メモ
往診帰りの疲れた足で、黄色くガスで煙る石畳の街を歩き、見慣れたドアを開けて下宿の中へ足を進めれば、温かみのある空間がジョン・H・ワトスンを迎え入れる。濡れたという程ではないコートの肩を払うワトスンが、光が差し込む踊り場の窓を見上げる格好で、二階に並ぶ二つのドアにまず目をやるのは、ここ何日かの習慣のようなものだった。
ワトスンが親友だと信じる、ロンドン一頭脳明晰な探偵のホームズという男には、奇矯な癖が幾つもあり、その全てを絶対に改めようとはしない彼は、元々気が向かない限り、滅多にドアから出ようとはしない男だったが、近頃は、それがひどくなっている。散歩に全く出なくなった。気味悪い霊感の仕業ではないのかと思う程、必ず邪魔してきた女性患者の診察にも表れない。ハドスン夫人が骨折って煮込んだシチューの皿をトレーに、ノックしてもドアは開かれない。
彼の顔を見ないまま過ぎた半月という日数は、名探偵の名を欲しいままにしているホームズに比べれば、元軍医という平凡な経歴しかもたないワトスンが、愛し、時に心から欲する、秩序と平安に満ちた生活を彼に与えたが、同時に、ワトスンの冒険心が、怠惰に鬱屈するのに十分な時間だった。
午後出かけた時と変わりなく閉まったままのホームズのドアを眺め、それから、自分の部屋のドアに目をやったワトスンは、青い目を眇めた。やれやれと少し肩を窄めてはいるが、ワトスンの口元にはかすかな笑みが浮かぶ。度重なるホームズの化学実験による被害のせいか、小さなきしみを上げるようになった階段に足をかけ、ワトスンは少し足早に階段を上った。自室のドアは、どれだけしつこい借金取りであっても、ここまではできないだろとうと思われる無数のメモで覆われている。
『明日の天気は、曇り』
一番上のメモはこれだ。
産業発展を遂げるロンドンは、石炭スモッグのせいでほとんど毎日が曇りだ。そんなことはわかっていると、馬鹿にされたような気分でワトスンは一番上に貼られた白い紙をめくり、床へと捨てた。
『血痕判定に係る注意点として以下の……』
『サウンドポスト、音叉、スピリット』
だが、他にもメモは、びっしりと貼られているが、友人の頭脳が不調であることを表し、意味を為すものは一枚もない。
「リンフラント卿の隠し子は、Jle……か、これは最後まで書いて欲しかったな」
どのメモも、最初の数ワードは、理性のジャケットを着込んだ実に攻撃的なホームズの知性らしい、神経質なアルファベッドが並んだが、そのあとは、悪筆の医者のカルテより酷くなり読めない。いや、そもそも最後まで文章は完結しない。
「レディ、3回、もしくは4回? これは、俺の知り合いのどこかの御令嬢が繰り返した離婚の数か?」
ワトスンは、まるで意味のない化学記号数枚と一緒に、暗号のようなそれを、剥がし捨てた。
ドアの表面を覆うメモを眺めながらめくるワトスンの青い目が見つけた買い物のための言伝のためのメモですら、ペンを動かしている間に気力が尽き果てたのか、バーボン2本、インク一瓶、マググネシュウム5ミリグラム、銅線2……書きかけのまま用を足していなかった。
「……ホームズ」
あきらめにも似たため息を吐き出しながら、ワトスンはそれもめくり、捨てた。
どのメモも、いまだ友人が精神的な不調の中にいることを伝える。
だが、ワトスン医師は、全てのメモを乱暴に剥がし、部屋へと持ってはいると、そのまま暖炉の囲いの中へと投げ捨て、焚きつけを得た暖炉に火をくべながら、今、閉めたドアをちらりと振り返り、口元を僅かに緩めた。
「そろそろ復活か」
「おはよう、ホームズ」
「……」
早朝、多くの勤め人と同じように身支度を整えるワトスンの部屋のドアを開けて入ってきたのは、もう何日着ているのか、実はそれがワトスンのタンスから持ち出されたものだという事実から目を背けたくなるような襟元の垢じみまでできた皺くちゃのシャツを着て、上へとガウンを羽織ったホームズだった。
