リトル・ラビット
眠る前のコウサギは、やたらと興奮状態にあった。
身体を包み込む、濃茶でふわふわの毛皮をさらにむくむくと膨れさせ、部屋の中を落ち着きなく、ぴょんぴょんと動きまわる。
「ワトスン君、今日のレストレード警部の顔を見たかい!」
「……ホームズ」
コウサギがあまりにうろちょろするせいで、ワトスンは、自分の座る椅子の位置さえ直せないでいた。小さすぎるコウサギは、うっかりすると、ワトスンの足の下敷きになる恐れがある。
「だって、君、あの警部の驚いた顔! 君はあれを見なかったのか?」
こんな興奮状態にある濃茶コウサギは、恐ろしいことに、つい先日まで、幾つもの難事件を解決したことのあるロンドン1頭脳明晰な探偵だった。いや、勿論、今も、探偵だが、魔術に関係のある、ある事件を解決しようと挑むうちに、人間の姿から、コウサギへと変えられてしまったのだ。
だが、頭脳さえ無事なら、姿はどうであれ本人はほとんど気にしていないようだ。しかし、ワトスンは、黒目がちの大きな目をしている茶色のコウサギと、真面目に会話している自分が時々嫌になる。
「今晩は、パーフェクトだった!」
ちなみに、コウサギがこんなに興奮している理由は、ずいぶん手こずらされた事件の顛末を語って聞かせた、今晩のレストレードの驚き顔に対してのものではない。
探偵にとって、謎が謎でなくなった時から、事件はもはや過去のものとなり、そのからくりを語ることは、職業上ついて回る、わずらわしさの一つにすぎない。
コウサギが、事件にかかわった面々が、沈痛な面持ちのまま揃ったゼビーアン家の居間に入った時だ。
名探偵の登場を待ち構えていたレストレード警部がドアを開けると、ワトスン医師が一人、立っていた。
「ワトスン先生、ホームズさんは……?」
いぶかしむレストレード警部の前に、コウサギは姿を現した。しかし、それは、サーカスの手品よろしくワトスンの帽子の中からだ。
「やぁ、レストレード警部、いい晩だ」
驚きのあまりあんぐりと口を開けたレストレード警部の顔がコウサギはいたく気に入ったらしい。
それは、馬車からの道のりを、ワトスンの歩調ではついていくことなど物理的に不可能だとゴネ続けたコウサギとの攻防の末、ワトスンの髪を掴んで離さなかったコウサギが、とうとうドアの前までずっとその状態で頑張ったため起こってしまった事故だったが、ホームズ的には、今日なによりもハートを高ぶらせた出来事だったようだ。
2名の美しい御婦人と、たくさんの男たちを前に、頭にウサギを乗せたまま挨拶をしなければならなかったワトスン的には、最悪の出来事だったが。
レストレード警部は、何度も、コウサギと、ワトスンの顔の間で視線をさまよわせていて、どれほどワトスンがいたたまれなかったことか!
こほんと、咳払いをして、ワトスンは、嫌な記憶ばかりの話題を変えようと、気になっていたことを口にした。色々問題はあるが、ゼビーアン家の事件を鮮やかに解決してみせたホームズは、さすが英国の誇る名探偵に違いないのだ。
「ホームズ、あの女性……」
「しっ、ワトスン君。必要な事柄は、時が来れば明かされる。それがなされないということは、今、必要ではないということなんだ」
コウサギに、たしなめ顔をされる医者というものもどうなのだと、ワトスンは、思うのだ。
「レストレード警部、ごきげんよう」
コウサギは、優雅に礼をした。しかし、そこがどこかと言えば、ワトスン医師の頭の上だ。前回の成功に気を良くしたホームズは、ワトスンの帽子の中に隠れていて、事件現場に到着したことに気づくと颯爽と帽子の中から登場し、ユーモアを振りまいた。しかし、この登場の仕方も、2度目ともなれば、レストレード警部だって驚いてはくれない。
目の前に死体があればなおさらだ。
「ホームズさん、御足労をかけます。それで、事件のことなんですが」
レストレード警部は、背の高いワトスンの頭上のコウサギに向かって見上げるように話しかける。
登場を完璧にするために、馬車の中からワトスンの帽子の中に隠れていた熱意のコウサギは、汗でふわふわの毛皮が湿るほどだ。
だが、
「少しばかり妙なのです。ワトスン先生にも見ていただきたいのですが、首元に痣のようなおかしな跡がありまして、こちらです」
人のてのひらサイズであるコウサギの身体のことを考えれば、ワトスンの帽子を懸命に持ち上げ、最高の登場を決めたつもりのコウサギのスルーはかわいそうだが、コウサギが頭に乗っているというのに、検視しろと言われるワトスンも、ずいぶん迷惑だ。
「……もういいか、ホームズ?」
「ワトスン君、……僕は、間違っていたのだろうか。レストレード警部は、なぜ……」
澄んだ鋭い瞳もしばし曇り、かたく結んだ唇はかすかにふるえていた。
偉大な頭脳は、事件の全容を知るよりも前に、立ちすくんだかのようにみえた。
後日、この時のコウサギの様子を、ジョン・H・ワトスン医師は、その著書に、このように記した。
END