくらいだが、口元が娘の優位を喜んでぴくぴくと震えている。これほど、娘を愛せる父親に、呆れるのだが、チャーリーは、ネイサンにまっすぐに見つめられると、落ち着かない気分も味わう。

「決して、お前を認めるってわけじゃないが、チャーリー・バートレットは、頭がよく、なかなか愉快で、頼もしい男だってのに、スーザンも勿体ない」

ネイサンは、チャーリーの肩を引き寄せ、励ますように身体を寄せる。べたべたと触ってくるようになったのも、ネイサンが校長を辞してからの特徴だ。多分、彼は、もう一人、子供が欲しい。

だが、こうやってネイサンに至近距離まで近づかれると、チャーリーは、チャーリー・バートレットの相談ファイルに分類するなら、できれば、青春時の気の迷いへと突っ込んでおきたい気持ちに悩まされることに最近気付いた。けれども未来のDr.チャーリー・バイオレットは、それが分類ミスだということにも薄々気付いている。スーザンに振られておいてよかった。

「それに、ハンサムだしも、付け足しておいて」

「スーザンが新しくつき合い出したのは、フットボール部の、あいつ、……だろ?」

本当に、ネイサンは、娘に関心を持ち過ぎだ。殆ど確信を持って、ネイサンはチャーリーの瞳を覗き込む。

スーザンは、交際中チャーリーが散々この父親から、嫌がらせを受けたことを知っているから、芸術的な感性の合う現在の恋人のことを、なんとか、隠し守ろうとしている。チャーリーも童貞をささげさせてくれた女神の手助けをすることに異存はない。

「僕に足りないのは、たくましさだって言いたいわけ……?」

もう黙らせておきたくて、ネイサンの口の中に、剥いてもらったリンゴを、突っ込んだ。

顔を顰めながら、しゃりしゃりとリンゴを噛んでいく口元が、たまらなくかわいく見えたのは、事故のようなものだ。

 

思わず両手で挟み込んだネイサンの顔は、朝、顔を洗う時に触る硬い自分の肌とも、つるりとして弾むようだったスーザンの肌とも違う、張りを失いつつある、拒むことをしない柔らかさだった。

長い睫毛に縁どられた目は、驚きに大きく見開かれ、思わずそちらに気を惹かれそうになるが、チャーリーは考える間もなく薄い色をした唇に吸いついていった。油断したまま、態勢を整える暇もなかったネイサンの唇は、粒のそろった下顎の歯を見せて軽く開いている。唇が合わさると、びくりとネイサンの身体に力が入った。驚きのあまり肺の中から押し出されたリンゴの匂いのする空気が、チャーリーの口の中へと吐きだされる。チャーリーは、その甘さごと、ネイサンの唇を強く吸った。

強く唇を押しつけて、だが、それでは、ただネイサンには、無理矢理唇を密着させられているだけにすぎないことになると気付けば、チャーリーは、すぐに、唇を啄ばむようなキスに変えた。

身体を強張らせたままのネイサンは、キスに応えることはしない。いや、応えるどころか、抵抗するという反応もできないほど、ただ、突然のチャーリーの行動に驚いている。大きな目も閉じることを忘れ去り、腕も足も、酷く力が入っている。

しかし、腕の中の身体は、温かで、しっかりと柔らかだった。

「ネイサン……」

繰り返し口づけるチャーリーは、スーザンと、ネイサンが同じソープの匂いをさせていることに気付いてしまった。

そして、不幸なことに、汗の匂いを混ぜたそれは、チャーリーの下半身を直撃した。

ずきんと、股間が熱く燃え、むくむくと大きくなっていく。そこは、大人しくなる気配をみせなかった。無理矢理抱きとめているネイサンの腿に、チャーリーの股間は当たっていて、そこから感じる体温に、さらにジーンズの中の若いペニスは育ってしまう。さすがにこれには、困惑のあまり、チャーリーもキスをやめて、助けを求めるようにネイサンをみつめた。

唇が離れて、ネイサンは、やっとフリーズの魔法から解放されたかのように、瞬きしたが、まだ、チャーリーの唾液で濡れた唇は、言葉を押し出すこともできずにいた。

ネイサンもじっとチャーリーを見詰めたまま立ちすくみ、二人はしばらく無言だった。だが、腿に押し当てられた熱いものの違和感に、ネイサンは気付いた。

「……おい……?」

怖々と、チャーリーの股間へと視線を向けたネイサンは、ひっと、悲鳴を上げチャーリーを見つめた。慌ててチャーリーを押しやったネイサンは、激しく肩で息を吐く。

「お前っ、何を勃たせてるんだっ! 俺を犯罪者にするつもりなのか!」

顔を引きつらせネイサンは、チャーリーを押し、下半身を殊更遠ざけようとする。

「しょうがないじゃん。ネイサンいい匂いなんだ。勃つよ!」

「17なんだぞ! そんなの勃たせたお前といたら、俺は即犯罪者だ!」

キスのショックは、チャーリーの股間が勃起したことで、ネイサンの中からすっぽり抜け落ちたようだ。教職者として、最悪の悪夢に遭遇したネイサンは、よたよたと起き上がって逃げようとする。チャーリーは追いすがり、腕を掴んだ。

