キス

 

「やぁ、ワトスン」

今日も、ワトスンのシャツを着て過ごしたらしい探偵が、気軽に部屋を訪れ、ワトスンは、ホームズに気付かれないように、小さくため息を吐き出した。

「おや?」

だが、探偵は、探偵という職業にふさわしいだけ聡い。彼が、ワトスンの行動の意味に気付かない振りをする時は、それは、彼がその事実を受け入れたくない時だけだ。

その時も、ホームズは、大きな濃茶の目を取り囲む深い睫毛をそっと伏せると、一瞬にして気がかりを示す表情を打ち消し、脇机に近づいた。

「これは、僕にだね?」

「まぁね、ホームズ、君が、今日一日、ハドスン夫人を居間へと入れなかったせいで、僕が預かっておいたんだ」

「サンキュー、ミスター・ワトスン」

ホームズは、幾通かの手紙の差し出し人を見、素早く分類しはじめた。

ワトスンは、だから、ホームズが部屋を訪れる前の作業にもどったのだ。つまりは、明日の午前中には郵便で送らなければならない書類のチェックに。

しかし、ワトスンが、書類をめくれば、その手元には、影が差した。ランプの前に立って、ワトスンの手元を暗くするホームズは、手紙を開封し、目を通している。

顔を上げたワトスンは、また、つきそうになっていたため息を飲み込んだ。ホームズの目は、真剣に手紙の文字を追っている。

薄いブルーの封筒だ。送り主は年配の男性のはずだ。始終聞かされる探偵からの蘊蓄に、ワトスンも、この程度の推理はできる。

探偵は、真剣に手紙を読みこんでいるものの、その内容にはうんざりしている。なぜなら、他の封筒を手放そうとしないからだ。

探偵は、読みながら、ワトスンの肘かけへと尻をかけた。

はぁっと、大きくため息を吐き出す。しかし、そのため息を吐き出したいのはワトスンだった。

「ワトスン、僕は僕を探偵だと思っていたんだが、君は、僕を何だと思ってる?」

「君がかい?……そうだね、大事な親友だ」

ワトスンは、自然を装いホームズに笑いかけた。

「ワトスン。おべっかはいい。それよりこの手紙を読むかい? これが、探偵に送られる手紙かと思うと、世も末だ。これは、血みどろの殺人事件が始まるという予告状に違いない。でなければ、ジプシー占いにでも送るつもりが、ポストマンが手違いで、僕に寄こしたんだ」

ホームズは、ワトスンに寄りかかるようにして、手紙を手渡した。温かな身体から、じわりと体温がワトスンに伝わる。

ワトスンは、顔を顰めた。

「僕にも読めっていうのか?」

「君なら、興味があるはずだ」

自分がつまらないと言ったものをも、ワトスンに差し向ける、こういう時の小憎らしいホームズの顔は、事件そのものよりも、自分に対し、ワトスンが興味を向けているからだと確信しているからに違いないと、医師は思っている。

「だけど、君、愛人が二人もいて、本家の子供の他に、その子供3人にも、無事財産を分けようなんていうことは、所詮無謀な望みだとは思わないかい?」

ちょうど、その辺りを、医師の目は追っていた。

「はっ、これは、法律家にでも、送るべき手紙だ」

手紙は、ホームズの説明通りの内容であり、憤慨は、医師の口調を強くした。

「揉め事を起こさない財産分与の相談などという手紙に、送るべき返事を僕は持たない」

「だが、ホームズ、この手紙には、他所に子供が3人とあるだけだ。その子供たちの母親が二人いるとは書いてないようだが?」

にやりとホームズは笑った。

しかし、それきり、黙ったままのホームズは、種明かしをしないつもりのようだ。

「どうしてだ? 僕に答えを教えないつもりか?」

「説明をしてしまえば、途端に君は、興味を失うだろう?」

 

また、医師の口からはため息が漏れそうになった。冷やかすような目をして、にやつく探偵は、ワトスンが、医者としての専門分野をまたぎ越え、探偵をも凌ぐ推理をしてみせることを望んでみせたが、その挑発に乗るのは危険だった。