ホームズは、二週間ぶりの出現にも眉ひとつ上げようともせず、鏡に向かったまま、ボタンを留める手を止めないワトスンに満足いかない様子だ。
「君は、ユーモアのかけらもない男だな。それが何日も顔を見なかった友人に対する挨拶か? 全くありふれている」
期待はずれへと盛大に顔を顰めるホームズに、ワトスンは、表情も変えず襟元までボタンを留めると、友人へと近づいた。
いきなり目の前まで足を進めたワトスンに驚き、一歩身を引こうとした友人の顎を指先で掴んで持ち上げ、口の側で匂いを嗅ぐ。
「少し痩せたな。顔色も悪い。酒じゃなく、君はスープを飲むべきだ」
じろじろと顔を見つめるワトスンに、気分を害したようにホームズは顎を引こうとしたが、ワトスンは、ついでとばかりに友人の瞼に指をかけ、ひっくり返した。水晶体に濁りはない。だが、とにかくひどい充血だ。
「……どれだけ寝てない? いや、スープよりも、まず、君には睡眠が必要だな。せっかく会えたばかりで残念だが、君は自室へ帰って、ベッドにもぐりこむべきだ。昼過ぎにもう一度会おう。おやすみ、ホームズ、これが医者としての僕の助言兼、挨拶だ」
手早く診察を終えたワトスンは、軽く口元だけを動かし笑みに似たものを口元に浮かべると、まじまじとホームズと視線を合わせた。
ホームズは顎に皺が寄るほど、憮然と唇を結んでいる。そして、一拍の後、まだ顎に掛けられたままのワトスンの手を払った。天才の頭の中に浮かんだはずの数百ワードの罵詈雑言は、その朝、披露されなかった。代わりに、ホームズは、部屋の中をくるりと、見回した。
「僕が書いたメモは?」
ワトスンは、顎をしゃくって、暖炉を指し示した。
「おかげで火の付きがよかった」
茶色の目が暖炉の灰を眺め、悔しそうにするのに眺めながら、ワトスンは、ゆっくりと窓の外に目をやった。
「確かに、今日は曇りだな」
昨日ホームズが予言してみせた通り、ロンドンの空は相変わらずガスに煙り、太陽が姿を現していない。
窓から目を戻したワトスンは、まるで犬でも追い払うかのように、シッ、シッとホームズをベッドに追いやろうとしたが、ワトスンを見上げるようにしているホームズの目は、急に力を増していた。
「……なるほど、君はメモを読んだんだな。じゃぁ、了承するということだな?」
にやりと力強くホームズの目が輝いた。
「ホームズ、何を言っている……?」
部屋のドアに山と貼られたホームズのメモから、ワトスンは、友人の不調と、同時に、それを書けるまでなったという回復の兆しを読みとっただけだ。
阿呆のように青い目を見開いたまま、カウチへと押し倒される理由など、まるでワトスンは了承していない。これでも、ホームズがボディーガードを必要とする場面では、いくらか信頼に足る豪胆な相棒としての役目を果たすことができると自認しているワトスンだったが、目の前の天才の嫌味なところは、自分の肉体が動きうる最速を正確に認識し、かつ、その最高の状態で肉体を動かすよう脳が指示できる点だった。
胸を突かれ、呻く間もなく、バランスを崩した足を掬われたと気付いた時には、もうワトスンの身体はカウチの上で弾んでいた。
昨日までは、自室のドアから出るのがやっとだった男が、ワトスンを見下ろす。
「どういうつもりなんだ、ホームズ?」
ワトスンは憤慨し、乱れたジャケットの裾を引っ張った。
この男と付き合っている限り、ワトスンは腹を立てずに過ごすことなどできない。
「一月分の部屋代を僕が引き受ける代わりに、君に頼みごとをメモしておいた。読んだだろう?」
手入れを怠った乱れたダークヘアが、自嘲するように苦く笑ってワトスンの足元に膝をついた。そしてワトスンのベルトに手をかける。それは、まるで天秤の目盛を量るのにも似た手つきだった。
ワトスンは居心地の悪さを味わった。
「僕は知らない」
本当に?とホームズは眉を上げた。そして、ワトスンの表情を子細気に眺める顔に曖昧な笑みを浮かべる。