「誕生日まで、後、2週間だよ!」

「その、2週間が、どれほど恐いか知らないだろう! 俺は、また失職する! それどころか、逮捕なんだぞ!」

怯えきったネイサンは、とうとうチャーリーを足蹴にしようとしていて、その必死さは、チャーリーにも感染した。

「じゃぁ、ネイサンに触ったりしない! ただ、見てるだけでいい。ネイサンのこと見ながら、これの始末をつけるから!」

「はっ!?」

ごそごそと前を開けるチャーリーに、ネイサンの顔が引き攣る。

「何をっ!」

「だって、もう我慢できないし、ネイサンに何かしたら、犯罪者にさせちゃうし」

「切羽詰まった顔して、そんなこと言うな! しまえ! ああ、もう、くそっ、バスルームに行け! なんでこんな」

ネイサンが喚いている間にも、完勃ちのチャーリーのものは取りだされてしまった。情けないほどに必死の顔をした子供が、ネイサンを見つめながら、手を動かし、はぁはぁと息を荒くする。唇を噛むチャーリーは、濡れた目でネイサンを縋るように見つめた。

「すぐ、いっちゃうから」

若い手の中に包み込まれているものは、清潔な色をしているくせに、ぬるぬると濡れて大きい。

「すぐ、いくな!」

「だって、我慢できない」

泣きそうな目で見つめられて、ネイサンは、舌打ちした。

「違う。出すなって言ってるわけじゃない。するなって言ってるんだ!」

「だって、もう、出そう……!」

「お前……っ、こうやって、俺の娘にも!」

「違うって、スーザンにこんなことしたことない。そりゃぁ、あなたがもう知ってる通り、させてもらったことはあるけど、絶対に、こんな目には合わせてない……!それは、誓うから、 っ、あ、もう」

ぐっと身体を折ったチャーリーの手の動きが激しくなって、荒い息を聞きながら、ネイサンは壁に頭を打ちつけたい気分だった。

「くそっ! なんだって、こんな!」

「ごめんっ! ごめん、ネイサンっ!」

ひときわ大きくチャーリーが叫び、その声にびっくりして思わずチャーリーを見たネイサンの顔には、びたりとかかるものがあった。どろりと頬を垂れていくそれの感触に茫然自失となりながら、指先で触る。

生温かい。チャーリーは、股間を握りしめ、床にうずくまるようにして、大きく何度も息を繰り返している。

「そうだった。……若い時は、結構な距離、飛ぶんだった……」

濡れた指先を見ながら、思わず、ネイサンがつぶやいた。

いきなりチャーリーが飛びつく勢いで近づいてきた。前がまだ、開いたままで、だらりと垂れ下がるそれにネイサンが後ろへと引きかけているというのに、自分のシャツを脱いで、必死の顔でネイサンの頬を拭う。

「ごめん。ごめんなさい。こんなことするつもりは!」

「……そうだろうとも。もしこれが狙ってやってたって言うんだったら、俺は犯罪者になったとしても、お前を撃つぞ……」

 

 

「好きなんです」

10回、顔を洗って、ネイサンはプールサイドで、リモコンのボートを操縦していた。外はいい天気で、太陽の光を反射させる水面をボートがモーター音をさせながら、軽快に波を立てて走る。

だが、サングラスの下のネイサンの目は暗欝だ。

「何もかも、お前が、18になってから、考える。今日は、もう一切、何もしゃべるな」

息を飲んだチャーリーは、しかし、おずおずと口を開く。

「じゃぁ、ネイサンの困惑している今の気持ちについて話を聞かせて。もしかしたら、僕や役に立てるかも」

「坊や、プールの中に突っ込まれたいか?」

 

沈黙はネイサンが思っていたよりも長く続いた。

それでも、

「……手を握ってもいい?」

醜態を晒したばかりの少年は、酷い態度で顔を洗われても、きちんと告白までした。そして、拒絶の後にも、真摯な態度で、手を握りたいと懇願している。

それでまだ拒絶したとして、その時のチャーリーが受けるショックを想像すると、ネイサンは耐えきれなかった。

甘いと思いつつ、腕を伸ばし、チャーリーの手を握る。

「ネイサンっ」

きゅっと握り返された手が、ひどく汗ばんでいて、少しだけネイサンの気持ちは晴れる。

 

「あのさ、……誕生日がすんだら、せめて、僕の気持ちを聞くだけでも……」

「誕生日プレゼントはやる。今は、とにかく、もう、しゃべるな」

右手をつないでいるせいで、リモコンが操縦できなくて、ボートはプールの縁にぶつかった。

「……」

今、手をつなぐ相手は、あのチャーリー・バートレットだ。

ネイサンは、思わず、自分の未来について、少し憂鬱な想像をしてしまった。

 

END