なぜなら、ホームズは、本当のところ、ワトスンの推理力の冴えなど望んでいない。

ただ、この探偵は、医師の注意を自分に引きつけておきたいだけだった。

そのくらいのことは、凡庸な町医者にすぎなくても、わかる。少なくとも、人嫌いで、人を観察対象とすることはあっても、実際に人とふれあうことを避けてきた探偵などより。ホームズと言えば、何度も、肌を接触させようとしたり、意地悪く笑ってみたり。

 

正直、ホームズの行動に気付いた医者の最初の感想は、恥ずかしい、だった。

あまりにもあからさまに、気を惹こうとする探偵の行動は、その恥ずかしさに、探偵が気付いていない分、余計にワトスンを気恥ずかしい気分にさせた。

それは、まるで、真っ赤な顔をして、わざわざそばまで近づきながら、髪を引っ張って逃げて行く小さな少年の遣り口に似ていた。

だが、もう、ワトスンは、その草原での遊びを卒業して遠かった。

残念だが、ワトスンは、そうする少年の胸の高鳴りも知っていれば、その行為をさせる欲望の行く先に対して、少年が無垢だったことも記憶にとどめている。

つまり、ホームズは、挑発を繰り返してみせるが、その先への覚悟などない。

探偵は、ワトスンのシャツを手に取り、そして、こちらの方が仕立てがいいからだとかなんだとか、自分を納得させるのだろうが、本当のところ、ホームズが、肩の位置の合わないワトスンのシャツを身につけるのは、無意識に抱擁の代用を求めているからだ。

しかも、探偵は、まだ代用で満足なのだ。

その卑怯な素振りは、繰り返し、医師にため息をつかせ、そして、次第に苛立たせてもきている。

 

「ワトスン君。いつもの君なら、質問するまでもなく答えがわかるはずだ。君は今、頭脳に思考させることを止めているだろ」

「頭脳明晰な探偵なら、とっくに気付いていることとは思うんだが、僕は君がこの部屋に現れる前、書類を読んでいた。実は、この書類は、明日の午前中には、郵便で送らなければならないものでね」

ワトスンがさりげなく書類の位置を動かすと、ホームズは機嫌を損なうことなく頷いた。

「なるほど」

そして、肘掛から尻を上げた。部屋を出て行くのかと思えば、ワトスンから程近い位置に置かれた椅子に腰かける。

「君、仕事を進めたまえ。僕は待とう。君が気になっていたこの封筒について、僕たちは会話をするべきだと思わないかい?」

手に持っていた封筒の一つを取り出して見せた探偵は、確信的に、意地の悪い笑いを顔に浮かべている。

 

部屋の中にあるのは、書類をめくるワトスンの立てる音だけだった。ホームズは、黙ったまま椅子に座り続け、だから、彼が自室に引き上げるためのスリッパの音さえない。

その中で、ワトスンは、辛抱強く、書類に意識を集中し、内容を理解し、そして、サインを入れていった。

探偵の読む手紙は、意匠のあるデザインで印刷されたマークから、ワトスンの知り得ないどこかの紳士クラブから送られた有名な探偵であるホームズの入会を促すものだろうと推測できた。

ワトスンが、その封筒を気にしたという事実はない。

そして、ワトスンが気に留めなかったことにも、探偵は気付いていたはずだが、殊更、それに拘ってみせることで、ワトスンが、ホームズの動向を気にし、落ち着かないでいるはずだと、医師の気持ちを逆撫でした。

どんな性質の悪さだと、ため息を通り越し、医師は苛立つ思いだ。

それでなくとも、近頃の探偵の挑発は、度を越してきている。

今も、足を組んだ探偵のつま先が、ワトスンの脛に当たった。

探偵は、それを気付かぬ素振りで、足の位置を変えようともしない。

ワトスンだって、ホームズの挑発がエスカレートしていく原因が、彼の態度に対して、何もなかったかのような態度で臨む自分にあることはわかっていた。

だが、覚悟のないものを相手にどうしようもない。

きっとホームズは、手を握っただけで動揺する。

口づけたならば、立ちつくすに違いない。

しかし、ワトスンは、髪をひっぱることで満足するホームズと違い、その髪を噛むことも、どうやって身体に触れ、刺激し合えば、心地いいかも知っており、意気地無しの探偵にそうしたい。