「ホームズ!」
ワトスンが声を荒げても、ホームズの手は止まらない。
だが、自分の足の床に膝をつくホームズのダークヘアを見下ろしているワトスンは、ホームズがなぜ、こんな行為をしたがるのかを理解していた。
ワトスンは、決して友人のように頭のきれるわけではなかったが、それでも、ワトスンが女性と知り合いとなれば、本来なら秘密にしておくのが紳士の嗜みというものだと言える意地の悪すぎる指摘を得意げにする場に立たされ、その上、幾度か友人とこんな行為を行う破目ともなれば、馬鹿ではないのだ、ホームズの気持ちくらい理解できる。
シャーロック・ホームズは、一介の医者にしか過ぎないジョン・H・ワトスンを欲しているのだ。しかも、それはただの友情ではない。
心臓の右端あたりをぞくりとさせる色合いで瞳の奥を輝かせながら、慎重に友人の前立てをかきわけ、ワトスンのペニスを掴みだすホームズは、肉欲含みで、ワトスンを欲していた。
すでに開いてしまっている口は、迎え入れるようにワトスンのものへと近づき、吸いついてきていた。
濡れた口内の粘膜は、蕩けるような感触だ。
「ホームズ……!」
口淫を強引に開始しようとしたホームズを叱りつけるように名を呼べば、肩が小さくすぼめられた。しかし、器用にくねる熱い舌は、男の性器を膨張させようと、貪欲な動きをやめようとしない。紛れもない天才が、かすかに甘く鼻を鳴らして、ぎこちないフェラチオを披露している。
口内の薄い粘膜と舌で粘液を滑らせ、それと同時に、捧げ持つようにして握るワトスンのペニスを撫でさするようにして扱いている。
ワトスンの手は、熱心に吸いつくホームズの髪を止めようとするかのように忌々しげにきつく掴んでいた。
だが、ホームズは痛みなどないかのように振る舞う。
ワトスンも、ホームズが自分を欲していることは、理解しているのだ。
だが、この医者は、それを受け入れる気はない。
この下品な行為のために床に膝をつく頭脳は、常人とは目の前の現実を軽々と離れ、違う次元から物事を見つめることができるのだ。ワトスンが一月経って初めて、ようやく理解できる事柄を、ホームズはあくびをしながら、つまらないと断じる。
そのシャーロック・ホームズがようよう会話の内容を理解できる程度のただの医者を、愛している?
今世紀最大の知性が、つまらない男の愛を得たがっている?
しかし、ワトスンが胸に抱く友情は、ホームズを侮辱することを許さないのだ。
第一、これは、法律が許さない行為だ。
開いた足の間に跪くホームズは、懸命に舌を使っている。
俗悪なものをしゃぶる唇は濡れて、顎すら汚している。だが、うっとりしたようなその顔が、不意に階下のかすかな音に気付いて緊張した。
「階段を上がってくる音が聞こえたんだろう、ホームズ? ハドスン夫人が僕のために朝食を運んでくれている。さて、君は、か弱い御婦人であるハドスン夫人にこんな冒涜的な場面を見せつけて、彼女を失神させるつもりなのか?」
目の上を覆っていた掌をちらりと上げ、ワトスンはホームズを見下ろした。男のものを口に含んだ目もあてられないいやらしい姿のまま、全身を耳にした天才は、濃い茶色の目を硬質に動かし、今、彼女が何段目を上がるのかを正確に推測する。そうする顔は、小憎らしいほど、冷静だ。
「君が勝手に始めたことだ。僕にはどちらでもいいことだが、途中で投げ出すなんてことは、君は認めないだろう。だとしたら、ホームズ、そんなにのろのろと仕事を進めていて、大丈夫なのか?」
ワトスンの挑発的な発言に、焦りを感じたのか、動きだしたホームズの舌はいままで以上にぎこちなくなった。そもそも、何度かワトスンはホームズとのこの行為を行う破目になっているが、積極的な本人の態度に比べ、肉体的な快楽を追求する技能にホームズが恵まれているようには思えない。
それでも、ペニスを受け入れている器官そのものは、極上だ。
包み込んでくる口内粘膜は温かく湿り、柔らかな舌はそれだけで、いい感触だ。
