リトル・ラビット2

 

ホームズ宛ての電報を片手に、ドアを開けたワトスンは、怪訝に中を見まわした。

雑然としているのは、いつものことだ。

部屋の主がすぐ見つからないのも、最近では普通のことになりつつある。なんといっても、最近のホームズは小さなコウサギだ。

「ホームズ……?」

知的な冒険の旅を邪魔されて、茶色の目が機嫌悪くワトスンを見返さず、(しかし、ウサギにああやって見られるのも、むかつくものだが)医者は僅かに落ち着かなかった。

「おい、ホームズ!」

困ったことに、ものの散らかるこの部屋では、ちいさなウサギなど、埋もれてしまっていてもわからない。静かだと思っていたら、生き埋めという可能性もないわけではない。自然、医者の声は大きくなる。

「ホームズ、返事をしろ!」

「ワトスン君。そんな大声を出さなくても……」

投げ出されたままの膝掛けの下でもぞもぞと動くものがあり、ワトスンがほっとする間もなく、眠る前のコウサギが築いたらしい本の山が、引っ張られた膝掛けに、ぐらりと揺れた。まだあくび中のコウサギは、呑気なものだが、コウサギのサイズを考えれば、本の直撃は恐ろしい結果を招く。

「ホームズ!」

顔を引きつらせ、ワトスンは、椅子を蹴飛ばし、床に転がる実験器具を飛び越し、ホームズの元へと駆け寄った。

だが、伏せた本のページの間で、腹を晒したまま、コウサギはさも面白げに、焦る友人の顔を見上げている。ウィンクまでした。

「ワトスン、君は実に友人思いだ」

 

そして、散らかすばかりの探偵をこっぴどく叱った後、ぶつくさと文句をいいながら、部屋の片づけをした医者が探偵へと渡した電報といえば、レストレード警部からの強盗犯逮捕への協力要請だった。

どんな強盗かといえば、

「君が強盗を上手くやれないわけを教えてやろう」

馬鹿にしきった顔で、コウサギが演説をぶつ。コウサギにあれをされる時の腹のむかつきについては、ワトスンはいやというほど知っている。短い足で、気触りにも、銀行のロビーをくるくると歩きまわる探偵は、警官たちに取り囲まれた強盗相手に、冷たく目を細めている。

「覆面に、指紋を残さぬための手袋。声さえも、覚えられてはまずいと口さえ開かぬ君のその手口、繊細かつ周到で、実にずばらしい。逃走経路も実に計算し尽くされ事前の調査も怠らず、もし、僕でなければ、次の狙いがここであることもわからなかったはずだ。だが、ここでも、君は、きっと強盗に失敗しただろう。なぜなら!」

強盗に走り寄ったコウサギは、彼が手に持っていた紙切れを、すばやく取り上げると、皆に晒して見せた。

無鉄砲なコウサギの行動に、わっと、ざわめきが広がる。

コウサギは、ぴくぴくと楽しげに鼻を動かし、精一杯、紙を皆に示している。

だが、小さな紙切れのこと、中身は読み取りがたい。

コウサギは、もっともらしく、口を開いた。それは、たしかに、コウサギを守ろうと出来るだけ二人への接近を果たしていたワトスンには納得できることだったが。

「よく聞きたまえ、今後の参考になるだろう。君は、字が汚い! それも破滅的に汚い! 見たまえ、これでは、脅された相手も、解読不可能で金かコーヒーか君が何を求めているのかさっぱりわからない! まごつくうちに、時間ばかりが経過し、君は逃走を余儀なくされる。……君、君は、銀行を襲う前に、まず、美しい字を書くことを練習すべきだ!」

と、まぁ、間の抜けたところのある犯人ではあったのだが。それを指摘するコウサギは、ふんぞり返った態度であり。やはり、コウサギごときにこの態度を取られては、さすがに頭にきすぎたのだろう。男が隠し持っていた銃が火を噴いた。コウサギは尻尾を丸めて逃走中だ。それみたことかと、ワトスンも銃を片手に応戦したが、字が汚い事以外、この男は、ホームズが認めるほど強盗として合格点の男だった。突然の発砲にどよめく客たちの中へと飛び込むと、行きがけの駄賃とばかりに、御婦人が指にはめていた指輪を盗んだ。