また、そうなるだけの覚悟もなしに、挑発だけして楽しむホームズは実に卑怯だ。

 

「ホームズ。僕の頭脳も思考できるところをみせよう」

ようやくサインを終えた書類を置き、ホームズへと向き直ったワトスンは、口元へと笑みを刻んだ。

「一つ、この手紙について、僕が気に留めておく必要はまるでない。なぜなら、君がこの紳士クラブに入会することはあり得ないからだ」

「なるほど、なぜ、この手紙が勧誘だと? ワトスン君。そう推理した理由は?」

「君が知っていることの種明かしをしたところで、つまらない。それよりも、君の知らないことの種明かしをしよう」

「へぇ、どんな?」

「君が、クラブに入会しないのは、そこに僕がいないからだ。ホームズ」

ワトスンは、言いながら、手を伸ばし、探偵の着る自分のシャツのボタンを外していった。

突然のことに、ホームズの大きな目は、動揺を浮かべたまま見開かれた。視線は、自分の襟元を崩していくワトスンの腕に釘付けだ。

「君と一緒でなければ、……僕が入会しないと?」

それでも、口を動かし、嫌味な口調でまだ挑発してみせたホームズには、ワトスンもいささか感心した。

「ああ、残念なことにそうだろう」

例え、唇がかすかに震えていようとも。

だから、あっけなく医者は、今晩、この探偵を許した。

もとより、ちょっとした腹立ち紛れだ。

へそまで開けたシャツのボタンを、手早く医者は留め上げていく。

ホームズの目は、それでも、まだ、自分がどんな目にあわされているのか理解できない怯えの勝る目で、じっとワトスンの腕ばかりを見つめていた。探偵は息をするのも忘れている。

医者は笑った。

「ホームズ、何を緊張している? ボタンが段違いだった」

やっと、ホームズは、大きく腕を打ち振るい、ワトスンの腕を払った。

「いきなり、何をするんだ。失礼だな。君は!」

カッと、頬に赤が差す。しかし、その前までは、動揺に頬を白くし、瞬きをしない大きな目は潤み始めてさえいた。

だが、医者の手で、服装を乱され、肌を晒したことは、いままで探偵の自覚の外にあった自分の肉欲を自覚させたようだ。

まだ留められていない首元からは、今までなかった色気を匂わせ、何度も落ち着かない息を繰り返す探偵は、ごくりと唾を飲みこんだ。

ワトスンを見つめるホームズの目は、欲望の獰猛な色があった。

やっと年相応に欲望で胸を荒げるホームズに、ワトスンは少しばかり溜飲を下げる思いだ。

僅かに医者が笑いを浮かべた時、いきなりホームズは、ワトスンの胸倉をつかみ上げた。

自覚による羞恥は、この男から暴力を引き出すのかと、殴られることをも覚悟した医者を引き寄せると、探偵は、噛みつく勢いで口づけてきた。

強く、強く、唇は押し当てられる。

しかし、ワトスンが、口づけに応えようとすると、強く瞑られていたホームズの瞼が音を立てる勢いで開いた。

獰猛で、挑発的な瞳をしていながら、きつく見つめる探偵は、ワトスンがキスに応えることをはっきりと拒絶した。

いくら、ワトスンがその瞳の中をさぐろうと、探偵は卑怯にも、ワトスンからの行為を許すつもりはないとはっきりと拒絶していた。

 

「今のキスは……?」

やっと胸倉を離されたワトスンは、ホームズに尋ねた。

「どうとれば、いいんだ、ホームズ?」

「それは、明日考えることにしよう。おやすみ、ワトスン」

 

意気地なしめと、ワトスンは、心のなかで罵った。

 

 

END