ハドスン夫人の昇る階段の残りの段数を計算したホームズは、器用に動くくせに、男を喜ばせることの下手な舌を、懸命に使い始めた。
眉間を狭め、知的な顔をゆがめて、口一杯に頬張るホームズの姿は、ワトスンのなかの支配的な部分を人には言い難い気持ちで満足させる。ぬとぬとと絡みついてくる舌だって、気持ちがいい。
しかし、致命的に、ホームズという男は、フェラチオが苦手だった。
ワトスンの協力を得ないことには、このままハドスン夫人を迎え入れることになるのは、ワトスンにすら簡単に予測できることで、みじめなほどぎこちなくなっていたホームズの動きもしばらくすれば止まった。
潤んだ瞳がびくびくとしながらも、ワトスンにせがむ。
「君が好きなように僕の口を使うというのはどうだ……?」
妥協という道を選んだ探偵の唾液とそれ以外のものでも濡れた唇はいやらしく光り、唾液でたっぷりと濡れたものも、そのすぐそばにある。
口腔から外れたそれを、深々と咥え直させ、根本を強く締めているように言いつけ、自由にそこを使うのは、ホームズの柔らかな舌の感触を思えば、悪くない考えに思えた。
女性らしい上品さの持ち主であるハドスン夫人は、ゆっくりと階段を昇っている。
「それは、使ってくださいというお願いにしか、僕には聞こえないんだが、ホームズ?」
心の中で、残りの段数をカウントしながら、カウチに掛けるワトスンは、床へと跪くホームズを見下ろした。
「……お願い……だ。これは、僕が君に頼んでいるんだ」
階段を昇る足音は途切れない。
「では、仕方がないな」
「口を開けて、そうだ。しっかり咥えているんだ」
まるで診察する時のように、決して力を込めずにふれた手で、ホームズの唇を開け、頬に触れると、できるだけきつく根本を締めるようしっかり口を閉じさせた。従順に閉じたばかりの口から、ずるりと引き抜けば、唾液にびっしょりと濡れたペニスがひどくいやらしいものに見える。
傘の寸前まで引き抜いておいて、ワトスンはズンっと深くへと突き込んだ。途端に、ホームズの目は、涙の水膜でおおわれる。
それでも、健気に口を窄め、吸いつく舌は、小刻みに震えていた。
喉の奥を使われることに慣れていないホームズは、苦しさから、無意識に喉筒を締めつける。きゅ、きゅっと繰り返される、生理的で断続的な締めつけは、ホームズの目が濡れれば、濡れるほどワトスンの腰に甘い痺れを与えた。
しかも、往復を繰り返す最中にも、苦しさに震える舌でホームズは、懸命にワトスンへの奉仕を試みている。
「ホームズ、……いつも、こんなに早いわけじゃないからな」
ハドスン夫人はもう2階に達していた。
懸命に動く舌の中から、膨れ上がったペニスを勢いよく引き抜いたワトスンは、ホームズが口を閉じることもかなわぬ間に、その顔にむかって射精した。
途端に、ドアがハドスン夫人の手により、遠慮がちにノックされる。
「ワトスン先生、朝食をお持ちしましたよ。入ってもよろしいかしら?」
ワトスンのペニスから発射された大半の精液は、だらしなく開いたままだった口の中へと注がれたものの、飛沫というには多い量の液体が、ホームズの顔を汚していた。特に、肉厚の唇は、とぷりと白く濡れている。
だが、それを拭う間も与えず、ワトスンはホームズの頭へと手をかけ、押しつけると、床へと伏せさせた。
ドアの外からは、ハドスン夫人の人柄を表すような、最初よりも、慎ましい音を立てる二度目のノックだ。
ワトスンは、背中を蹴るような勢いで、友人をカウチの下へと押し込こみ、そして手近の毛布を掴んで乱れた腰の辺りよりも少し上から広げ、3度目のノックがされるより前に、どうぞと声をかける。
「すみません。ちょっとと思って腰掛けたら、どうも二度寝をしてしまったようで」
開いたドアに向かって、小さく欠伸をし、慌ててその口元を隠し、失礼と軽く頭を下げた。
ゆっくりと部屋の中へとはいってきたハドスン夫人が運ぶトレーからは、温かないい匂いがした。