しかし、飛び跳ねていったコウサギが、素早くそれを奪い取る。

「ホームズ!」

「待て、こいつ!!!」

男は銃を乱射したが、コウサギは辛くも避けた。

球切れを起こした銃を男は投げ捨て、コウサギの後を追う。

 

逃げるコウサギを追う強盗は、背後から追い上げてくるワトスンたちを気にしつつも、せめてもの戦利品である指輪を奪おうと、ちょこまかと飛び跳ねるコウサギを追っていた。

ウサギは、いくつもの角を曲がり、どんどんと怪しげな界隈に近づいて行く。

そっちは、男のテリトリーだった。

勝手知ったる薄暗い裏道に、男は、ますます、速度を上げコウサギを追っていく。

 

そして、とうとう袋小路に追い詰められたコウサギは、側にあった梯子をぴょんぴょんと昇りあがっていった。

すばしこいコウサギに、その後を追う強盗は、息を切らせながら、梯子を昇る。

やっとその頃には、ワトスンも二人に追いついたのだが、あと、もう強盗にコウサギが捕まるという場面で、僅かに開いた窓の中へと、辛くもホームズは逃げ込んだ。だが、強盗も、そのままではすませなかった。ちょろりと窓からのぞくウサギの尻尾をしっかり掴んだのだ。

やっと追い付いてきた警官たちが、どよめきを上げる。

「ホームズさんが!」

「みんな、下がるんだ! ホームズさんの命が危ない!」

強盗は、ウサギの尻尾を掴んだまま、勝ち誇ったように言う。

「おい、お前たち、それ以上、近づいてみろ。このウサギの命は……!」

「おい、君、そのウサギの尻尾を離すんじゃないぞ!」

その時、場を弁えぬほど、大きく叫んだ声があった。ざわめきの中、眉間に皺を寄せたワトスンが、いきなり強盗が足を掛ける梯子を掴む。

「おいっ! お前、ウサギがどうなるかわかってるのか!」

「……この梯子は、ちょっと別のことに使いたいと、このコウサギが言うんだ」

ワトスンの足元には、コウサギがいる。さっき、声をかけたのもこのコウサギだ。

コウサギは、窓に飛びこむなり、下まで駆け下りてきたのだ。いきなり梯子を外され、悲鳴を上げて落ちていく強盗がしっかり掴むのは、最古の職業につく御婦人の、ウサギの尻尾がついた特殊な職業コスチュームだ。

次々と警官に圧し掛かられ、取り押さえられる強盗の上には、しまいにウサギまで飛び乗る。

「悪かったね。君、あの梯子は、これから、手すりのペンキを塗るのに使うんだよ」

 

確かに、事件は解決した。

しかし、コウサギの無鉄砲は、相棒の医者を不機嫌にした。

なかなかユーモアあふれる逮捕劇だったと、今日を楽しんでいたコウサギは、むっつりと新聞を読んでいる医者を前に、居心地が悪い。

「ええっと、……ワトスン君」

にじにじとワトスンに近づいたコウサギは、医者にじろりと睨まれた。

だが、負けず、コウサギはいきなりワトスンの上着を駆けのぼり、そして、勢い余って唇へと真正面から激突した。

「痛っ! ……ホームズ、君は、一体!?」

コウサギも、口を押えて、涙目になってはいるが、

「いや、前々から、君の協力には、感謝の意を表しなければならないと思っていたんだ。だが……。その、男の僕に感謝のキスされるなんて、君は嫌だろうから、……ウサギならいいかと……」

その考えは、ワトスンを茫然とさせた。

「ウサギなら、いいって、君、それでも、せめて頬だろう……!」

コウサギはぎこちなく目をそらす。

「……いや、それは、……ちょっと目測を誤ったようだ。悪かった……ワトスン君」

 

だが、ホームズの感謝は、ともかく、重い沈黙で、探偵を拒んでいた医者に口を開かせた。まぁ、耳を掴みあげられ、ぶらんと吊るされてはいるが。それは、まるで、明日の新聞に名の載る探偵にふさわしい取り扱いとは言い難かったが。

「ワトスン! 耳は反則だ! 離せ!」

元来、面倒見のいい性格の医者は、赤くなっているコウサギの口に軟膏を塗りつけている。

「何が反則だ。いつまで君は、コウサギのままでいるつもりなんだ。そもそもそれが、反則だ!」

 

 

END