「いえいえ、お仕事でお疲れなんでしょうね。スープをお腹に入れたらいいわ」
テーブルへとトレーを置いたハドスン夫人は、労りのある優しい笑みを皺の多い目尻に浮かべて、ワトスンの目が覚めるようにと、コーヒーまでカップに注いでくれた。
夫人は、下宿人のプライバシーを大切にしてくれるすばらしい人だった。が、その日、彼女は立ち去らず、黙ったまま困ったように笑い、身体の前で 節の目立つ細い指を擦り合わせた。ワトスンは口元まで運んでいたコーヒーカップから目をあげた。彼女が心配し瞳を曇らせるのは、カウチの下でうずくまっているはずの名探偵のことのはずだ。
「あいつのことなら、心配御無用に」
「でも、もう、二週間も御姿をみてないの」
「彼が食事のトレーを返さなくてこまっていらっしゃる?」
ふふっと夫人は笑った。そして、そうだったわ、彼専属の御医者様は、いざとなったら、名探偵を引きずり出してくださるほどの腕っ節だったものねと全てを預けると言わんばかりに言われて、ワトスンは面映ゆさに苦笑した。
「これをいただいたら、すぐ出ますので」
「あら、そうなの? お忙しいのね。お邪魔してしまったわね」
だが、急いで部屋を出ようとした夫人をワトスンは呼びとめた。
「ハドスン夫人、今日の昼は、多めに用意しておいてください。そろそろあいつが部屋を出てくるはずだ」
探偵は、部屋を出て、このカウチの下で息を殺している。
「やっぱりワトスン先生は、ホームズさん専属の御医者様ね」
ドアが閉まると同時に、カウチの下から這い出してきた名探偵は、ずいぶん機嫌が悪そうだった。どうやらカウチの下で潜む間にシャツの袖で拭われたらしい口元へと、ワトスンは千切ったパンを近づけた。だが、首が振られ、ホームズは口を開こうとしなかった。
仕方なく、ワトスンは、スプーンにスープを掬うと、いまだ床に座るホームズの口元へと慎重に運んだ。機嫌の悪そうな顔をしながら、しかし、ホームズはしぶしぶスープを啜った。ワトスンは友人の髪から埃を一つつまみ落とす。
「そうだ。君に必要なのは、酒じゃなくて、このスープだ。ホームズ」
「作ったのは、君じゃなく、ハドスン夫人だ」
ホームズはちろりと目を上げる。
「昼を多めに作ってくれ? そろそろあいつが部屋を出てくるはずだ? 君はインチキ預言者にでもなったのか。僕は暴力的な医者の手でこのカウチの下に押し込まれていた」
「そうとも、僕のドアをメモだらけにした君は、部屋を出てきた。このスープで人間らしい食事のありがたみを思い出した君は、きっと昼飯をたっぷり平らげるにきまってる」
ホームズが盛大に顔を歪める。
「スープが熱い。冷ましてから飲ませろ」
「……君って奴は!」
だが、じゃれあうように諍いの言葉を交わしていても、先ほどの出来事がどういう理由で行われたのかについて、ごく短い純粋な言葉で伝えたがっているホームズの目に気づいても、ワトスンはまるで取り合わなかった。
そして、
『君の身体に触れさせてほしい。一月分の部屋代を僕が払う。ホームズ』
その奇妙な頼みごとが書かれたメモを読んだという事実についても、ワトスンは、ホームズに告げなかった。
ワトスンの差し出したスプーンからスープを啜るホームズの喉がごくりと音を立てる。
ワトスンの親友は、こんなみじめな願いを胸に抱くべきではないのだ。
いや、ホームズのような頭脳明晰な男は、無能な医者になど、無垢な心を差し出すべきではない。
法も犯すべきではない。
それは、ワトスンが定めた友情のルールにしっかり書きこまれている。
手のかかる友人は、ワトスンの掬うスプーンで、スープを全て飲み干すと、いきなりカウチに倒れ込み、まるで気を失ったかのように眠りに落ちて行った。
友人の呼吸を調べ、彼が本当に眠ったのを注意深く確かめ、さらに周囲を見回し誰もいないのを確かめると、医者は、その髪にやっと深い口づけをした。
END